「幸せ」の勘違い

誰もがより幸せになりたいと願っているはずなのですが、その肝心の幸せが何なのかが本当はよく分かっていないのではないかと。

それが分からないままに、それを目指してもうまく行かないのは当然かもしれません。一度、具体的に「自分にとっての幸せ」を定義してみるといいかもしれません。

たとえば、不安が消えて安心することが幸せあるいは幸せに繋がる気がするという人は多いかもしれませんね。

けれども、どんな安心であれそれが一過性のものであるなら、今度はいつ不安がやってくるかと思って不安になってしまうのです。

そして、永遠に続く安心というのもあり得ないのです。となると、安心を求めたところで幸せにはならないと分かります。

あるいは願いが叶ったら幸せになれるというのもあります。お金持ちになったら、好きな人と結ばれたら、勝負に勝ったら、自分の価値が上がったら等々。

けれども、これらも叶ってしまうとしばらくはいいのですが、すぐに次の願いごとがやってくるのでキリがありません。

人間はもうこれで十分だというふうにはなれないのです。すぐにまた別の何かが欲しくなってしまうのですね。

こうして見てみると、なんだか幸せという名の幻を求めて生きている感じがしてきませんか?じつはそうなんです。

幸せを求めることをやめた時に、初めて心底の自由と本当の安堵がやってくるのではないかと思うのですね。

視覚のトリック

あるがままを見ることがいかに難しいかという話をします。なぜ難しいかというと、生まれた時からずっと概念や観念や先入観などを混入させてきたからです。

その方法の根底にあるのは、自分の周囲には空間があって、その空間の中に自分も含めた様々なモノがあるという発想です。

何を見るにしても、この大前提がまずあって、その上でそれぞれがどうなっているのかなと観ているわけです。

たとえば向こう側に壁があって、少し手前側にテーブルがあって、一番近くに自分が腰掛けているソファがあると。

このような空間的な位置関係を疑うことができなくなってしまうのです。また、テーブルによって隠された空間の向こう側にも何かが存在していると勝手に思い込むのです。

けれども、そのような空間的な大前提を使わないようにして見てみると、テーブルによって隠された何かがあるという発想も消えてしまいます。

同じようにして、自分の身体が常に視界の一番こちら側に位置しているという認識もなくなってしまうかもしれません。

まるで遠近感のない一つの絵画を目にしているという感覚になってしまいます。そして、これこそが空間とモノという勝手な見方から抜けた瞬間なのですね。

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空間と距離の概念の脱落

昔ハワイに遊びに行った時に、クルマで島をぐるっと回ったりしたことがあったのですが、その時の印象的な経験があります。

それは、海沿いの道が湾曲している絶景スポットでクルマを止めてしばしその眺望を眺めていた時のこと。

見えている景色が自分からどのくらいの距離の場所にあるのか、あるいはどの程度の大きさのものを観ているのか。

そう言った感覚が全く麻痺してしまったようになって、とても不思議な感じがしてしまい、何度も瞬きをした記憶があります。

極端に言えば、かなり遠い景色のはずなのに手が届くんじゃないかというように感じるわけです。だから相当に変だなということは分かっているのです。

つまり一般的な表現で言えば、距離感がバカになってしまったような。それに付随して、物の大きさの検討がつかなくなってしまったような。

今思えば、実はこれこそがあるがままを観ていた瞬間だったのではないかと。空間とか距離といった概念が使えなくなった瞬間なのかなと。

普段目にしている景色からかけ離れたものを見させられたために、無意識に作り出している概念が落ちてしまったのではないかと。

赤ちゃんが見ている世界ってあんな感じなのかもしれないなと思うのです。きっと一度や二度似たような体験を誰もがしているのではないでしょうか。

あそこに非二元につながるヒントがあるのだろうと思っています。

視点をなくす練習

モノはない、実体はないということの最初の気づきが来てから、早くも1ヶ月半くらいが経ちました。

これに名前をつける必要も本当はないのですが、でもそのきっかけをもらった書物や動画が非二元を謳っていたので、それを使うことに。

そしてそこから、これまでの瞑想を主体とする探求が影を潜めてしまったのですが、どうやらまた違う探求が始まるようです。

それは13年も前に一度取り組んだやり方なのですが、それがまた復活しようとしています。それは、ダグラス・ハーディングの方法です。

主には、頭がなくなる感覚による視点が消えるという練習ですね。これをやると、視点が無くなるだけでなく、空間や距離がイメージだったことにも気づけるのです。

普通の瞑想とはまた異なるある種の瞑想と呼んでもいいかもしれません。13年前には、今回ほど興味深さが続かなかったのですけどね。

今回は、実体がないということの気づきがよほど大きかったらしく、これは自我が幻想ということとは根本から異なるのです。

それと相まって、やってきた気づきを自分の日々の生活のなかで定着させたいという思いが強くなったのだろうなと。

ただ静かに瞑想するよりも、よほど面白いのです。どこまで続いて行くのかも興味を持って見守りたいと思います。

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こちら側には年齢という要素がない

昨日は自分の誕生日だったのですが、どうしてどうして相当に考えられないような年齢になってしまったなあと。

普段あまり見ない鏡をあらためて見てみると、なるほどなあと。自分の内側には年齢という要素がないので、普段は気づかなかったのですが。

それなりの風貌というのか、確実に老化してきている外見が鏡の向こうの自分には見て取れるわけですね。

けれども、繰り返しになりますが、こちら側では全く年齢という要素が見当たらないわけで、このズレをどうしたものかと。

年齢という要素がない場所に長らくいて、外側でばかりその年齢のフリはできるものの、内側でくらいは正直でいたいと。

そう、自分自身に正直でいることを心がければ、年齢は消えてしまうし、あえて言えば18歳くらいの精神性かなと。

そう考えると我ながら面白くなってきますね。皆さんは、ご自身の内側には年齢がないって気づいていますか?

これは内面ということではありません。私で言えば、こちら側では頭と顔を持たない状態で、外側も内側もなく見えているもの自体になっている感覚ですかね。

存在するでも存在しないでもない

私たちが知っている世界というのは、モノの世界だと言ってもいいのかもしれません。そして、モノは存在するか存在しないかのどちらかですよね。

ただし、極小のミクロの世界ではその中間のような状態があるのです。たとえば、原子について見てみると。

原子というのは、中心に原子核があって、その周囲に電子が回っていると。その姿を学校で習ったと思います。

実際には、電子というのは雲のようにモヤっとしていて、ある確率で存在すると表現されるのです。

ある確率で存在すると言われても、ちょっと直感的には分かりづらいですが、素粒子の世界はそんなものだと。

いずれにしても、存在するか存在しないかであることには変わりありません。今日はここからが本題です。

存在するでも存在しないでもないというのを想像できるでしょうか?きっとできませんよね。確率がどうであれ、存在するか存在しないかのどちらかである方が分かりやすい。

けれども、大胆に言ってしまうと現実の本質というのは、存在というカテゴリーには属さないのではないかと。

だから「これ」しかないと言った変な表現になってしまうのかもしれないと思ったのです。決して頭で理解しようとしないことですね。

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内側と外側にはどんな境界もない

五感と言ってしまうと、どうしても自分の身体の内側で感じるものという先入観がついて回るのですが、次のようにそれらを分解してみるとどうかなと。

もしも形や大きさなどに捉われることなく、周囲を見てみることができるなら、きっと視覚というのはざっくり言えば明るさと色ではないかと。

そうすると、私たちが感じていることといえば、明るさ、色、音、匂い、味、それと体感ということになりそうです。

体感を除くと、それ以外はどこにその感覚が根ざしているのかはかなり曖昧な感じがしてきませんか?

そうです。体感以外の感覚に場所はないのですね。さらに言えば、自分のこの身体だと思い込んでいるものにくっつけてしまった所有という概念に気づけばいいのです。

そうすると、体感すらどこに由来するものかが分からなくなってしまいます。そうしてみると、全ての感覚には場所がないなと。

この気づきってすごいことだと思いませんか?長年信じて疑わなった自分の五感の起こる場所。もうそれに騙されずにいられるのです。

これで晴れて自分がいなくても、この肉体が幻想であろうとも「これ」の中に感覚も一緒に入り込んでしまいますね。

外側にあると信じていた全てのものと、内側にあると信じていたあらゆる感覚も、どんな違いも境界もなくただこれとしてあるのですね。

「〜って感じ」をつけてみる

もうかなり昔のことになってしまうと思うのですが、コギャルと呼ばれる女子高生たちがいたことがありました。

彼女たちは、決してバカではないはずですが、その喋り方、口調が表現は悪いですがいかにもバカっぽい感じがしたものです。

「〜そんな感じ〜」という言い方で語尾を伸ばすのです。そして、どんな内容のことであれ軽〜く言い捨てるような印象でした。

あれをマネするわけではないのですが、どんな言葉であれ語尾に「〜って感じ」というのをつけて言う練習をしてみませんか、という提案です。

というのも、この「〜という感じ」だけがこの現実で起き続けているというのが、非二元的な世界なのです。

「歩いている」というのを、「歩いているって感じ」という具合に末尾に「って感じ」をつけるのです。

人前では当然のこと口に出さずに心の中で唱えるようにすれば、生活に支障が出るようなこともないはずです。

しかも、否定的な気持ちや深刻な気分の時に、「もしもこうなったら大変だ」という代わりに、「もしもこうなったら大変だって感じ」と言うのです。

そうすることで、幾分当事者意識が薄れて気分の重さが軽減されるように思うのですがどうでしょうか?

そして知らず知らずに非二元的な感覚も養うことができるようになれば、一石二鳥かなと思うのです。

ご興味があればぜひ実践してみてくださいね。

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「自己」ありきでは気付けないことがある

自分がちょっとした気づきを体験したことから、YouTubeや書籍などで覚醒や悟り関連のものをよく見るようになったのですが。

そのどれもが、ほとんど全てと言っていいかもしれませんが、「自己」ありきのことを言っているなあと。

ちょっと前までであれば、なるほど自分もそうなれたらいいのになあという感覚で視聴していたのですが…。

今や全滅です。それほど、「自己」という幻は強力だということです。なんだかんだ言って、自己は様々な形となって残るのです。

これって、気付けないのですね。自分もそうだったのでよく分かるのですが、もうそれは仕方のないことかもしれません。

なんだかそっちの方が幸せな感じがしないでもないのですが、幻想の中での話なのでやっぱり違うなと。

私を含めて誰もいないのに、誰もいないという気づきが起こることが不思議です。これは、気づきに主体はいらないということなんでしょうね。

このことは、「自己」ありきでは、決して気付けないことかもしれません。自己は常に主体を前提にしているからですね。

「真の自己」なんてない

生まれてからずっと自分とは一人の人間なのだと思い、それを信じ込んで生きてきたのです。当たり前ですけど。

ところが、いつの間にか自分を個人だと思い込んでいる自分を「自我」と呼ぶようになり、そこから自我を見つめるようになったのです。

そうしたら自我こそが、苦しみの作り手だと分かったのですね。その頃から、自分の中には個人としての自分だけでなく、もっと無限に広がった感覚があると気づいたのです。

それのことを「意識」として見るようになって、自分の本質は自我などではなく、意識なのだということに目覚めたのです。これこそが、真の自己だと。

自我は思考であり、その思考が鎮まった時には、ずっとあり続けている意識だけがクローズアップされるようになったのです。

そして、どんな時であれ意識の方に注意を向ければ、全体性と呼ぶようになったあの気持ちの良い感覚があることにも気づくようになりました。

自我から外れて、意識へと軸足をシフトして行くことで、自ずと苦しみや不安から解放されるのだろうなと、そう思って瞑想などをライフワークとしてきたのです。

ところがです。この現実の本質には、実体というものがないということに気づいてしまってからは、これまでの流れが急に止まってしまいました。

というのも、個人という自我から意識という全体性へと変遷したとしても、それはあくまでも「自己」ありきだと分かったからです。

自己という実体はないという気づきは、もう決定的であってそこには個人も全体性も何もない、あるのは「これ」だけ。

「真の自己」なんてどこにも見つけることができないとなったのです。なるほど、そう来たかあ…。

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