人は見たいものを見る

私たちはこの世界を見たいように見ている、ということに気づいているでしょうか?自分に都合のいいフィルターを自動的に通して見ているということです。

私の体験をまずお話しします。何かすごく嬉しいことがあって、気持ちが高揚しているような時には、街行く人々がみんな軽やかに感じるのです。

誰もが明るくて、悪い人間がいないかのように感じたりするわけです。もちろんそれほど長続きするわけではないですが。

また、逆に嫌なことがあって、心が荒んでいるような時には、世界全体が灰色がかって見えたりしますね。

あるいは、何かに怒っているような場合には、誰もが敵のような気がしてしまい、自分のことなど誰にも分かってもらえないという気になるのです。

こういう状態を心理学的には「投影」と呼ぶのですが、まさに自分のマインドの中に映写機があって、それがマインドの内容を外側の世界に映して見ている状態というわけです。

もしも宝くじで何億円も当たったら、多少理不尽なことが起きたとしても、それを寛容に笑って済ませる自信があります。

それはマインドの中身がゆとり満載となっている状態を外側へ投影するのですから、全てが薔薇色に見えてしまうわけです。

さて、あなたは今日世界をどのように見ることができましたか?それがあなたの心の中の状態を表していることになりますね。

ーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

時間をかけて変化を待つ

私たちの心(マインド)というのは、理性では分かっていたとしても、絶対に認めたくないということがありますね。

例えば、絶対的に正しいと思って信じ込んできたものをベースに生きてきた、あるいはそれにすがりついて生きてきたとして。

それはもう凄まじい努力と汗と涙と苦しみを伴う生き方だったのですが、その正しさに従う以外に生きる道がなかったのです。

間違った自分には決してなりたくない、そう固く誓えばそうなりますよね。他の生き方など、到底できなくなるわけです。

さあそうなったあるとき、その正しさって間違ってますよと言われたとして、冷静に考えてみたら確かに正しくない感じがしてきた。

けれども、ああ間違っていたんだなと簡単にその間違いを認めることができるでしょうか?イヤイヤできるはずがないのです。

なぜなら、これまでの血と汗と我慢と苦悩の全てが無駄になると思ったら、おいそれとその間違いを認めるわけにはいかないからです。

そんな時、人は理屈では間違いだったと分かるけれど、心がそれを許さないという感覚になるのだと思います。

それを認めた瞬間に、歯を食いしばって耐え忍んできた自分が死ぬことになると感じるからですね。

この場合どうしたらいいかというと、「時間をかける」これしかありません。そして、ゆっくりと心が変化していくのを待つことですね。

ーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

このブログは自分のためにある

実は動画のネタって、これまでずっと書き続けてきたこのブログを主に参考にすることが多いのです。

気がついたら、このブログ書き出して丸十五年以上が経過していましたね。ざっとその数、5,500投稿です。

自分でもびっくりしてしまう数だなと。一つ投稿するのに、仮に平均で15分かかるとすると、この十五年で1,375時間費やしたことになります。

ちょっとすごくないですか?これは、本当に自慢でも何でもなく素直に驚いているわけです。それを1日も欠かさずアップするって。

どれほど急な用事のない人生なんだろうかと。誰だって、今日はちょっと書く時間がなくてアップできなかった、という日がありそうなものです。

書き続けてこれた要因はいくつかあると思うのですが、その一つは何と言っても誰かに強いられて書いてるわけではないということ。

自分が好きで暇に任せて書いているだけなのです。そこには微塵も頑張ったり苦労したりすることがないというのが大きい。

あるいは、書いている内容が自分にとって一番気に入っていることだからというのも大きいですね。

興味のないことを書こうとしたら、きっとすぐに終わってしまうはずだから。とにかく、このブログを書くのにエネルギーを使わない。

そしてたまに過去のブログを読んでみて、ああいいこと書いてるなあと 笑。自画自賛とはこのことですね。

何事であれ大切なことは、自分がやりたいことをやりたいようにやる。これが一番自然だし、自由な感じがしますね。

ーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

知らない方がいいこともある

家を建て替えるプロセスが進行中なのですが、これまでは家の基礎部分に取り掛かっていたのが、今日から「上棟」と言って実際に目に見える家を建て始めたのです。

最近は、全てを工場で作ってきてしまい、それをクレーンで吊っては組み立てるを繰り返すことで、あっという間に作られていきます。

面白いから見た方がいいですよと営業の人に言われたので、朝一から間近で見ていたのですが、もう大工さんは失業するかもと思いました。

狭い路地に巨大なクレーン車がセットされている姿を見るだけでも、隣の家や電線やらをかいくぐっての作業がハラハラもの。

見ていると、つい大丈夫なのかと心配になってしまうので、私は早々に引き上げて帰ってきてしまいました。

私の性分としては、プロセスを見て楽しむというよりも、知らないうちにプロが作り上げてくれるのをただ待つ。

そして無事出来上がったら、安心して見に行く。そっちの人間なのかなと。情報が多ければいいというわけでもないなと。

知らない方が気が楽ということもあるということですね。それにしても、着々と作業を進めていく様を見ていると感心してしまいます。

自分には当然ですがそんなことはできないし、みんな凄いなと。応対してくださる態度も大人だし。

昔の偉そうな棟梁のような人なんていないのですね。時代が変わったといえばそれまでですがね。

ーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

知らないことは清々しい

以下のoshoの言葉から、「無知の知」という言葉を思い出しますね。

『ほんとうに真実を知りたいと思う人に求められる第一の誠実さは、”自分自身で知っているもの”と”ただ受け売りで知っているもの”をはっきり見分けることだ。そして借りものは何であれ投げ捨てるのだ!それはすべてがらくただ。他の誰かの体験に知識の上でよく通じるよりも自ら無知であるほうがよい。』

自分自身で知っているものと、ただ受け売りで知っているものとを見分けるにはどうすればいいのでしょう?

かつてガガーリンが宇宙へ行って「地球は青かった」と言ったことは知っていますが、我々は地球が本当に青く見えることは知りません。

あるいは、この絆創膏は優れものだよと言われたら、ああそうなんだと思って、受け売りの知識を得たことにはなります。

けれども、自分で何度もその絆創膏を実際に使ってみて、確かに優れものだなと納得するなら、それは自分自身で知ったことになるのでしょうね。

こうして見てみると、外部からやってきた情報として知っているということと、自分の体験として知っているということの違いなのかなと。

だとすると、学者さんには失礼なことになってしまいますが、どれほどたくさんの文献を読んだとしても、その知識は受け売りの類になってしまいそうです。

とはいえ、この世界で役に立つことは大いにあるのでしょうね。そしてもう一つ、自分は何も知らないという状態にもなれるのです。

それは、記憶へのアクセスをやめてしまうことで体験することができます。それを面白がる心の余裕があるといいですね。

何も知らないということに気づくのは、とても興味深いことですし、清々しい気持ちにもなりますね。

ーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

宗教を間違えるな!

宗教というと、それだけで毛嫌いする人が多いと思いますが、それは組織宗教ばかりが目だっているからだと思っています。

組織化された宗教団体というのは、本当の宗教とは全く関係ないことに気づいた方がいいと思うのです。

真の宗教とは、完全に個人的なものであってみんなで何かをするというものではないのです。団体に入信するとかではありません。

誰かに言われたことをしっかり守るというのでもないのです。なぜなら、個人的なものだからですね。

そのことに気づくことができれば、宗教への偏見は消えていくと思います。私自身は、ピラミッド型になっているものは、すべて敬遠しています。

団体の誰かのためにという変な目的が生じたなら、もうそれは宗教ではないと理解できればいいのです。

戒律とか、ルールとか、そういうものを大事にするのも非常に苦手です。これをしてはいけない、これをやったら地獄に落ちる等々。

理由は簡単です。人間は、ありのままの自分自身でいること、より自然でより自由であることこそが、宗教そのものなのだと思うからです。

ーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

自我が薄れる瞬間、全てがどうでもよくなる

セラピストとしてクライアントさんと向き合ってきた20数年間、いつも自分の存在価値にしっかり気づくことが大切と思ってきました。

自分という存在が、紙っぺらのように薄い感じがしたら、それは不安だし心許ないのは当然のことです。

その状態で自己肯定しろっと言っても無理があります。だから、どんな手段を使ってでも自分の存在価値に気づいて下さいと言ってきたのです。

そのことに間違いはないのですが、自分がよく瞑想をするようになったからなのかは分かりませんが、自分自身の感覚に変化が起きています。

それは、自分の価値などに興味がなくなったというのか、自分が生きた証などもまったく不要な感じがするのです。

自分というのをイメージすると、消えて無くなってしまうか、あるいは全体かのどちらかになってしまいそうです。

消えてなくなる側で言えば、存在の価値も存在の意味も消えて、つまりいてもいなくてもいいくらいの存在かなと。

逆に全体の側で言えば、何から何まで全てが自分自身という感覚というのか。人生で起こることのすべてが自分の内側で起きている感じ。

個人としての自己が薄れて、どんな期待も目的も消えて、ただ静かに在るだけのような感覚が近い感じがします。

とはいえ、また明日外出して人と会うといつもの自我に逆戻りしてしまうのでしょうけれどね。

ーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

「無難な人生」より「楽しい人生」

自我として生きている限り、ドラマは続きますね。それが、喜劇であったり悲劇であったりするのですが、心は縦横無尽に揺さぶられるのです。

愉快なこともあれば、悔しいこともやってきます。嬉しいこともあれば、悲しいことも必ずやってくるのです。

そうやって、どうにかこうにか毎日が続いていくことで、気がつくと自分でもびっくりするような年齢になっています。

45歳で人生の転機を迎えるまでは、「無難な人生」をモットーとして生きてきたように思っています。

なるべく動揺したり、苦しんだりせずに人生が進んでいけばいいなあと、そう思っていたのですが、大腸ガンという大きな厄介がやってきて、人生が変わりました。

それからは、人生何があってもおかしくないということに気づいたし、無難な人生よりも楽しい人生の方を選ぶようになったのです。

もちろん、嫌なことはなるべく起きないに越したことはないのですが、それでも起きることは起きてしまいます。

それを憂うことよりも、この自分という自我を受け持ったのですから、そいつと共に楽しむ人生になればいいなと。

何であれ、深刻になってしまうよりも、それを面白がってしまった方が勝ち!

ーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

自我がついて来れない場所

またまたoshoの素晴らしい言葉が目に止まりました。

『沈黙の中に深く入っていくほどに
欲望も消えていく
欲望は周辺にだけ留まるようになる
それはあたかも、水面の波のようなものだ
海の中に深く潜っていけば、そこに波はない
欲望もまた、意識の周辺にだけ存在するようになる
深く潜っていけば・・
深く入っていくほどに、欲望も遠ざかる』

やっぱりそうですよね。意識の上っ面を生きているなら、そこには自我の欲望がウヨウヨしているわけです。

それを無くすことは不可能なことのようです。それはそういうものだからですね。自我を無欲にすることはできない。

だからそこから離れていくしかないのです。自我がその欲望と共に、ついて行かれない場所へ行ってしまえばいいのだと。

それが、「沈黙の中深く」ということのようですね。このことは、直感的に理解することができます。

なぜなら、自我は沈黙を続けたなら弱体化していくに違いないからです。そして何もないところでは、自我は活動できないのです。

だからそこまで自我がついてくることはできない。瞑想中に自我の欲望が消えていかないのなら、それは自我が瞑想をしている状態なんでしょう。

今日も自我がついてこれない場所まで行けたらいいなと願いながら、瞑想をすることにしようと思います。

ーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

全く違う人生を生きていることに気づく

このoshoの言葉には、フットワークの重い自分の生き方を少し認めてもらえた気がして、ちょっと嬉しいです。

『人間は不思議な動物だ
あらゆる物を探求する
エベレストに行く
北極に行く
月に行く
しかし、自分自身の内側に行こうとはしない
これが、人間が抱えている最も大きな病だ』

ですよねえ、周囲の多くの人たちが行ったことのないところへ行ってみたい、そう思っているように感じています。

家人がよく言います。私はどこへも連れて行ってもらえないと。私は、行きたいところがあるなら、自分で行けばいいと。

そうすると、一人で行ってもつまらないと。そうなんですね、じゃあ行きたい人と一緒に行けばいいのにと。

広大無辺の宇宙にも勝るとも劣らない己の内側には、興味がない人が多いのですが、それはその人の自由なので、全くもってOKです。

だとしたら、物理的なフットワークが悪くて、訪れたことのないところに特別行きたいと思わない人がいても、それはそれで自由ではないかなと。

私の興味は、もっぱら自分の内面に向けられていて、それはもうどうしようもないのです。近くにいるとしても、人はそれぞれ全く異なる人生を生きているということですね。

このoshoの言葉、自分の部屋の壁にでも貼っておこうかな。

ーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。