人格にも道徳にも一切の興味がない

以下のoshoの気持ち良い文章を味わってみてください。

『私は人格には全く興味がない
道徳にもいっさい興味がない
私は人々に不道徳になるようにと
言っているわけではない
私は人々に意識的になるように
意識を生み出すようにと言っている
そしてそれこそ瞑想の真意だ 』

まさに我が意を得たりと言ったら、とてもおこがましいのですが、でもそのくらいに激しく同意しますという感じなのです。

元々父親譲りなのかもしれませんが、正直なところ、個人個人に対してそれほど特別な興味や関心というものが薄いのです。

つまりは、人格という自我が作り上げたその人の社会的顔には殆ど興味を持ったことがないのです。

人とのご縁を大切にしなさいという言葉がありますが、確かにそれはそうなのだろうと思ってみても、現実はご縁がすぐに切れてしまう。

そして、道徳も同じ。興味がないというよりも、もう少し積極的な意味合いでどうでもいいという感覚を持っているのです。

やっぱり大切なことは、いかに意識的であり続けられるか?もうこの一点しかないというところに行き着くのです。

自分のこうした傾向が嫌いなわけではないし、今更変えていけるような物でもないだろうし、今回はこういう人生なのだろうなと。

視点が高くなれば、新たなゲシュタルトが作られる

どんな漢字でもいいので、それをじっと見つめていると、そのうちにそれが漢字とは思えないようになって、読めなくなってしまう現象があります。

それをゲシュタルト崩壊と呼びます。皆さんも、大抵は経験したことがあると思います。ゲシュタルトが崩壊するとはどういうことか?

要するに、私たちは漢字一文字を読む時に、部分部分を見てそれをまとめて一つの漢字と認識するわけではないのです。

部分部分から全く異なる全体としてのなんらかの意味を生み出して、それを一つの漢字として認識しているのですが、それをゲシュタルトというのです。

そのゲシュタルトが崩壊してしまうから、その漢字が漢字としての意味を失ってしまって、読めなくなるというわけです。

漢字に限らず、私たちは沢山のゲシュタルトを無意識的に作り出して、その認識の上で生活をしているのです。

視点が高くなると、それまでバラバラにしか見えていなかったものが、一気に全体として意味を持つようになることがあります。

ということは、視点が高くなることで新たなゲシュタルトが生み出されるということです。そのゲシュタルトによって、新たな気づきがやってくるのです。

そう考えてみると、自分の波動が上がって次元さえも上がっていくなら、当然のこと視点が高くなり、新たなゲシュタルトが作られて気づきもやってくるようになるのですね。

より高次の存在が、私たち地球人よりも多くのゲシュタルトを持っていると考えれば、我々には考えも及ばない気づきを持っていても不思議ではないですね。

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事務処理が苦手過ぎる

もうそろそろ家にまつわる様々な処理から解放されるかなと思っていた矢先、東京都から分厚い封筒が届いていて、不吉な予感。

予感は的中していて、8月5日までに家屋調査確認票なるものを提出すべしと。平面図、立面図、矩計図、仕様書、建築確認申請書、床暖房設備図、空調設備図等々の提出だと。

今の今までハウスメーカーさんにお任せでやってきたので、急に言われてもどれがどれだか皆目分からない。

家を建てるってこんなにしんどい思いをしなければならないのか。もう少し経済的に余裕があれば、絶対にマンションの一択だなと。

おまけに、長期優良住宅の「固定資産減税額申請書」を作って、都税事務所まで行って提出してこなければならない。

ちなみにこれは、向こう5年間は固定資産税が半額に減額されるというありがたいサービスなんだけど、手続きがめんどくさい。

なんでこれほどまでに事務処理が苦手なのかが分からない。初めて確定申告したときなどは、気が遠くなりかけましたから。

確定申告はさすがに繰り返しやってきたので、もう慣れっこになったのですが、家の書類など一生に一度きりだろうから、慣れるなんてことはないし。

もうしばらくは、業者やら書類などの対応に追われる日々が続くのかなと、ちょっと悲しくなったりして。

そしていつものように、「これもまた過ぎ去るだろう…」で凌ぐことに。そして、あとは気持ちよく瞑想をして寝るだけ。

振り回されたとしても、意識的であることは忘れない

今日は日頃、何事もなく暮らしている私にとっては、色々な問題が起きてはそれを解決するというループを繰り返す1日でした。

朝早く、ハワイの会計士さんからのメールに起こされたのです。そこには、還付金を受け取るための更なる面倒な作業が書いてありました。

なんと、アメリカの納税者番号のようなものが、知らぬ間に失効していたらしく、それを新たに取得しなければお金は送らんと。

え?これまで何年にも渡って税金だけは取ってきたのに、戻すことになったら納税者番号が必須ですっておかしくないですか?

もう2度と渡航することはないだろうと思ってパスポートも失効していたので、まずはそれを取得するための申請をしなければ。

そう考えているうちに、家内が家の玄関ドアが開かないと。新築の家の玄関の不具合なんて、結構危険じゃないかと。

結果、電池切れであることが判明したので、ネジ回しとキリのようなものを使って無事新品の電池に交換して解決。

そうこうしているうちに、今日の花形であるテレビの壁掛け設置の下調べの業者さんが来て、これじゃあ設置できませんと。

急いで量販店に取付金具を取り替えてもらいに行ったら、その寸法では合うものがないですよと言われ。

ただ、粘り強く待っていたらようやく一種類のみ使える金具が見つかって、メーカーの保証も取り付けて、事なきを得たのです。

さて、オンラインでパスポートの申請ができると知って、あれこれ作業をしてこれで最後となった時に、あなたの所在地ではまだサポートされていませんと。いい加減にしてくれよと。

それで急きょ、近くの量販店の前にある3分間写真で撮影をし、また近くのコンビニで戸籍謄本を取得して、いざ池袋のパスポートセンターへ。

申請を受理されるまでにまず待たされ、ようやく番号を呼ばれて窓口へ行ったら、その戸籍謄本じゃダメだよと。

急いでアルパ一階にあるプリンスホテルの中にあるファミリーマートで、正しい戸籍謄本を取得して、結果として申請を受理されたのでした。

自分にとっては、なんとも忙しい一日だったのですが、意識的であることだけは忘れないようにしていられたのが唯一の救いですね。

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私たちはフィクションの中で生きている

私たちのこの宇宙が、どれほど広大な物であれ結局、宇宙空間に存在するのは天体ばかりですね。

なぜかというと、単純な物理法則がベースにあるからです。例えば、太陽と同じくらい巨大な象が宇宙空間にプカプカ浮いているなんてことはないわけです。

なぜなら、物理法則がそんなことは不可能だと導くからです。その結果、宇宙には天体と呼ばられる物以外はないのです。

法則というのは、あらゆる物事をシンプルにしてしまうのです。複雑にする法則なんて聞いたことがありません。

最も宇宙でシンプルだなと思わされるのは、宇宙には素粒子しかないということ。その素粒子だけで、この世界が出来上がっているのですから、これほどシンプルなことはないですね。

素粒子というのは、これ以上分割できないような極小の粒です。その粒だけで、この宇宙が成り立っているのです。

そう、太陽も地球も、私たち人間も象さんもスイカもタンポポもすべてです。見るスケールを小さくしていけば、そういう世界になっているのです。

それ以外、どんな違いもありません。人間とスイカを分け隔てるものは何もないということですね。水や空気や石ころだって、私たちと何の違いもないのです。

そこにはどんなドラマも意味も価値も何もありません。あると思えるのは、私たちが勝手に作り出した妄想、フィクションです。

すべては作りものだと見抜くことができれば、そこには清々しい生の本質が見えてくるのですね。

結果よければすべて良し

先日食事をしているときに、歯の被せ物が取れてしまい、そこをかばって物を噛んでいたら今度は反対方向の差し歯がグラグラし出してしまい、ややピンチ。

いつもの歯医者さんに連絡したところ、2週間くらい先まで予約が取れないと、とてもつれない返事をもらったのです。

しばらく我慢していたのですが、もう差し歯のグラグラが限界になってきたので、どの歯医者さんでもいいから治してもらおうと。

友人に調べてもらったら、なんと事務所の隣の量販店の中にあったので、今日その歯医者さんに行って治してもらってきたのです。

そこでちょっとした衝撃体験?をしたのですが、いつもの歯医者さんと違って治療するところが8席以上もあるような大きなスタジオのような空間。

常にガヤガヤと誰かの話し声が聞こえているような、まるで工場のような場所なのです。こんな歯医者さんの大型店舗は初めてです。

そしてもう一つ驚いたのが、処置してくれた歯科医の女性が若くてものすごく優しいのです。なんだか自分が幼稚園児にでもなった感じ。

いちいち「ごめんなさい!」と言いながら、処置をしていくのですがそれがワザとらしくないので、とても安心させてもらえるのです。

これまで随分とあちこちの歯医者さんを渡り歩いてきましたが、今回の歯科医さんは別格かもしれません。

歯の具合が悪くなるネガティブな経験とは裏腹に、とても心地のいい経験をさせてもらって、結果良ければすべて良しだなと。

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子供は大人の目を盗んで悪さをするもの

小学生の頃というのは、あまり罪悪感とかは感じずに色々やらかしていましたね。そのうちのいくつかを思い出したので書いてみます。

近所でいつも一緒に遊ぶ友達のお兄さんと、その家の床下に潜り込んで遊ぶということをやっていました。

家の裏側に、鉄の板のようなもので塞がれている場所があって、それをどかしてみたところ家の下側の空間に潜り込むことができたのです。

そこに色々な自分たちだけの物を持ち込んで、過ごしていたと思います。この遊びは、不思議なことに友人のお兄さんとだけの楽しみでしたね。

また、信じがたいことに小学校低学年のくせに、タバコを吸っているやつがいたのですが、この話はもう時代を感じさせるモノですね。

近所の少し大きめのドブが塞がれてトンネルのようになっているところに入っていくと、そいつがタバコを吸っていたのです。

こいつ、子供のくせにタバコなんて吸ってと思ったのですが、お前も吸うか?と聞かれて流石に断った記憶があります。

あるいは、これは高学年の頃だったと思うのですが、少し年上の人と一緒に学校の体育館に忍び込んで遊んでいました。

その頃、いわゆるマット運動とかの体操が大好きで、先輩と友人と3人で広い体育館を自由に使いまくるのですから、ウハウハ状態です。

マットなどの道具も使いたい放題で、随分と熱心に練習をしてたと思います。あれで、怪我でもしてバレたら、相当な問題になっていたでしょうね。

実際に学校で、体育館に忍び込んで遊んでいる人がいると噂になったので、速攻でやめました。いたって気は小さい方でしたから。

子供の時というのは、親や大人たちの目を盗んでいろいろな悪さをするものです。自分がやってきたことなので、自分の子供がやっても怒ったことはありませんね。

対価という発想に、愛が入り込む余地はない

私たちが暮らしているこの貨幣経済の根っこにあるものとは、対価を要求するという考え方です。つまりは、取引という発想が原点なわけです。

これだけのことをやったのだから、それに見合ったものを求めるのが妥当であるという考え方ですね。

こうした対価を必要とする考えというのは、やりたくてたまらないことをやった場合には発生しないものです。

なぜなら、やりたいことをやれたことで満足しているからです。そこで完結してしまっているからですね。

逆に言えば、対価を要求しなければならない場合というのは、基本的にはそれほどやりたいことではないことをやった場合ということになります。

お婆ちゃんの肩を叩いて、お小遣いをもらうという時、肩を叩いてあげたい気持ちが止まらずに叩くのではないですね。

一種の労働の対価としてお金をもらうという発想です。会社で働いて、その対価として給料をもらうのと同じことです。

少し病んだお父さんになると、働いた対価として家族からありがとうと言って欲しいと思ってしまうこともあるかも。

もっとひどくなると、子供達に向かって誰のおかげでご飯が食べられると思ってるんだ?などの暴言を吐いてしまうことも。

家族に食事を作っている奥さんやお母さんが、ご主人や子供達から「ご馳走様」と言われないと満足しないというのも同じこと。

こうした発想は全てそこに愛の要素が欠落してしまっているのです。だから感謝してもらわねば気が済まないとなるのです。

対価という考え方自体、それは取引な訳で、そこには愛が入り込む余地はあまりないような気がして残念です。

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瞑想ができる幸運が続いている

聞いた話しではあるのですが、ブッダが生きていた頃に、「自分の内側を深く見つめてみれば、そこには個人というものの片鱗もないと分かって楽になるよ」と言ったとか。

それは良い事を聞いたとばかりに、きっと多くの人が内側へ内側へと入って行ったはず。でもなかなか自分がいないと見抜くことはできなかったのでしょうね。

それについては、現代でも同じことが言えると思います。左脳偏重の社会になって、益々意識的であることが難しくなってしまったかなと。

そしてようやくその反発として、瞑想の効果がまた広く認められるようになってきたりして、多くの人々の意識革命が起きつつあるように感じます。

一年位前から幸運にも瞑想をする人生がやってきていて、それがまだ継続しているのですが、ただ瞑想を妨害する事象も起きてきています。

身体の具合が悪くなってみたり、つい翻弄させられてしまうような事象が周りで数珠繋ぎのように起きてきたりしています。

あれ、自分てこれほど外界の出来事に右往左往させられてしまうんだっけと。その辺を甘く見ていた感じがしています。

ただし、「これもまた過ぎ去る」という魔法の言葉があるので、ドツボにハマるようなことはないので助かっています。

今年の秋辺りになったら、瞑想会でも開いてみんなで一緒に気持ちいい体験を共有できたらいいななんて、ぼんやり考えています。

その時には、ぜひご参加くださいね。

意識的であることが如何に大切か

やっぱり大事なことは、どれほど意識的でいられるかということですね。最も大切なことと言ってもいいかもしれません。

クライアントさんとお話しをしていて、痛感するのはご自身のことについて本当によく分かっていないということです。

外界で起きることばかりに注意が向いていると、どうしたって無意識的な生き方になってしまうということです。

そういう生活が続いてしまうと、自分自身を見つめてみるということをしないままに人生が推移していってしまうのです。

簡単に言えば、自分のことを本当に理解できていないという状態。何も分からないと言った方がいいかもしれません。

よくそんな状態のまま生きてこれたなと思うばかりです。その原因はたった一つであって、明らかに無意識的に生きてきたせいだろうと。

自分の周囲に起きて来る事象に対して、ただ反応するだけの生活を続けてしまえば、それはもうある意味動物と同じなのです。

それはオーバーに表現すれば、まるで夢遊病のようにさえも思えてきます。そこから脱却して、自分は意識的な存在だということを忘れないこと。

とにかく周囲に流されずにそれを見ていればいいのです。見ることに専念することができれば、あなたの意識はちゃんと使われるのですから。

兎にも角にも意識的でいられるように練習しましょう。これができなければ、人生は本当には変化することはないと思ってくださいね。

そのくらい大事なことだということです!

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