時間差は必要なものかもしれない

非二元の気づきがやってきてから、日々の生活が何か変わったことがあるかと聞かれたら、ほとんどないと答えると思います。

同じような朝が来て、同じような毎日が始まることに違いはないからです。だから直接の影響はほとんどないと言わざるを得ません。

けれども、これはその人の個性にもよることだと思うし、一概には言えないのですが、私の場合は時間差を持って少しずつの変化はあるように感じるのです。

あの時あの気づきがやってきたのに何の変化もなかった。ところが、また同じ気づきがやって来たにもかからず、今度は自分の体感に変化を感じるのです。

これはもしかしたら、心の癒しと同じで癒されたからと言ってすぐに毎日の生活が変わるわけではないのだと。

それでも、ある時ふと気づくとこれまでの自分とは違う生き方をしていることに気づいたりするわけです。

自分の気づきや癒しというものが、具体化して表に出てくるまでにはそれなりの時間が必要なのかもしれません。

だからこそ、目的意識をなくした状態でもただ心がけることを継続することは、意外と意味のあることなのかもしれないですね。

逆に言えば、即刻の変化というのはきっと一時的なものであって、自分のものにならずに定着しないということもあるのでしょうね。

記憶を使わなければ気づいていることだけがある

非二元の探究を通して思いっきり気づいてしまったことがあるのですが、それは本当は知らないのに知っていると信じてしまっていることばかりだということ。

一番身近なところで言えば、自分は男性だとか、年齢はいくつだとか、国籍はこれこれだと言ったことです。

こうした情報というのは、記憶の中のデータとして知っていると思っているのですが、記憶を使わなければ知りようがないのです。

そして、記憶が本当はどんなものなのかについても私たちは本当には何も知りません。あるいは、今部屋の中にテレビがあってテーブルがあることを知っていると思っています。

けれども、あれがテレビだとかテーブルだと認識するためには、これもやはり記憶データを用いる必要があるのです。

それを無意識でやってしまっているので、感覚としては直に自分は知っていると思ってしまうわけです。

記憶を使わずに知っていることは何かあるでしょうか?今この瞬間気持ちいいとか悪いとかを知っていると思うかもしれません。

ただしこれは単に気づいているという言い方の方が妥当なのです。知識でないものは知ることはできないのですから。

全ては儚い幻

「およそ形あるものは全て幻である」これはお釈迦様、つまりブッダの言葉として言い伝えられているものらしいです。

こんなにシンプルなこともブッダは弟子たちに対しては、言っていたのですね。でもあまりに日常の生活とはかけ離れた言葉なので、一般の民には言わなかったのかもしれません。

それがどれほど真理であったとしても、その言葉を聴く相手に対してなんの使い道もなければ、用を足さないからです。

非二元の話もそれと全く同じです。幻想を幻想と見抜いて背負っている荷物を降ろすことに興味がなければ、非二元の話も何の意味もありません。

全ては幻だという言葉を聞いて、一つ新しい貴重な知識が増えたと感じるのなら、それはもう台無しになってしまっています。

真理は知識ではないからです。真理は、知識も幻に過ぎないということの気づきからしかやってくることはないからです。

形あるものも形のないものも、この世の全ては幻のようなものです。来ては去っていく儚いものなのですね。

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あるのはいつもただこれだけ

非二元をもっと体感するために、どこかに素晴らしいヒントになるような書籍はないかなと思って、これはと思うものを読んでみたり。

あるいは、自分なりに考案したさまざまなワークを試してみたり。そんなことを続けてきたわけですが。

そうした探究のようなものが尻すぼみになってきた今、それでもまだ新たな気づきはやってくるものですね。

もっと正確に言うと、新しくはないのですが気づきの深さや精度と言ったものが変化するということです。

今朝部屋で静かにしていると、自分という個人がこの身体の内側にいるという想像がゆっくり傍へ退いて行ったのです。

なくなったわけではないのですが、それを使わずにいることができるようになったのですね。ただそれだけのこと。より正直になれたということ。

想像していただけのことは、ただそうだったと認めて傍へ置く。それだけで、身体の中から解放された感じがします。

そうなると、自分が個人だというのが単に想像に過ぎなかったということもより明確になるのです。あるのはいつもただこれだけ。 

際限のない現れに満たされている

通常私たちは、目を瞑ると何も見えない状態になると考えていますが、本当はそんなことはありません。

嘘だと思ったら今すぐに試してみてください。目を開けていた時よりは色の種類が減るし、暗さが目立って来はします。

けれども、何も見えないどころか表現することが難しい様々なものが見えているのがわかります。

音にしても同様で、耳を塞いだところでそれなりの音は感じているのです。子供の頃に父親の実家に泊まりに行くと、夜あたりが静か過ぎて耳鳴りが聞こえたものです。

その耳鳴りがうるさ過ぎて寝られないということがあったくらいです。このように、気づきの立場に立った時にどれほどの現れが隙間なくやってくることか。

これまで一度たりとも、現れがやってこなかった瞬間がないのです。あらゆる現れが、次から次へと来ては去って行ったのです。

これはすごいことですね。これでもかというくらい、この際限のない豊潤な現れによって完全に満たされているのですから。

それでも足りないと叫んでいる自我は、全くもってお門違いも甚だしいとは思いませんか?

何もしないのは難しい

非二元の探究が終わりを迎えようとしている感じがあるのですが、そうなると毎日自分は何をして過ごそうかなと。

セラピストの仕事も相当に暇になってきたし、自宅にいる時にはずっと以前からほとんど何もすることがない。

2年くらい前までは、そういえば瞑想をしたりしていたのでまだ良かったのですが、最近はそれもしなくなってしまったし。

ということで、面白うそうなYouTube動画を見たり、Netflixでちょっと興味を引くような映画やドラマを見たり。

そんなことしかすることがなくなってきたのですね。多忙を極める毎日を送っている人からしたら、きっと羨ましいと思うかもしれません。

確かに、あくせく働くことなく淡々と生きていくことができると思うと、それはそれで有り難いとは思うのです。

ただ自我というのは欲しがり屋さんなので、ないものを求めてしまうのですね。道元がただ坐れと言ったことの真意が今頃わかったような気がしています。

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非二元の気づきを打ち破るものが現れない

非二元の気づきがあってから、科学的なことはもとより、それ以外のあらゆる哲学やら仏教やらの世界と比べてきたのです。

それは今後も続くかもしれませんが、自分が気づいている非二元を根本からぶち破ってくれるものに出会ったことがありません。

自分がこのブログやYouTubeでお伝えしていることを、決定的に否定してもらえるようなものがないのかを待っているのです。

これはとても不思議なことなのですが、自分で自分が気づいたことを全否定してもらえる日を待っているのです。

そうなったら、潔く全面撤回してしまうことができるなと。それはそれで気持ちいいのではないかと思っているのです。

けれども、なかなか誰かのどんな言葉を聞いても、気づいてしまった非二元に足を踏み入れるものが全く現れないのです。

これは一体どうしたことなのでしょう?気づいたことがシンプル過ぎて、どれほど高尚な理屈を持ってこられても、何とも感じないのです。

世界のどこかにいないかなと。私が気づいた非二元を全面的lに、そして決定的に崩壊してくれる人が現れないかなと。

そんなことを思う今日この頃ですね。

内と外という区分けはない

人生の中で、自分に降りかかってくるネガティブなことを二つに分類することができると思っていて、一つは精神的なこと、もう一つは肉体的なこと。

多くの人にとって、精神的な悩みは尽きないものです。それは、自分に起きた出来事がその原因だと思っているからです。

癒しのセッションでいつもお伝えしているのは、出来事はただのきっかけであって、心を痛めてしまうのは自分自身でやっているということ。

このことに気づかずに生きていれば、それは人生にはたくさんの出来事が起きてくるので、その一つひとつが、全部自分の心を直接傷つけることになってしまいます。

内面を傷つけるのは、自分自身の心の一部であることに気づくことはどうしても必要なことなのですね。

その一方で、自分の肉体的な不具合は自分の気分に直接ダメージを与えるとしても仕方がないかもしれません。

ちなみに私自身は、圧倒的にこちらの方が心を傷つける要因である自覚があります。けれども、実はこれも本当のところ心を傷つけているのはやはり自分の心の一部なのです。

この身体が自分自身だという固い信念があるからこそ、肉体的な問題が心を痛めてしまうことになるわけです。

ただこれはとても難しいのです。なぜなら、外側の出来事は自分と切り離すことができる一方で、身体に起こることは内側だという感覚があるからです。

この分け隔てが二元の世界の為せる技なのです。本当のところ、そういった内と外という区分けなど存在しないと気づけばいいのですけどね。

客観的事実なんてない

科学者、物理学者たちが今一番困っている問題とは、私たちの「意識」をどう捉えたらいいのかということです。

彼らはどうしてもこれまでの科学の基本を使いながら、どうやって意識を定義すればいいのかを考え続けているのです。

つまり、宇宙というのがまず初めにあって、その後に地球や私たち人類が現れたということを捨てられないのです。

ここが変わらないのであれば、どれほど努力しようと意識のことを本当に理解することは不可能なことだと思いますね。

あの真っ赤な色を経験することや、あの夕焼けの美しさを体験することを、何としても客観的な立場でしか進化できなかった科学で解明しようとしているのです。

このバカバカしさをどう表現すればいいのでしょうか?科学者は柔軟な思考ができなければいけないはずなのに。

彼らがどれほど逆立ちしたところで、越えられない範囲というものがあるのですが。これが客観的な事実なのです。

この客観的事実というものが、実は思考が作った存在しないものだということに気づくことができなければ、どこまで行ってもクオリアを解明することは不可能なんだろうなと。

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対象が消え、自己が消え、これだけになる

非二元の探究を通して感じたことは、知っていること、分かっているものは一つもないということでした。

俗に言われる、「無知の知」というやつかもしれませんね。何も知らないということだけを知っているということ。

なぜそうなるのかというと、知るとか分かるというのは対象に対してのみ意味をなすことだからなのでしょうね。

普段の生活で、周囲に見えているもの全てが対象物ではないと気づくと、もうその時点で理解することはできないと気づくのです。

そして、対象物でなければ、それを見る主体としての自分も消えてしまうのです。そうなると、見えているものが自分自身であるという感覚にもなるのです。

表現を変えてみると、これまであった個人としての自分の身体が透明になったようになって、景色の中に溶けていく感じ。

「非」二元なので、そうなるのも頷けるのです。そして、これだけになった時に、時間も人生も消えていくことになりますね。