現れを連続である必要がないと体感する

仏教では、苦しみの原因は「執着」だとされています。だからその執着は何に対して起きるかを見る必要があるのです。

それは、変わらないと思っているもの、コントロールできると思っているもの、そして自分のものと思っているものに対して起きるのです。

でも「無常」を本当に見るとどうなるか。当然のことながら、上記の三つのものがそもそも存在していないことに気づくだけではないのです。

そんなことは、論理的に考えてみれば誰にでも分かる当たり前のことです。本当に無常を見るとは、体感として執着の構造を見破ることなのかも。

それは、この世界(現れ)を「連続した物語」としてではなく、「瞬間ごとの発生と消滅」として見る訓練なんだろうなと。

これは大変なことかもしれません。非二元の話の中で、体験には物語を作る思考体験と、直接の体験があるということを言ってきました。

この直接の体験を徹底的に体感し続けることで、ようやく真に無常を知ることができ、その結果が自動的にやってくるのかなと。

不可能に思えるけど、映像の1フレームごとを不連続なものとして体感できるということ?いや、そういうことではないのかも。

むしろ、連続しているように感じていたものが、連続である必要がなくなるってことなのかもしれないですね。

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この世界は不要だった!

非二元のことをお話ししていると、どうしてもこの「世界はない」という表現をしてしまうことがあるのです。

この言葉を聴いてどう感じるかは人それぞれでしょうけれど、さすがに遠慮会釈のない表現だなと思うのです。

あるいは、どうやって世界はないということを証明できるのか?と質問されたら、明確には答えられない面もあるのです。

丁寧に答えるとするなら、この世界があるともないともどちらとも言えないというのが本音かもしれません。

というのも、この世界があろうがなかろうがどちらであっても関係がないからです。つまりは不要だったということです。

なくてはならないもの、なければ毎日が成立しなくなるものでもないということです。この辺の表現も難しいのですが。

目の前の空間に、ピンクの小さな象がぷかぷか浮いていたとしても、それが見えないし聞こえないし触れられないなら、あってもなくても同じなのと一緒なのです。

ここには、必要なものも意味のあるものも、価値あるものも何もないのです。ただ現れが起きては消えていくのみですね。

「私」はどのように生まれたか?

非二元の探究が始まるずっと前から、この私という自我は幻想に過ぎないというのを探究の中心として設定していました。

今でもそれ自体は変わってはいないのですが、一体全体どのようにして「私」という幻想が生み出されたのか?

そのことをしばし見つめていたのですが、きっとこうだろうということを見つけた感じがするのでここで書いてみます。

まず初めに、向こう側に世界がある、向こう側に人がいるということを当たり前のこととして信じてしまったのです。

その結果、ひるがえってこちら側に自分がいるということになったのだろうなと。見えているものの反射としての自分をでっちあげたのです。

もしも、向こう側とか外側という概念がなければ、こちら側というものも作ることはできないので、そこには分離はないわけです。

この順番だったのではないかなと。そしてようやく非二元の気づきと共に、向こう側にあると思っていた世界も人もなかったと気づいたのです。

その結果、この「私」という存在も自動的に落ちていくことになるはずですね。

拠り所が解体される

これまで明確には気づいていなかったものの、物事をどう捉えるかとか何かを判断するときなどに拠り所としていたものがあったのです。

それは、科学的な立場というのか、物事を論理的に考えるやり方とか、これまで自分が経験してきた知見を総動員して考えるわけです。

そういうことが根こそぎになってしまったような、拠り所としていたものが全て使い物にならなくなってしまったような。

うまくは表現できないのですが、そんなことで困っている感じがしています。例えば、全てに原因と結果がついて回るということ。

これ一つとっても、その法則が使えなくなってしまったのです。ある現れが別の現れの原因となることは決してないからです。

そうなると、過去に体験したことがまったく役に立たないのです。だから未来を予想して動くこともできなくなるのです。

そうやって、今この瞬間が際立ってくることはいいのですが、自我としては全てが初めての経験のような感じになってしまったわけです。

これが現れしかないということから逃げずにいたことで、やってきた変化なのです。毎日自分が新米であるような感じがしていますね。

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本当に身も蓋もない

これの全てが現れに過ぎないとなると、分かってはいたもののそこから一歩も離れないようにすると、もうどうしようもないがやってきます。

この世界に80億の人々とともに生きていた頃のあの複雑さからは解放されるのですが、その一方で単純過ぎて言葉にならない。

何かが存在するという可能性がまったく無くなってしまうのですから。長年こうだと思っていたものが全部崩れていくのです。

一人静かにしている時には、それに圧倒される感じもしますが、それ自体もただの現れであって、そこから逃れられない。

あまりにも馬鹿正直過ぎて、オブラートに包むこともままならないし、どうもがいたところで全ては現れでしかない。

このことを心底から認めることはとても難しいのかもしれないですね。もう根こそぎだし、ホントに身も蓋もないとはこのこと。

こっそりと密かに驚嘆しつつ、ごく自然に振る舞うこともできそうですが、そうしたことすら現れの一部でしかないのですからね。

所詮は全てが現れでしかない

非二元の立場に立つと、何かに意味を見出そうとすることや、なんらかの価値があるということからも離れてしまいます。

あるいは、何かにつけ必ずやそれなりの理由があるはずという思考パターンからも遠ざかってしまうのです。

ただそうした現象が現れている、これだけのシンプルなものだけが残っている感じになってしまいます。

思考、感情、感覚、気分、気持ち、記憶、こうした分類があるように思えるけれど、本当のところはどうだか分からない。

この一瞬一瞬が意識の場に現れては消える現象の連続のように思えるものの、それを解釈することも理解することもできない。

本当に何が何だか分からないというのが本音なのです。思考による解説はいくらでもできるのですけど。

それが最近は言葉による説明をしても、これも単なる現れに過ぎないとなって、ちょっと熱が冷めた感じがしていますね。

なんであれ現れが起きている

非二元の探求を通して分かって来たことは、とにかく客観的事実とか、ものの存在というものがないということ。

内側と外側の区別もなく、分離もなく、自我は幻想だけど肉体はあるといったまやかしも通用しなくなってしまったわけです。

昨日のブログで、我々は記憶という機能を使って認識することができると書きましたが、それも最後には単なる現れでしかなかったんだと。

記憶とか思考とか感情とか、名札をつけて呼んでいますが、実際にはどれもこれも現れでしかないことは明らかです。

となると、記憶がなければ比較ができないとか、連続性を認識できないとか言っていること自体も、単なる現れだったということになるわけで。

実体がないという気づきを通して非二元の探求をしていることも、そういった現れが起きているように見えるだけ。

全てがそうなってしまうのです。探求を極めて最終的に覚醒に至ったとしても、そういう現れが起きているだけ。

分かっていたこととはいえ、改めてそこを見つめてみると、なんだかなあという感じがしてしまいますね。

連続的に変化する現れ=無常?

昨日のブログでは、記憶という機能がなければ連続するものがなくなってしまうということをお話ししました。

簡単な話、映画などの映像は1秒間に30枚の静止画を見せられているのが現実です。我々の視覚の残像現象を利用することで、静止画に動きがあるように感じるわけです。

残像というのは一種の記憶です。もしも記憶がなければ、一枚ずつの静止画を高速で見ることになるのですが、果たしてそれはどんな世界でしょうか?

1/30秒という短い間に見ているものを認識することは不可能でしょうね。そもそも認識するには、一定の時間を要するので、記憶がなければ認識そのものができないということになります。

その世界を想像すると、きっと何も見えないのと同じなのかもしれません。あるいは、何かが見えているけれど決して認識できない。

とここまでは、時間の流れがあることを前提に書いてきたのですが、非二元の探求を通して時間は単なる概念だったことがわかっています。

となると、記憶というのも一つの現象でしかないということに立ち戻って考えてみると、もっとシンプルになるかもしれません。

どんな理由もなく、単に連続的に変化する現れが起きているように見える。ただただそれだけなのかもしれませんね。

記憶がない世界を想像できない

今日は記憶について書いてみたいと思います。そもそも記憶って一体ナニモノなんでしょうね。過去を覚えているという不思議な能力?

でも過去はもうすでに消えてしまっているのに、それを保持しているということです。だから連続ということが起きるのです。

何かが連続しているという感覚は、記憶を使わなければ起きないことですよね。記憶がなければ、どんな物語も成立しません。

考えてみるまでもなく、私たちにとって記憶というのは非常に大切ななくてはならないものです。もちろん、その記憶を操る思考も大事なのです。

記憶と思考があるおかげで、物事が連続的に起きているように感じることができるわけです。では、本当のところはどうなのか?

記憶と思考を使わなければ、つまりリアルな世界は全て不連続となってしまうのです。そこには、物語はおろか動きというものがないのです。

そんなのは理解できる代物ではなくなってしまいますね。初めにAを認識して、次にBを認識したとします。

もしも記憶がなければ、AとBの違いは分からないはずです。つまり、記憶機能がなければ、あらゆるものは常に新鮮で、比較という概念が成立しないのです。

何かが発生して消えていくという時、記憶がなければ発生したことも無くなるし、消えたこともなくなるのです。

やっぱり何もない。どんな現れもないのですから、それは想像を絶する世界かもしれないですね。

現れすらない

ここのところ、仏教の「無常」を題材にして色々考えたりしていたのですが、おかげで非二元の説明に厚みが生まれてきたように感じています。

この世界の原理としての無常を見て分かるのは、私たちは無常性に支えられて生きていると言っても過言ではないのです。

なぜなら、変化がなければ楽しむことが全くできなくなってしまうからです。人生を生きるということは、すべからく変化を土台としているからです。

そのくせ、誰もが求めているのは永続的な安心なのです。つまり、最も無常性と相入れないものを求めているわけです。

不可能なことに願いを込めているので、それは絶対に叶うことはないし、それこそが苦しみの根源なのです。

そうしたこの世界の根本原理である無常性は、本当にリアルなものでしょうか?変化というのは、時間の流れの中での比較に基づくものですよね?

ということは、記憶が前提ということになってしまうのです。過去は妄想の中にあるので、変化も妄想ということになるのです。

結果、無常とは妄想ということになり、非二元で言うところの現れというものも本当はないのだろうということになりそうです。

ああ、何にもなくなっちゃった。

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