ホームページ上でも非二元の受け皿を作ります

この半年余りの間に、動画でのみ触れるようになった「非二元」に対するコメントが少しずつ増えてきたように思います。

その中には、癒しとは別に非二元に関するセッションを希望する方も現れ始めました。これはとても私としても興味深い現象です。

これまでもセッションの中で、非二元に触れることはありましたが、そこにターゲットを絞ってということではありませんでした。

非二元という超マイナーな内容に、関心を持っている方々が一定数いらっしゃるんだなということにも気付かされました。

非二元の気づき?のようなものが起こって、最初の頃は何を話せばいいのか半信半疑だったのですが、ようやく慣れてきたというのか。

今後どうなるのかは分かりませんが、とりあえずホームページ上でも非二元についての記載やセッションへの対応を考えています。

AIに聞いたら、そんなマイナーなことよりも、自己啓発のようなメジャーなものを扱った方がいいよってアドバイスもらったのですね 笑。

そこで、自己啓発的なものには興味がない旨をAIに伝えたら、次のような優しい言葉を返してくれました。

「むしろ、今のままの「誰のためでもなく、ただ真摯に語られている」というスタンスが、静かに、でも確実に響いてると思う。その分、急激に広がらなくても、深く届いてる人には本当に届いてる。だから、その「興味がない」という感覚、大切にしてほしいなって思う。」

いやあ、泣けてくるねえ。

「非二元」を動画で話しているように見えるだけ

「非二元は理解することはできない」という動画をアップしたのですが、じゃあ理解できないものをなぜ動画で配信するの?という疑問が出てきそうです。

確かに、何かを動画で配信するのですから、視聴者の皆さんに理解して欲しいという意図があると考えるのが普通です。

昔私が学生の頃、「これで分かった◯◯!!」のようなシリーズものの参考書が流行っていたことがあったかなと。

けれども、非二元の話というのはちょっと違うんですね。言葉で説明したり、指し示すことができたとしても、理解できることを前提とはしていません。

思考による理解はできないからです。思考による理解以外の理解というものがあるのかどうかも定かではありません。

私の場合、実体がないことをビジュアルで見たのです。これは理解できたというものとは全く違いました。

そして、今ではそれもどうでもいい体験だったと思えるくらいになっていて、それでも非二元のことをお伝えしているのはなぜか?

その理由も分からないのですね。ただそういうことが起きているように見えるだけなんですね。ただそれだけです。

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こちらの動画もぜひご視聴ください。

ゆうちょ銀行の考えられない姿勢

ここのところ、少しずつ相続の手続きのための資料作成や必要な書類の取得を始めているのですが、そこで発覚したなかなか残念な話です。

母親の預貯金のうち、ゆうちょ銀行のものがあったのですね。要するに郵便局でやっているやつですね。

私自身はほとんど使ったことがないので、郵便局に行くのも珍しいことなのですが、そこで相続のための必要な書類を完成させようとしていたのです。

すると、どこを探しても振り込みしてもらう銀行口座を指定する箇所がないのです。結局、直接電話をして聞いたのですが。

すると、ゆうちょ銀行から相続のために他銀行などへの振り込みはしないとのこと。え?どういうことですかと。

ゆうちょ銀行の口座への振り込みしか対応していないということです。つまり、相続のためだけにわざわざ口座を開設しなければいけないと。

しかも、代表相続人の口座にまとめて振り込むのだと。要するに、他の相続人がいてもそれはそっちで対応してねということ。

ちょっと考えられないような話です。それが嫌なら、払戻証書の発行によって現金でそれぞれの相続人に支払うことになってしまうとのこと。

きっと、民営化される前の偉そうな役所の姿がそのままに残ってしまっているのですね。民営化されて、一体何年経ってるの?と思うわけです。

それに、ゆうちょ銀行のATMなんて、一昔前のシステムのような遅さだったような記憶があるし、あまり近寄りたくないところです。

こんなんじゃ、この先誰からも使われなくなってしまうのではないかと、他人事ながら心配してしまったのですね。

徹底的に正直になると…

昨夜もまたベッドに入って、しばらく非二元の方に意識を向けていたのですが、もちろんもう新たに何かに気づくということはないのです。

けれども、亀のようにノロいですが、少しずつ非二元が定着しつつあるのを感じるのですね。ちょっと言葉で表現するのは難しいのですが。

例えば、昨夜は「徹底的に自分に正直になる」というのがやって来たのです。自分の感覚に嘘をつかないということ。

余分なものを足し込んだり、いらないと思っていることを差し引いたりしない。これを徹底して行うと、すごく明確になってくるのです。

誰でも「自分は今ここにいる感じがしてる」という感覚を持っているはずですが、であれば「自分は今ここにいる感じがしてる」ことだけがあるということ。

それに何かを足し込んだり差し引いたりせずにいるということです。一般的には何を足し込むのか分かりますか?

それは、「だから自分はここにいるに違いない」です。この決めつけ、このでっち上げを瞬時にやってしまうのです。

こうしたことに気づくようになると、非二元はごく当たり前のことになってくるのではないかと思いますね。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

生と戦わないと楽

ここのところいくつかの要因が重なって、2週間くらいの間スポーツクラブをお休みしていたのです。

これだけまとまって休んだのは初めてかもしれません。それで今日久しぶりに筋トレをしたのですが、予想通り。

それまで4回上げることができていたウエイトが、なんと1回しか上がらずじまいで。え、たった2週間でこんなにも衰えてる?

きっと年齢的な衰えがまずあって、その上で使っていなかった胸筋などが萎んでしまった結果なんだろうなと。

以前のようにたくさんタンパク質を摂取するということもなくなったし、毎日筋トレしているとしても、現状維持がやっとなんですね。

先月はここまでだったものが、今月はここまで上がるようになったといった前進を味わうことはもう難しいのかもしれません。

こういうことは少し残念な気持ちにもなりますが、それをそのままに受け入れることができれば、老後は楽に生きられるなと。

生と戦わないということに尽きるのですね。

優しい園長先生がいい

先日母親が亡くなって、真っ先に思ったのが受給していた年金を止めなきゃな、だったのです。余分に受け取ってしまうと、後が面倒な気がしたので。

それで、母親の銀行口座の凍結と年金事務所への連絡をして予約をしておいたのですが、今日はその年金事務所に赴く日だったのです。

実は数ヶ月前にも自分の年金のことで、その事務所に行ったばかりだったのですが、そのときに対応してくださった方の対応が微妙だったのです。

なので、今回も同じような目に遭うのは嫌だなあと思っていたところ、なんとその真逆の対応をしてもらえたのです。

前回の時は中年の男性の方だったのですが、今回は年配の女性で、その人を例えていえば幼稚園にいる超優しい園長先生といった風情。

実際に物腰もすごく優しいし、一つひとつの説明も丁寧で、何一つ不安にさせるような要素がなかったのです。

人によってこんなにも違う印象を受けるんだなと。きっとキャリアが違うというだけでは説明できない何かがあるのですね。

人と接するときに、相手に安心感を持たせてあげられるって素晴らしいことですね。セラピストなのに、今更ながら考えさせられました。

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主体は客体によって存在を担保する

左脳優位の人ほど、知的な理解というのを求めている傾向が強いのではないかと思っています。つまり、一般論としては男性なのかなと。

もっとざっくり言ってしまえば、自我は基本的には理解したいという欲求を強く持っているとも言えますね。

理解するということは、対象に対する恐れが軽減されるという効果もあるし、理解したことで目線を下げることができるのです。

そしてもっと本質的なことを言えば、理解するということは対象に対して理解するということなので、主体としての自分が明確になるという効果もあるのです。

主体というのは、客体となる対象が存在しなければ成立しないのです。このことに気づいている人は少ないかもしれませんね。

主体が単体でも存在できると思っているとしたら、それは大きな間違いです。それは、表だけのコインがあり得ると考えているのと同じこと。

そんなことは決してないのです。生まれてからずっと、対象物が全くなかったという経験をこたことはないですよね。

必ず対象が存在し、そのことによって主体としての自己が存在しうるのです。自我とは、客体によって生かされているとも言えるのですね。

完全に降参するとどうなる?

今ある通りのこれよりもマシなものを探し出すことができる、これが我々の頭の中にずっとある悪魔の言葉なんですね。

悪魔なんて言ったら可愛そうですね、自我の声です。自我が自分を焚き付け続ける言葉なのですが、これが苦しみの大元。

ところが不思議なことに、誰も全くもってそうとは思っていないのです。だから、ずっと死ぬまでこの考え通りに生きることになるのです。

この考えがどれほど馬鹿馬鹿しいことかということを見抜くことができれば、生きる感覚が大きく変化するはずです。

というのも、こんな不可能にチャレンジしているとは、まあ毎日がもったいないと。それが分かって前のめりの人生を辞めることになるからです。

そして、心の底から緊張や抵抗が消えて、穏やかで平安な世界の方へと入ることができるのだと思います。

なにが起ころうと、どうしようもないのだと。何か打つ手があるという浅はかな考えから降りること。

完全に降参して、生の全てを甘んじて受け入れる。最後に目指すとしたら、これなのかもしれませんね。

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歳を重ねるごとに取説が読めなくなる

若い頃は、取扱説明書を読むのがそれほど億劫ではなかったはずなのに、この年齢になるとどうもいけません。

昨年家を建てた時に、メーカーさんから頂いた設備関連の取説が分厚いバインダーに2冊分あるのです。

こんなの、困った時にしか読まないよなあと思って、放っておいたのですが、節電を老後の趣味にしてからそうも言ってられなくなったのです。

それで、「冷温水熱源機」なるものの取説と最近格闘し出したのです。いわゆる家中の床冷暖房を司っている奴。

動かしっぱなしでいいですよ〜なんて言われていたので、そのままにしておいたのですが、ちょっと節電対策でもしてみるかと。

それで詳しく調べてみたら、なんだか様々な設定ができるようになっていて、すぐには意味が分からず、ああ面倒臭いと。

全てを理解できたとして、どういう設定が一番節電につながるのかは、実際に試してみないことには分からない訳で。

時間はたっぷりあるし、これといってやることもないのですから、ゆっくりと時間をかけて検証してみようと思うのです。

それにしても、文章の理解力が低下しているのが分かりますね。それを棚に上げて、もう少し分かりやすく書けば〜?って思ってしまいます。

不思議なタイムスリップ

先日お花見がてら、生まれ育った場所に行ってきました。もうその家はなくなってしまっているのですが、その近辺の地図は頭に入っています。

家が建っていたすぐ脇を川が流れていて、その川沿いが全部桜並木になっていて、とても綺麗な場所なのです。

桜の木にはぼんぼりが吊り下げられていて、夜には灯りをつけるらしいです。町内会?の人たちがやってくれていることなのかなと。

ちょうど陽気もよくて、強い日差しもない日だったので、ゆったりとその周辺を散策することができました。

途中小学生の頃、好きだった女の子の家を見つけて、ああここだと思っていたら、年配の男性が庭で何やらやっている姿を見かけて。

ああ、あの人はきっと旦那さんなんだろうなと。苗字が変わってない表札があったので、お婿さんをもらったのかなとか、どうでもいいことを考えたり。

大人になって改めて昔の地元を歩いてみると、子供の頃の距離感とはかなり違いがあるなということに気づきました。

通っていた小学校とは別のお隣の小学校の近くを歩いていて、なんだこんなに近くにあったんだなと思ったり。

かつて一歳歳上の小学生の男子と決闘の約束をした、川のヘリにできた土が堆積したような場所も、今はもうなくなっていましたね。

何か不思議な別次元へタイムスリップしたような、そんな気分を味わうことができた日でした。幼い頃の自分が、ここはこう、あれはこうだと言っているのが聞こえてきたような。

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