世界は、どこにも保存されていない

目の前の景色は、見ていない間も存在し続けている。私たちは、そう信じています。けれども、今ここで直接確かめられるのは、今現れている景色だけです。

昨日の景色は記憶として、明日の景色は想像として現れます。過去も未来も、経験されるときには、いつも「今」の中に現れています。

それでも私たちは、見ていない間にも世界がどこかに存在し、それが連続していると考えます。もちろん、そう考えることは自然です。

ただ、その連続性を今ここで直接見つけることはできるでしょうか。見つかるのは、景色や記憶や思考です。

そして、それらを眺めている「自分」がいる、という感覚もまた、今ここに現れています。ここで、ほんの少し立ち止まってみます。

世界があり、それを自分が見ている。その構図そのものもまた、疑いなく確かな事実というより、思考が描いている世界の捉え方なのかもしれません。

非二元が指し示すのは、世界が存在しないという結論ではありません。ただ、世界と、それを見ている自分という二つのものが、最初から別々に存在しているという前提を、いったん手放してみることです。

そこには、何かがどこかに保存されているという考えさえ必要ない、ただ現れているという不思議さがあるのですね。

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何も起きないことの豊かさ

私たちは、何かが起きることを望んでいます。楽しいこと、嬉しいこと、新しい発見。そして、今よりも自由で、満たされた自分になること。

反対に、何も起きない時間には、退屈や物足りなさを感じるのです。けれども、なぜ私たちは、今ここにあるものだけでは不十分だと感じるのでしょうか。

不足しているのは誰なのか。静かに座っているとき、音が聞こえ、景色が見え、身体の感覚や思考が現れている。そこには、さまざまな経験があります。

しかし、その経験の中に、何かが足りないと感じている「私」を見つけることはできるでしょうか。不足しているという感覚も、満たされたいという思考も、それ自体が現れている経験の一つに過ぎないのです。

私たちは、それらを「私の感覚」「私の思考」と呼び、それを所有する誰かがいると考えています。けれども、経験があることと、それを所有する独立した主体が存在することは、同じではありません。

もしかすると、何かを求め続ける私という存在もまた、思考によって描かれた物語なのではないでしょうか。

何も加える必要のない今があります。非二元は、何か特別な境地を獲得することではないのです。探求する私がいて、いつか真実を手に入れるという構図そのものを見つめること。

音が聞こえる。色が見える。思考が現れる。ただ、それだけのこと。そこに、経験とは別に、それらを経験している独立した誰かがいると、直接確かめられるでしょうか。

何かを得ようとすることも、何かを失うことも、現れては消えていく。そのすべてを所有し、管理しなければならない「私」が見つからないとしたら、今この瞬間を、根本的に不完全なものと考える必要はないのです。

もちろん、生活には解決すべき問題も、自然に生まれる望みもあります。けれども、行動することと、今の自分には何かが欠けていると信じることは、別のことです。

何かが満たされることで、存在が完全になるのではないのです。そもそも、不完全な存在としての「私」が、思考の外に見つからないのだとしたら。

何も起きていないように見える、この何でもない瞬間。そこには、何かを付け加えなければならない誰もいないのですね。 with Claris

非二元を信じる必要はない

最初に起きた非二元への気づきは、「モノには実体がない」ということでした。けれども今思うに、この表現はかなり二元の世界から見た色合いが強いなと感じるのです。

もう少し非二元的な表現を使うなら、「実体への気づきはない」という感じになるかなと。このような変化は、「モノありき」から「気づきありき」へと遷移したからだろうと。

これまでの探求を通して、目には見えないこうした変化があったということです。つまり初めの気づきから今に至るまで、基本的には何も進んではいなかったわけで。

ただ二元の世界にいると考えられている自分の物質世界ありきの信念が弱体化してきたというのが本当のところなのです。

そう、この2年を通して得たものは実質何一つなくて、ただただ二元性への執着が薄まってきたというべきだと感じるわけです。

自分では内心で非二元への理解が深まったと感じていたのですが、やはり非二元への理解なんてものは最初からなかったのです。

そうではなくて、ただただより正直に、より信念や思い込みに邪魔されずにいることができるようになったということなんですね。

その結果、内側で起きていた非二元への懐疑的な思いが少しずつ払拭されてきたのかなと。まだ消えてはいないのですが、その分楽になったのは間違いないところです。

言葉を変えて表現するなら、非二元を信じる必要など全くないということに気づけるようになったとも言えるのですね。

非二元は潔い

私にとって非二元の立場が気に入っている最大の理由は、潔いということです。それは自分にとって都合がいいか悪いかに無関係だからです。

こうに違いないとか、こうだったらいいのにとか、これは間違いなくこうだろうといった憶測や類推、イマジネーションが全く入ってこないのです。

気づいていることだけをピックアップして、それ以外の知らないこと、分からないことを完全にシャットアウトしているのです。

本当に気づいていることだけがあるし、それは別の言葉で表現するなら体験だけがあるし、現れだけがあるように見えるということになるのです。

シンプルで誤魔化しようもないし、そこには善悪や正不正といった概念や価値、意味といったものが入り込む余地がないのです。

ただあるがままにあるだけ。全ての虚飾を脇に置いて、コレそのままの体験が起きているだけになるのです。

何かの目的があるわけでもなく、誰かのためということもないし、ただ淡々と起きることが起きているように見えるだけなのですね。

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ただあるのは気づきだった

数年前まで面白い世界観だなと思っていたスピリチュアルで言うところの「全ては一つ」というのがありましたね。

つまりは分離はないということです。それが純粋な愛なのだと考えていたことがあったのですが、具体的には何も分からなかったのです。

けれども、非二元の立場で見てみると、そのことを明快に気づくことができます。そもそも分離を実現しているベースにあるのは空間と物質だからです。

非二元では空間も個々の物質もないという立場なので、それは当然の如く分離というものは消えてしまうのです。

ただし、分離がないということがどういうことかは分かったものの、それは単に分離するための何もないということだったのです。

体験とか現れと表現しているのが、それなのです。それはただ気づいているということそのものだったわけです。

分離も消えて世界も消えてしまい、ただあるのは気づきだけだったんだなと。時々は気づきの上にコレが現象として現れてくれるように見えるのですね。

現れと気づいているなら非二元

少し前に、体験には直接体験と思考体験があって、簡単に言ってしまえば思考が入り込む以前の直接体験が非二元であって、思考の解釈が入った後が二元の世界だとお伝えしました。

基本的には上記の説明で間違いはないのですが、そこのところをもう少し丁寧に説明したほうが間違いがないのかなと思うのです。

それは体験だけがあるということにしっかり気づいているのであれば、思考体験も非二元になるということです。

表現を変えるなら、思考による解釈を付加した体験を事実だと捉えることで二元の世界が出来上がるだけなのです。

色や音や感覚が起きているという段階は明らかに非二元です。そこに思考が介入してきて、その色を見ている私がいるという説明を信じるなら二元になるのです。

けれども、その色を見ている私がいると思っているとするなら、それは非二元です。ここの違いが分かるでしょうか?

私の目の前にテーブルが一脚ある、というのは二元ですし、私の目の前にテーブルが一脚あると思っているのは非二元なのです。

思っているという思考が現れているからです。ところが、テーブルが一脚あると言い切るのであれば、二元の世界になってしまうということですね。

何がリアルなのか分からなくなった

直接の体験だけがリアルであって、もう一方の思考によって作り上げられた思考体験はリアルではないという言い方をずっとしてきました。

ざっくり言うと、赤くて丸いものが見えているということがリアルであって、それはリンゴで昨日自分が買ってきたものだというのが思考によって作り上げられた物語だということ。

ところが、そのような思考によって作り上げられた物語自体も、現れている一つの現れだとするなら、それはそれでリアルなのではないかと。

そのリンゴが実在するというのはリアルではないのですが、思考が作り上げた現れなら、それはそれでアンリアルとは言えない感じがするようになったのです。

要するに現れは全てリアルなのではないかと思うようになったのです。もしも、これもリアルではないとなると、リアルなものが何もなくなってしまいます。

そのように考えてくると、本当に何がリアルで何がリアルでないかということが、あまり意味をなさないのではないかと思えるのです。

もしかすると、現れの基盤となっている気づきだけがリアルであって、それ以外の全てはリアルではないということもできるかも。

ここまで書いて、こんな内容のブログは誰にとっても意味のないたわごとに過ぎないだろうなと思いましたが、そのままを書いてみました。

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こんな感じの夢が続いていく

今この瞬間、どういう現れがやってきては去っていくかというと、部屋の景色が見えていて、どこかから小さな何かの音が聞こえている。

身体のあちこちからさまざまな感覚がやってきて、愚にもつかない思いが起きては消えていく。気持ちがゆったりと静かで、どちらかというと微かに気持ちがいいと感じている。

その全ての中心に自分がいると感じている。大抵はこんな感じが続いているのですが、最後の全ての中心に自分がいるという感覚も、単なる一つの現れに過ぎないと。

こうした現れ、体験が続いているだけ。これらのどこにも、自分は必要ではないし、空間も必要ないし、実体を伴った物質的なものも必要ない。

これを夢と呼ばずに何と呼べばいいんだろう。すごくリアルな感じのする夢という表現が一番適しているように思う。

ここにないものを敢えて想像することは確かにできるけれど、それも単なる思いという現れでしかないとわかる。

夢は続く。リアルでその中心に自分がいるという夢。でも、その夢の中で自分を探しても決して見つけることはできない。誰のものでもない夢。ただの夢。

「物質世界」があるという前提に気づく

ジョーイ・ロットは、その著書「これのこと」の中で「気づいている活動性」(the activity of being aware)という表現を使っています。

それはさまざまな現れが起きては消えてを繰り返す様を表現しているのであって、固定した気づきだけがあるのではないということを強調するためなのではないかと。

現れとは、起きているように見えることの総称であり、それだけが明晰であって、それ以外を見つけることができないのは明白です。

現れの中には、「物質世界がある」という強烈で動かし難い思考も含まれるため、全ての現れはそれを前提として起きているように見えるのです。

他の言い方をするなら、物質世界は、あらゆる現れの影のようなものであるのですが、その影であるはずのものに絶対的なリアリティの感覚が起きているように感じるのです。

その中でも最も親しみを感じるのが、「私」という現れかもしれません。物質世界の中に産み落とされて、孤独に人生を生きる「私」という像。

壮大な人生ドラマが現れの中に展開され続けているのですが、これが単なる現れに過ぎないと気づく現れがいつ起きるのかは、神のみぞ知るということですね。

物質世界と感覚世界

私たちの誰もが、物質世界に住んでいると固く信じてしまっています。つまり、この空間と物質の世界だけがあるのだと。

そしてその世界に、どういうわけかその世界の中でその世界のことを認識することのできる生物としての人間が生まれたのだと思っています。

つまり物質世界だけがあって、その中で不思議なことにそれ自体を知るための感覚世界が生み出されたのだと。

ただし、私たち人間はこの物質世界の中の一部であるわけですけれども、私たちが直接経験できるのは感覚世界だけなのです。

物質世界を直接知る術はありません。それなのに、物質世界があるということは断固として譲らないのです。

私たちが直接的に住んでいるのは、むしろ感覚世界なのではないかと考えても不思議ではありません。物質世界が実在するという証拠は感覚世界からは見つけられないからです。

こうしたことを素直に見直してみると、物質世界の存在はかなり怪しくなってくるのです。本当にあるのは、感覚世界だけなのではないかと思えてきませんか?

そこを真摯に見つめ直してみると、非二元で表現されることが次第に分かってくるのです。あるのは、空間と物質ではなくて感覚(体験)だけなのではないかと。

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