得るモノはない

我々の人生では、大なり小なり何かを求めて生きていると言っても過言ではありません。それは、今現在の自分にはない何かを求めているとも言えます。

それが知識であれ体験であれ、モノであれお金であれ、それまでなかったものを手に入れるということです。

そしてその繰り返しが一生続いていくわけです。これで終わりということがありません。なぜなら、その言動力は何かが欠けているという幻想からやってくるものだからです。

この欲しがる感覚、何かを得ようとする情動は、どれほどのものを得たとしてもなくなることはないのです。

この理不尽な体験をしたことがない人はいないはずです。あれさえ手に入れたなら、あれを得ることができたらと思って頑張るのです。

そして運良くそれが手に入ったとしても、どういうわけかそこにはもうこれでOKという、予想していたような満ち足りた安心はやってこないのです。

またいつもの、何かを求め、欲する毎日がやってきてしまうのです。この全てが分離(二元)という幻想によるものです。

非二元では、得るモノも得る人も同時になかったと気付かされるのです。そこにしか本当の平安はやってこないのですね。

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価値観という妄想

よく、価値観が違うと人間関係が上手く行かないみたいなことを言うのを聞くのですが、そもそも価値観て何?と思っていました。

大人になった今なら分かるのですが、それでも自分にとっては価値観という言葉そのものに抵抗があるのです。

そもそも価値観という言葉には、価値と言うことにそれなりの意味があると言うことが前提になっていると思うのですよね。

そのことは分からないではないのですが、じゃあもしも価値というのに意味がないとしたら?と考えてしまうのです。

こんな状態が自分の中では長年に渡ってずっとあったのです。そして気づいてしまったんですね。

価値と言うのが単なる概念でしかないのだと。何に価値を見出すかと言うことが大事なのではなくて、価値に意味がないと見抜く方が自分にとってはスッと入ってくるのだと。

価値は妄想でしかなかったと。そういうことが分かってしまうと、価値が大切だという感覚が、かえって面白く感じてくるのです。

希少価値というのがありますが、それは今ここにないものがどこかに存在するという前提があるのです。

ダビンチのモナリザの所有者が、ここ以外のどの場所にも存在しないから価値があると考えているわけです。

でもここ以外の場所なんてない。本当はコレしかないのですからね。

そもそもモノには実体も中心もない

その昔、プログラミングの仕事をしていた頃、オブジェクト指向言語というのを使ってプログラムを書いていたことがありました。

その時には、なんとも思わなかったことが、今ならなるほどねと分かることがあるのです。それは、最初にオブジェクトを定義する時には、そのガワだけを作るのです。

つまり、空っぽで型だけが決まっているオブジェクトクラスというものを定義するのです。そして、その後個々のオブジェクトインスタンスをその型に合わせて作るのです。

インスタンスは、この世的に表現するなら実体を持ったオブジェクトということになります。でもその実体には我々が想像するような中心はないのです。

あるのは仮想的な空っぽの入れ物だけ。あとはそれに実際の属性値を入れて行ったり、関数という機能を持たせたりするのです。

本当はこの時に気づけばよかったのかもしれません。この世界そのものの姿を表していたんだと。

この世界においても、モノの中心はないし、色や形や機能などを外して行ったら、そこに残るものは何もないということ。

これがモノはないということです。その実体もなければ、中心もないということです。これが、我々が作っている幻想に気づくきっかけになればいいなと。

ステレオグラムから気づくこと

だいぶ前に流行ったステレオグラムというのがありますね。目の緊張を緩めて見ているうちに、立体的なものが浮かび上がってくるアレです。

私のFacebookには、今でも時々それが上がってきてくれるので、気付いた時にはやって楽しんでいます。

ただの模様しかなかったものが、突然のように何らかの形が浮かび上がって、しかも立体的に奥行きを持って見えてくるのが面白いのです。

二元の世界では、人間は二つの目を持っているので、脳がその二つの情報を元にしてものを立体的に見ることができるのです。

でも、どれほど立体的に見えたとしてもパソコンやスマホなどの二次元の画像なので、それは立体ではないことを承知しています。

つまり、私たちは二次元の画像でありながら、三次元(立体)のものを見ているように感じることができるわけです。

ステレオグラムを使わずとも、私たちは二つの目があることでこの世界を奥行きのある立体として感じているのです。

だからと言って、ここに見えている世界が立体であるということにはならないということ。あくまで立体的に見えているという体験があるだけ。

この正直さがそのまま非二元へと繋がるのです。どのような体験が起きたとしても、ただそれがあるだけなのです。

視覚とは、何かを見ているのではなく、ただ見えるという体験が起きているだけなのですね。

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単なるコレがあるだけ

何でもないふとした瞬間に、ああ自分がこの身体の内側にいるなんてことは、あるはずがないと明確になることがあります。

そんなバカな話があるわけがないという、すごくはっきりとした感覚ですね。身体の内側というのをイメージした時の違和感というのか。

そんな場所に閉じ込められてるはずがないと。でもまたすぐその後に、頭の中心から外の世界を見ている感覚が戻ってきます。

そんなせめぎ合いがこれまで何度も起こってきました。それでも少しずつですが、身体の内側にはいないという感覚の方が優勢になってきているなと。

身体の内側にいないということは、そのままどこにもいないという感覚に移行するのです。場所がないということ。

その場合の自分というのは、何かの存在というよりもただそのことに気付いていると言った方が妥当な感じがします。

何かでも誰かでもない、ただそう在るだけ。いつでもあるのはただコレだけ。どのようにも表現することのできない、単なるコレ。

真実は元々剥き出しになっている

子供の頃から不思議なことにはとても興味を持っていました。テレビでは、UFOとか宇宙人の特集をやっていたり、あるいは超能力者やマジックの番組などもよく見ていました。

たとえば、なぜマジック(手品)は不思議に思えるのかと言えば、それは通常想定されることから外れた結果が見れるからですね。

絶対にあり得ないと思っているようなことが起こってみたりするわけです。何もないところから鳩が出てきたり。

でも必ずマジックにはタネがあるのです。そのタネを使って、一般的に想定されている見方を覆すようにするわけです。

要するに、「常識的な想定」と言うものが必ず必要になると言うことです。たとえばそうしたものを持っていない赤ちゃんに何を見せたところで、不思議がることもありません。

つまり、私たちは自らは気づかずにどれほどの思い込み、想定をしつつ生活をしているかと言うことです。

こうした想定は、驚くべきことに赤ちゃんといえども、あっという間に身につけてしまうのです。以前そうした実験をしているのを見たことがあります。

その実験は、赤ちゃんがこの世界には重力があることを想定していることを証明するものでした。私たちが、人生のごく初期に作る想定は、向こう側に見たままの世界があるというものです。

その次に、こちら側には自分がいるという想定ですが、これは数年後に作り出すものです。自分が作ってきた想定を一旦脇に置いて、全てをそのままに体験できれば、真実が元々剥き出しになっていたと気づくことになるのですね。

疑うことで真実と出会うことができる

「信じる」ということについて、二つの場合があると言うお話です。私は◯◯を信じていると言う時、自覚があると言うことを意味します。

私は神様がいると信じているとか、あなたが裏切らないと信じていると言った場合です。なんだか、少し願望が入り混じっている感じもしますね。

そして、もう一つは自覚がなくて信じてしまっている場合があるのです。それは、自覚がないのでそれを事実だと思っているのです。

私は一人の人間として生きている、私は日本人だ、私は女性だ。誰もがこう言ったことは事実だと思って疑ったことがありません。

一番根っこにある信じ込みは、この世界はこのようにあると言うこと、そして私と言う個人は存在していると言うこと。

この二つが二元の世界をでっちあげているのです。自覚がないので、そこを疑うと言うことができないのです。

だから、疑ってみると言うことがどれほど大切なことか。疑うというと、なんだかネガティブな印象を持ってしまいますが、そうではないのです。

疑うことでしか、信じていることに気づくことができないからです。事実ではなかった、ただ信じていただけだと気づいた時、人は何か大きな変化を体験することになるのですね。

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非二元では嘘はない

人は時として嘘をつきます。その理由は意外と簡単で、本当のことを言ってしまったら、自分を守ることができないと感じるからです。

場合によっては、本当のことを言ったら、相手を傷つけることになるからということもあるでしょうけれど、それも全く同じように究極的には自分を守るのが目的です。

相手を傷つけることになったら、自分が罪悪感で苦しむので、そこから自分を守るために嘘をつくわけです。

たまたま見ていたYouTube動画で、不倫をした人が家族から真偽の程を責められて、嘘を言い続けるという場面を見たのです。

どう考えても、すぐに嘘だとバレるような幼稚な嘘を連発してしまうのを見て、人間というのは追い詰められると急に子供に戻ってしまうのだなと。

理性的な大人だったら、決してつかないような嘘を言ってしまうのには理由があるのだろうなと思うのです。

追い詰められて自分の立場が危険な状態になると、理性がすっ飛んでしまって幼い馬鹿馬鹿しい嘘をでっち上げるのです。

大人が見るとほとんどジョークのような言葉を発したりするのです。ということは、何か子供っぽいことを言い出したなと思ったら、即嘘を言っているとして間違いないということ。

不思議な感じがするかもしれませんが、非二元の立場では嘘というのは存在しません。なぜなら、どんな言葉であれそういう現れが現れているだけだからですね。

「好み」の傾向はなくならない

子供の頃からずっとパンが好きで、今でも夕食にお米が出てくるよりもパンが出てきた方が嬉しいくらいなのです。

小学生の頃には、夕飯までの暇な時間にトースターで食パンを焼いて、それにカチカチのバターを乗っけながら食べていました。

場合によっては、それに練乳をかけて甘くして食べるのも好きでした。それなのに、ここ10〜20年くらいは自分で食パンを焼いて食べることがなくなっていました。

理由の一つは、どうもバターが健康に良くないというイメージが定着してしまったせいかもしれません。

それとトースターがなくなってしまったこと。ある時期、仕方なくフライパンで焼いていたりしていたのですが、やはり美味しくは焼けない。

バターだけでなく、どんな食材であれ食べ過ぎなければいいと分かったので、またバターでトーストを食べたいなと。

そう思ったら、少し高級なパン焼き器が欲しくなりました。外側が香ばしく、中がフワッと焼けるものがいいなと。

非二元の体感がやって来るようになったとしても、「好み」の傾向がなくなるということはないようですね。

ルールは何のためにある?

私たちは大なり小なり、様々なルールの中で暮らしているのです。ルールとは、〜でなければならない、〜であるべき、などで表現できます。

大勢で共有している社会のルールもあれば、個人的なルールもあるのです。そのルールを守るか守らないかによって、二つの結果がやってきます。

ルールを守らなければ、自己否定感や罪悪感がやってきます。これは、自分を苦しめる結果となるのです。

一方でルールを守った場合には、一過性の安心を得ることができます。ルールを守ったことへの褒美のようなものです。

けれども、またすぐに次のルールを守れるかどうかがやってきます。もしも元々ルールがなければどうなるでしょうか?

単純に一過性の安心という褒美がもらえなくなるか、あるいは自己否定感や罪悪感がやってくることも無くなるのです。

ルールがあるのとないのとであなたならどちらがいいでしょうか?冷静に考えてみれば明らかですが、ルールがない方が生きやすいはずです。

もしも自分は何となくルールが多いなと感じるのであれば、一過性の安心を求めて生きていると気づく必要があります。

社会生活を円滑に生きるための最低限のルールは必要ですが、それ以上のルールは安心と自由を天秤にかけて両者を取引していることに気づくことです。

そしてあなたが独自に作ったルールであれば、いつでもそれをゴミ箱に捨てることができると気づくことも大切なことですね。

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