脱会支援

この二元の世界は、信じることで成立しているということが言えるし、一方の非二元というのは信じるということを一切せずにいることによって見えてくる世界なんだなと。

そしてその両者の違いは途方もなく大きなものになってしまっているのです。信じるか信じないかの違いだけなのに。

なぜこれほどまでに違う世界になってしまっているのかを考察してみたいと思います。まず、信じるということは知らないということを意味しています。

知っていることを信じることは不可能だからです。つまり、二元の世界では知らないことを全てこうに違いないと信じてしまうわけです。

そうして、真実だと思い込むことを積み重ねていくのです。だから一般的には、その積み重ねを根本から見直すなんてできないのです。

これは宗教の世界感に似ていませんか?信者をその教団から抜けさせて、目を覚まさせることがどれほど難しいかは、一般に知られている事実です。

その難しさは、二元から抜けて非二元へと向かうことの困難さと全く同じなのかもしれません。

二元信者の目を覚させて、全ての信じ込みから足を洗い、リアルなものだけを相手にすることで非二元へと気づいていくことができるのですね。

非二元を理解しようとしない➖その2

昨日のブログの続きのような内容になるかもしれませんが…。ずっと左脳中心で生きてきた私としては、論理矛盾が一種の敵のようなモノでした。

どんなに素晴らしい画期的な内容であっても、そのうちのたった一つでも論理矛盾を発見してしまったら、全てが台無しになってしまうのです。

信用がガタ落ちになってしまう感じがしてしまうからです。興味深い話であればあるほど、矛盾がないことを期待してしまうのです。

10年くらい前にoshoの本を読むようになって、そこにちょっとした風穴が空いたのを自覚したのですね。

彼の言葉は鋭く真理を突くのですが、時としてアレっという感じで矛盾を感じてしまうことがあったのです。

その時に思い出すのです。osho 曰く、「私の言葉を理解しようとするのではなく、私を丸ごと飲み込みなさい」と。

あの時は、その言葉がピンとこなかったのですが、今なら分かるのです。理解ではなくて、感覚を感じ取るということかなと。

osho とはレベルが違い過ぎるのですが、非二元の話も理解するのではなく、ただそのフレーバーを感じ取ることですね。

理解できないことや矛盾に思うことを、解決しようとせずに、そのままに抱きしめてみるといいかもしれません。

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非二元を理解しようとしない

非二元の話というのは、本当にツッコミどころが満載なわけで、何から何まで論理矛盾をきたしていると言っても過言ではないです。

言葉で伝えられないことだと言っておきながら、言葉を駆使してなんとか説明しようとしているのもおかしな点です。

そもそも誰もいないと言っているのなら、一体誰が誰に伝えようとしているのか?本当は何も起きていないと言っているのに。

全てが全自動で起きているはずなのに、探究をするとか、苦しみから解放されるためには、こうして下さい、ああして下さいとか。

それでも、どんな矛盾があっても不思議となんとも感じないのです。矛盾を感じているということが、現れとして起きているだけだと分かるから。

実際、論理矛盾というのは思考の中での話です。どれほどそれが馬鹿馬鹿しいと感じられても、それもただのコレの一部なのです。

これは本当にずるい話なのですが、非二元をどれほど否定されても、非二元が否定のはるか外側だという静かな立ち位置があるのかなと。

非二元を理解しようとすればするほど、論理矛盾の中へと入り込んでしまうのです。全てはただ起きているように見えるだけなのですね。

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「相手にしない」を実践する

私たち人間は、たった一人で生きていくのは不可能です。集団で生きるように脳が出来ていると言ってもいいくらいです。

その集団の中にいるということは、必ず人と人の関係性が発生します。自分と相手とのコミュニケーションが欠かせません。

コミュ障などと言われる人はそこにちょっとした問題を抱えているわけで、それは必ず一定程度の生きづらさを作り出しますね。

それと同じことを、私たちは自分の内側、つまり心の中でもやっているのですが、あまりそのことに気付いていません。

心の中、あるいは頭の中にやってくる声というのは、実は自分自身の声ではなくて、脳の声なのです。

その声を相手に、長い時間を費やしてしまうのです。その声の特徴は、その相手をすればするほど、心がすり減っていくということ。

特に以下の三つは要注意です。不安感を煽る声、罪悪感を武器に攻めてくる声、自己否定感を投げてくる声。

これらの相手をしてしまったら最後、いつまでもその会話はループしてしまいます。これがいわゆるグルグル思考です。

こうしたことを避けるためには、上記の三つの声が聞こえたら、ああまた来たなとして、決して相手にしないことです。これをなるべく徹底するのです。

あなたに相手にされない頭の声は、間違いなくいずれは消えていく運命にあるのですから。これを実践することです。

視覚とは色とその変化

一般的に言って、私たちが自分の視覚によって捉えているものは、様々なモノの色や形だと思っています。

ところで小学生になると、図工の時間に絵を描かされるようになるのですが、その時に使うのが絵の具です。

絵の具というのは、単に色で塗る道具であって、それだけで人の顔を描いたり、景色を描いたりできるわけです。

ということは、視覚によって実際に見えるものというのは、単に色でしかないということに気づくことができます。

そう、色しかないのです。テレビやスマホの画面においては、小さな色の粒が集まってあらゆる画像を作り出しているのです。

色の違いが仮想的な境界を作り出し、それが形という二次的な概念を生み出すのですが、それでもそこには色があるだけ。

もしも色が刻々と変化するなら、それを我々は何かが動いているというように感じるわけです。

そうした色という視覚において、その色を見ている主体としての私がいるということが言えるのかを見て欲しいのです。

それはもう色という視覚の範疇ではないと気づくはずです。また同時に、色の出現とそこにモノがあるということがどれほどかけ離れたことかにも気づくはずですね。

全ては勝手にやってくる

考えるまでもなく、全てが勝手に起きては消えていくという具合に、自動的に推移していることに真正面から気づく必要があります。

自我はそれを認めたくないのでしょうけれど、よ〜く調べてみれば明らかだと分かるのです。勝手にやってくる思考を止めることができますか?

勝手に朝目が覚めて、自動的に一日が過ぎていくのです。勝手にお腹が空き、勝手に眠くなるのです。

勝手に感情がやってきて、いずれは勝手に過ぎ去っていくのです。こうした自動運転をどれほど見てきたことか。

それでも、私たちは自分が自分の裁量でこの人生を生きているんだと思っているのです。そう思い込むことも勝手に起きているだけなんですけどね。

何かを思いつくとか、気がついたらやっていたとか、ぐるぐる思考が止まらないとか、全てがあなたのコントロール下にはないことに気づけばいいのです。

じっくり考えて決断するという場合でも、そうしたことが勝手にやってきていることには変わりがないのですから。

じゃあ成功も失敗もあなたのチョンボも手柄も何もないと分かるはず。つまらないかもしれませんが、これが真実なので受け入れることです。

それが完全に腹落ちした時に、やっと本当の自由と平安がやってくるのですね。

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「かまってちゃん」の相手をするな

私たちは普段から、自分で自分の頭に浮かんでくる思考を自分のものだと信じてしまっています。

だから、頭で響いている言葉の主は当然自分だと思っているのです。夜布団に入って、すぐに「なんであの人にあんなことを言われたんだろう?」がやってきたとします。

すると、その声に呼応するように次の言葉を考えるのです。「自分は何か悪いことをしたかな?」などのように、つまり返事をしてしまうわけです。

すると、その返事に対してまた次の言葉がやってきます。という具合に、頭の声を相手にしている限り、思考が終わることはありません。これをグルグル思考と呼びます。

ここで、間違いにはっきりと気づいてほしいのです。それは、頭の中にやってくる思考(声)は自分のものではなく、頭(左脳)のモノだということ。

それは自分の声色を使ってくるので、どうしても自分の考えだと思ってしまうのですが、そうではないのです。

あなたがそれを考えようとして考えたわけではないことに気づくことです。あくまでも勝手にやってきたものなのです。

ここに気づいて、その左脳の声に対して何もしなければ、その声はそのうちには消えていくことになります。

要するに、頭の声に対して決して相手をしてはならないということ。そうすれば、そのうちにはその「かまってちゃん」はどこかへ消えていくのですから。

当たり前は感謝を阻む

大人になって分かったことがあるのですが、それは当たり前だと思い込むことによって、感謝がなくなってしまうということです。

感謝というのは、それを感じることができると物凄く嬉しいし、何とも良い気持ちになれるのですね。

だったら、たくさん感謝ができれば都合がいいのですが、それを阻むものとして「当たり前」という考えがあるのです。

被災地の人ならわかるはずですが、蛇口をひねったら飲み水がいくらでも出てくるなんて、当たり前じゃないということです。

部屋にいるときに、スマホがネットに繋がってさまざまな働きをしてくれるのが当たり前になっています。

ところが、あるときにネットが繋がらないとなった時に、急に一種変な気持ちになってしまうのです。

その時に、Wi-Fiが普通に繋がることの有り難さをしみじみと感じることができるのです。他にもたくさんあります。

家の車庫からクルマで出る時に、道路の工事などで出ることができなかった時、あれは当たり前じゃなかったんだなと、再認識できるのです。

そうなると、当たり前なんていうのは初めからなかったんだなと分かるのです。その時に初めて、全てに感謝がやってくるのですが、それは新鮮な感覚ですね。

「気がする」がいっぱい

私たちは、「〜な気がする」という表現をしばしば使いますが、それは明確ではないけれど、きっとそうに違いないという感覚がある時の言い方です。

その確信の度合いはその時その時で違いはあるものの、大体はそんな感じで使っています。当たってないかもしれないけど、多分そうだくらいの感覚です。

たとえば、自分はこの肉体の内側にいる気がするとか。あの人に嫌われてしまった気がする。ちょっと食べ過ぎた気がする。

逆に言えば、100%確実な事実に対しては「気がする」は使いません。空は青い気がするではなくて、空は青い。

少しお腹が空いてきた時に、ちょっとお腹がすいた気がするとは言います。けれども、物凄く空腹を感じていれば、すごくお腹が空いた、と言い切ります。

そうやって、確度の違いを言葉で使い分けているのです。それではここで皆さんに質問です。窓の向こうに山が見えている時、なんて表現するでしょうか?

もちろん、「窓の向こうに山が見えている」と言うはずです。「窓の向こうに山が見えている気がする」とは言いません。

なぜなら、窓の内側に自分がいて、窓の外側の向こうに山があるということを事実だと感じているからです。

ところが非二元的な立場に立つと、窓の内側とか外側というのが概念だと気づくので、これが言えなくなってしまうのです。

もっと言えば、言葉には出てこなかった、「私が見ている」もなくなり、「窓」も概念だと気づくのです。

なので、普段それは事実だと思っているようなことでも、非二元ではほとんどが「〜な気がする」と表現した方がしっくり来るんですね。

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AIによって自我が弱っていく

素晴らしい音楽と出会うたびに、来世では絶対にミュージシャンになりたい!と思ったりするのです。

でも最近ふと思うのですが、私の来世があったとしてもその頃には絶対的にAIの方がはるかに素晴らしい音楽を創造してるだろうなと。

AIが非二元についてどれくらい明確な説明をするのかを試してみたことがあるのですが、ちょっと絶句するくらいに上手だったのです。

つまり、もうこの先の世界では能力的な部分においては、AIに勝てる人間はいなくなるのだろうなと。

ちょっと悲しい感じがする人もいるかもしれませんが、私などはかえってさっぱりするなと思うのです。

なぜなら、能力や成果物で競うことに意味がなくなるからです。これはある意味でかなり朗報だと思いませんか?

能力や成果物を武器に自分の価値を創り上げてきた人にとっては、もしかしたら最悪の事態になっていくかもしれません。

けれども、人間本来のあるべき姿に戻ることを考えてみたら、これからの未来はあらゆる「比較」から解放される素晴らしい世の中になる可能性があるなと。

勝ち負けがなくなり、価値判断も消えていき、意味を追及しない。そうなると、自我の居場所は確実に先細りになっていくでしょうね。