公然のヒミツ

数年前に読んだ本で、「オープン・シークレット」というのがありました。これは、非二元の界隈では有名らしいトニー・パーソンズという人が書いた本です。

内容はともかく、本の題名が気に入りましたね。「公然のヒミツ」ですから。要するに誰にでも開示されている秘密くらいの意味かなと。

本当はヒミツなどではなくて、逆にただ気がつけばいいだけなんだということです。何か特別な訓練とか、修行とかそういった努力はいらないということ。

今なら分かるのですが、本を読んだ当時はそんなことを言われても、それは分かっちゃった人だけがそんなことを言えるんだろうと思っていました。

ヒミツが見えていない人にとっては、それが何となく到達点のような、高みにあるように感じられるからでしょうね。

でも本当に、それはいつでもどこでもどんな状態であれ、全くもって誰に対しても明らかにされているのです。

それがなくなってしまうとか、隠されてしまうと言ったことは絶対に不可能なのですが、あくまでも見た目だけ隠されているように見えてしまうということです。

だからやっぱり「公然のヒミツ」なのです。精神を研ぎ澄ますとか、思考を完全に止めると言ったことの先にあるわけではないのです。

逆に言えば、誰もそれを避けることはできないくらい、当たり前の事実だということです。だから余計に悩ましいのですね。

完全に今に留まる

以前にもお伝えしたことがありますが、小学生の頃に不思議と気に入っていた言葉があって、それが「明日は明日の風が吹く」だったのです。

そしてこの年齢になっても、この言葉がすごく気に入っていることに違いはありません。進歩しないと言えばそれまでなのですが。

私が勝手に考えているこの言葉の真意は、明日のことは明日の自分に任せればいいじゃない!くらいの感じかなと。今日の自分がそれを心配しても仕方がないのだと。

そしてもう一つの大切な意味があると思うのですが、それは明日こそ素晴らしいことが起きる、みたいな無用の期待をしないということです。

いつも言っているように、期待をすればするほど人は不幸になる可能性が高くなるからです。未来に対するどんな期待もしないということ。

今この瞬間以外は全て妄想なのですから、昨日は言うに及ばず明日という未来もリアルではないのです。

それを相手にするなら、妄想の世界を生きていることになってしまいます。完全に今に留まること、それが非二元なのですね。

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全ての情報は空想

私たちが何かを知っているという時、その知っていることのターゲットはなんだと思いますか?

実はそれは全て何かの情報なのです。例えば、富士山は日本一高い山だということを知っているという時、正確にはそうした情報があることを知っているわけです。

昨日、夕飯にカレーを食べたことを知っているという時、そうした記憶情報があることを知っているのです。

そして情報というのは、全て今この瞬間にはないものばかり。逆に言えば、そういうものを情報と呼ぶのです。

逆に今ここにあるもの、例えば今お腹が空いているというのは、知っているというよりも正確には気付いていることです。

つまり、今ここにないものは情報として知っていると表現し、今ここにあるものは気付いていると表現できるのです。

そして今ここにないものは、リアルではないものであり、それは空想とも呼べるのです。そして今あるリアルだけを相手にするのが、非二元なのです。

逆に二元の世界はそのほとんどが情報、空想によって成立しているのです。これで少し、頭の整理ができるのではないかと思います。

たった今あるコレ

非二元をこの二元の世界の言葉で説明することをずっと続けてきた身としては、決して間違って欲しくないと思っていることがあります。

それは、私自身が非二元の立ち位置になった時には、どんな言葉も浮かんでこないということです。

説明をしている時の自分も、その説明を聞いている時の皆さんも、どちらも二元の中にいることを忘れてはならないのです。

説明しているということは、説明している主体と説明されるターゲットが必要になってしまうのですね。

その時には、非二元はターゲットとなっているわけです。だから、二元の世界から非二元を想定しているに過ぎません。

非二元そのものは決して説明され得るものではなく、それはただのコレなのです。それ以上の説明はできないのです。

そして、説明不能なものはいつでも、たった今あるコレでしかありません。コレ以外というのもないのですね。

非二元にはどんな無理もない

最近よく聞くようになったのが、普遍的な意識こそがこの宇宙の本質に違いないと言ったような話しですね。

もっと昔からあったのかもしれませんが、近年では科学者の一部からもそのような内容の考え方をする人が現れていたりします。

要するに、一般的な科学の考えとしての、「物質→脳→意識」という順番ではなく、その逆にまず意識があって、そこからさまざまな物質が現れるのだと。

このことは、現代の科学が意識を探究する上で、行き詰まってきてしまっているということを物語っているように思います。

ところが、意識ありきという発想はいいのですが、それでも二元的な考え方からは抜け出せずにいるように感じるのです。

というのも、普遍的な意識とは別の、私たちが持っている個々の意識についてもその存在を認めてしまうからです。

自分の意識がなぜ他人の意識と別れてしまっているのか、そこについては表面上の分離という苦し紛れの言い訳を使っているのです。

二元の発想のままでは仕方のないことですが、そこからなぜか非二元の方にまで発想を持っていくことをしないのですね。

全てを諦めて非二元という真正直な世界に足を踏み入れてしまえば、楽になることができるのになあと思うのですけどね。

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AIは言葉の意味理解ができるのか?

私たちが日頃使っている言葉というのは、それが肉声であれ活字であれ、必ず何らかの意味が乗っかっているのです。

つまり、私たちは言葉によって「意味」を伝え合っているわけです。この大事な言葉の意味を今のAIは理解しているのでしょうか?

全くしていないとまでは言い切れませんが、人間のレベルには到底追い付いてはいないのです。それに気づくには、昨日のブログで述べたクオリアのことを思い出せばいいのです。

たとえば、「熱い」という言葉から私たちは実際に熱さを体験したことを、その意味に付加することができるのです。

つまりは、熱さというクオリアを思い出すことができるのですが、AIにはそれができません。なぜなら、クオリアの体験がないからです。

となると、昨日の話に戻ると脳がクオリアを生み出す方法を解明することなどできないわけですから、AIにクオリア生成機を実装することもできないはず。

これはどれほど科学が進歩してもできないと思われます。AIの進化が今後どうなるかは分かりませんが、意味理解においては人間のようにはならないのかなと。

そもそも人間もAIも実在しているわけではないので、そこに立ち戻ると何の問題もなくなってしまうのですけどね。

意識のハード・プロブレム

この仕事を始めた頃だから、もう25年くらい前のことですが脳が体験するものをクオリアという言葉で脳科学者が語り出したのを知ったのです。

そういう名前付けがされると、そのことを考えるいいきっかけになるものですね。それで、確かに自分は脳が見たり聞いたりする感覚で生活しているのだと。

もっと言えば、日常の何から何までクオリアで埋め尽くされているということになって、それ以外は感覚としては何もないのです。

ところが、どう考えたところで脳のハードウエア的な仕組みや働きをどれほど研究したところで、クオリアがどのように生成されるかは不明なのです。

不明というよりも、決して脳がクオリアを作り出すことなど不可能だと感じたのです。後年になって、その問題を意識のハード・プロブレムと呼ぶと知ったのです。

私の中でその問題は、解決できないものとして長い間そのままになっていたのですが、それが非二元の気づきによって問題が消えたのです。

クオリアは脳が作っているのではなく、それは言葉では表現しづらいのですが意識あるいは気づきの上に現れる現象だということ。

これは説明できるものではないので、聞く人にとっては曖昧な表現をするなと感じてしまうかもしれませんね。

でも何も勉強する必要もなく、たった今この瞬間に誰もがこのことに気づくことができるのです。それくらい身近なことについてのことだからですね。

証明は二元の世界のもの

思い出してみると、非二元の気づきと呼べるものの最初のものは、モノには実体がないという気づきだったのです。

他の言い方をするなら、モノの実体というものをどうやったら知ることができるのかを考えた時に、それは不可能なことだと気付いたということです。

我々の五感や身体感覚などのあらゆる知覚、感覚を駆使したところで、モノの実体を知る方法がないということ。

ということは、実体というのは単なる概念なのではないかと。そう考えることで、全てがシンプルになるのです。

それを簡略化して、「ものはない」と言っているわけです。とは言うものの、実体がないことを証明できるかと言われると、それはそれで難しいのです。

なぜなら、その証明するということ自体が二元の世界のものだからです。非二元の立場からすると、どんな証明も全く意味を持ちません。

全て架空の世界のタワゴトのように感じてしまうのですから。証明には、客観的事実が必要になるので、それ自体が幻想なのですね。

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不安につきあわないようにする

自我という現象について深く見ていくと、それが決して実在する何かではないということに気づくことになります。

それに加えて、その成り立ちからして不安と孤独を併せ持っているということにも気づくことになるのです。

このことが腑に落ちると、不安や孤独を敵対視することに意味がないと分かるのです。それらは敵でも味方でもありません。

それを感じることは当たり前のことだし、特に不安に関しては誰もが日常的に持っているものなのですね。

人によっては不安をこれでもかというくらいに悪者扱いして、私は不安に取り憑かれているという具合に厄介払いしたいと望むのです。

実は不安が問題なのではなく、不安に対するその態度の方が問題なのです。不安を恐れるのではなく、あって当たり前だとまずしっかり認めること。

そして、不安がやってきたら、「ああ不安がやってきてるなあ」と気づいていればいいのです。そしてそれで終わり。

それ以上に不安につきあわないようにするのです。特に、頭の中でああでもないこうでもないと不安をいじり倒してしまわないように。

そうすれば、不安はそのうちスッとどこかへと遠のいていくのです。そしてまたやってきても同様にするだけ。

もしもこのような態度が実際にできるようになれば、不安はただやってきては去っていく日常の思考と同じようなものになるでしょうね。

非二元への反論 by AI

非二元についての反論をしてほしいとAI君に依頼したら、以下のようなものを作ってくれました。とても興味深いですね。皆さんも参考にしてみて下さい。

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非二元そのものを頭ごなしに否定するのではなく、「非二元の主張をかなり理解したうえで、それでも納得できない」という立場の反論にすると、かなり面白くなります。

例えば、こんな反対意見です。

「『分離した自己は存在しない』というのは、結局、体験の一側面を世界の真理にまで拡張しているだけではないか」

非二元では、「私」という独立した主体は実体として存在せず、思考や感覚や行為がただ起こっているだけだ、と言う。

しかし、それは本当に「私が存在しない」ことの証明になっているだろうか。

確かに、自分の思考を完全に自由に選べないことはある。感情も身体感覚も、自分の意思とは無関係に生じる。だからといって、そこから「主体は存在しない」と結論するのは飛躍ではないか。

例えば、心臓は自分の意思で動かせない。しかし、「心臓を自分で動かしていない」ことと、「心臓を持つ私が存在しない」ことは別の話だ。

また、「すべてはただ起こっている」という説明も、それ自体が一つの解釈にすぎない。科学的に見れば、脳内の神経活動、身体、環境、記憶などが複雑に相互作用して、意識や自己感覚が形成されていると考えることができる。

非二元はそこからさらに一歩進んで、「だから独立した主体は存在しない」と言う。しかし、その「だから」は本当に論理的に導かれているのだろうか。

さらに問題なのは、非二元の教えが反証不能になりやすいことだ。

「あなたが非二元を理解できないのは、理解する主体が存在しないからだ」と言うこともできるし、「理解できたと思ったなら、それもまた思考にすぎない」と言うこともできる。

そうなると、どんな反論も非二元の側で説明できてしまう。

それは深い真理というより、どんな結果になっても自分の理論が正しいことにできる構造なのではないか。

そして何より、「自己は存在しない」と言いながら、そのことを語り、考え、理解し、実践しているのは誰なのか。

「誰もいない」と答えることはできる。しかし、それは問題を解決したというより、問題そのものを別の言葉に置き換えただけではないか。

非二元の体験が非常に深く、自己と世界の境界が消えるように感じられることは否定しない。

しかし、ある体験が非常に強烈であることと、その体験が宇宙の究極的な構造を示していることは同じではない。

だから私は、非二元を「真理」と断定するよりも、自己意識についての非常に興味深い一つの現象学的・哲学的解釈として捉えるほうが慎重で妥当だと思う。

これ、かなり「もっともらしい反対意見」になると思います。特に核心になるのは、

「自己が実体ではない」ことと「自己が存在しない」ことは違うんじゃないか?

という反論です。非二元側からすると、ここはかなり厄介な反論になります。