最初は誰もが天使だった

「かさねとは八重撫子の名なるべし」という俳句がありますがご存じでしょうか?何となく作者は松尾芭蕉かなと思った方もいるかもしれません。

でも実は、芭蕉の同行者である河合曽良が『おくのほそ道』の旅の途中(栃木県・那須野)で詠んだ俳句のようですね。

ネットの解説によると、旅先で馬を引いていた「かさね」という名の愛らしい少女の優雅な佇まいを、美しい八重撫子の花になぞらえて称賛した句ということでした。

この句を初めて知ったのは高校生の頃のことで、ものすごく可愛らしい小さな女の子を描写した素敵な句だなと思って印象に残っていました。

時々、日本のドラマなどを見ていて、なんとも可愛い子役の女の子が出ているのを見かけることがありますね。

性別に関わらず子供は天使のようだなと思ったりします。街を歩いていても、目に止まるのはそうした幼い子供たちや子犬などの動物たち。

彼らには総じて自我がないので、無邪気だしその無防備な眼差しにはやられてしまいます。人生の初めの方では誰もが天使だったのですけどね。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

虚構の世界

昨日のブログでは、この二元の世界というのは「伝言ゲーム」のようなものだということについて書きました。

もう少しその真意を深くお伝えすることができたらと思って、補足してみたいと思います。遡ること数十年。

セラピストになるずっと以前から、私たちが本当に知ることができるのは五感などの感覚を通してでしかないんだなと思っていたのです。

それだけがリアルで、後は思考によるものなのではないかと。しかもその思考による情報のほとんどが外部からやってくるものだと。

勉強したり本を読んだり、他人からやってくる言葉だったり。つまりここが伝言ゲームと言われる部分なのです。

そしてもうお気づきのことと思いますが、今この瞬間に気づいていること=五感などの感覚以外は全てがこの伝言による情報なのです。

そしてその情報の全ては今ここにはありません。つまりは、ここにないものなので幻想でしかないということです。

結果として毎日の生活のほとんどが、幻想で成り立っているということになってしまうのです。これこそが虚構の世界という表現を使った所以なのですね。

この世界は伝言ゲーム

以前に動画でもお伝えしたことがあるのですが、この二元の世界というのはある意味「伝言ゲーム」のようなものとも言えるのです。

それは、分離の世界の特徴とも言えるわけで、伝え合うことに非常に大きな意味や価値があるということです。

伝え合うことによって、その情報を互いに共有することができるようになるからです。その伝えるために用いるツールが「言葉」なのですね。

言葉というのは思考であり、今ここにないものについての情報を指し示すために使われるのですから、それは全て架空のものなのです。

その結果、私たちが広く共有している情報というのは、その全てが架空のものでしかないということです。

そしてそれらが特にこの世界、この社会では大切なものとして扱われることになるのですから、虚構の世界とも言えるのです。

非二元の立場に立つと、こうしたことがとても明確になるのです。さらに言えば、現代においては、その言葉もインターネット上を行き交うようになりました。

伝言ゲームも極まった感があると感じるのは私だけでしょうか?そろそろ、どれほどの虚構の中にいるのかに気付いてもいい時期に来ているのではないかなと。

見つめ合うと恥ずかしい理由

日本においては、相手と会話するときに相手の目を長く見つめるのは失礼に値するという感覚がありますね。

それは多分、相手を恥ずかしい気持ちにさせてしまうからだと思うのです。だから、ずっと見つめ続けるのではなく、時々は視線を外したりするのです。

ではなぜ人はずっと見つめられると恥ずかしい感じがしてしまうのでしょうか?一般論というよりも、私自身の感覚で説明すると。

自分の目を通して、自分の心の奥まで見透かされてしまうのではないかという恐怖を感じるからなのではないかと。

恐怖というとオーバーに聞こえますが、恥ずかしさの元は恐怖や不安感だと思っています。目は口ほどにものを言うという表現があります。

つまり、目の表情を読まれることによって内面を晒してしまっている感じがするということかもしれません。

ちなみに目を閉じている状態で、相手から見つめられていると分かっても、それほど恥ずかしさを感じないのは、上記の説明で納得できるはず。

私の経験では、親しい人ほど恥ずかしさを感じるようで、逆にそれほど親しくない人の場合はあまり恥ずかしさを感じずにいられるようです。

この感覚はずっと昔から持っているのですが、非二元の立場に立つなら見られる自分もいないし、見つめてくる相手も不在なわけで。

二元と非二元を切り替えることで、確かにその違いを実感することができますね。とても面白い反応の違いを体験できるようです。

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隔たりはない

我々の人生というのは、何らかの目標を定めてそこを目指して進んでいくものだというイメージがありますね。

つまり、今現在はまだ目標に到達していない地点にいて、目標からは隔たっているということを意味しています。

この隔たりがこの二元性の世界を作り上げているわけです。ところが、非二元的な立場からすると、そうした隔たりというものはないのだと。

かつて身近にいるある人が言っていたのですが、「A地点からB地点へ行く途中というのが分からない」のだと。

その時は一体この人は何を言っているんだろうと不思議に思っていたのですが、きっとそれこそが非二元的な立場だったんだろうなと。

A地点とB地点に隔たりがないので、向かう途中という概念が存在しなかったということですね。思った瞬間にすでにB地点にいるということ。

これは、結果として時間も空間もイメージに過ぎないということを、元々体得している人だったというのを意味することになりますね。

世の中には、そうした変わった人もいるのでしょうけれど、一般人からすると意味不明なことを言う人、で片付けられてしまうのは少し可哀想な気がします。

時間は記憶と思考の中にだけある

私たちは、通常「今この瞬間」と言うのは過去から未来へと流れる時間のちょうどその両者の境目のことだと信じています。

でももし、記憶を使わずにいれば過去と未来は自ずと消えていってしまいます。そして残されたものが、今なのです。

だから本来の意味で今というのは時間ではなく、瞬間でもありません。記憶から解放された状態であることそのものなのです。

知ることもなく、ただ気づいていることの中にあって、そこに時間が入り込む余地はありません。

するとそこには、あるがままの体験があって、さまざまな現れがやってきては去っていくことが起きているように感じているのです。

ただそれだけのことなのです。今という言葉をあえて使うのであれば、ずっと今が続いているということです。

やっぱり、ただのコレには時間も空間も必要なかったということですね。非常にシンプルで気持ちがいいです。

脳が受け取るのは電気信号だけ

子供の頃は、何も深く考えることもなく、そこに机があるから見えているんだろうと思っていました。

つまり、「机がそこに存在すること=机が見える」だったわけです。もちろん大人になっても、ずっとこの世界観で生きている人はたくさんいます。

ただし人によっては、学校で物が見える仕組みを教えてもらってからは、上記の式は正しくないと理解できた人もいます。

つまり、机に反射した光が網膜に入って、それが電気信号に変換されて脳に届くことによって、机が見えると感じるのだと。

だからこそ、映像などによって机からやってくる反射光と同じものを人工的に作っても、そこに机があるように見えることになるわけです。

これは、映画の映像であれテレビであれ、パソコンやスマホの画像でも全て同じことです。だから、本当は私たちは机が存在しなくても机を見ることができることを知っているのです。

でも問題はここからです。我々の脳に届く情報は全て電気信号なのです。虫歯のあの痛みや、冷たいものを食べすぎた時のあの腹痛、湿疹ができた時のあの痒みも同じ。

そしてその無味乾燥な電気信号から、どうやってあのフルートの音色や夕焼けの綺麗な色などを感じることができるのかは、誰も知りません。

そんなことはいつか科学者が解明してくれると思っていませんか?私はどうしてもそれはあり得ないと感じます。

それよりは、外側にある何かを見たり聞いたり感じたりしていると言うことが思い込みだと気づいて、おまけに内側(脳)すらなかったとする方がシンプルで美しいと感じてしまうのですね。

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時間差は必要なものかもしれない

非二元の気づきがやってきてから、日々の生活が何か変わったことがあるかと聞かれたら、ほとんどないと答えると思います。

同じような朝が来て、同じような毎日が始まることに違いはないからです。だから直接の影響はほとんどないと言わざるを得ません。

けれども、これはその人の個性にもよることだと思うし、一概には言えないのですが、私の場合は時間差を持って少しずつの変化はあるように感じるのです。

あの時あの気づきがやってきたのに何の変化もなかった。ところが、また同じ気づきがやって来たにもかからず、今度は自分の体感に変化を感じるのです。

これはもしかしたら、心の癒しと同じで癒されたからと言ってすぐに毎日の生活が変わるわけではないのだと。

それでも、ある時ふと気づくとこれまでの自分とは違う生き方をしていることに気づいたりするわけです。

自分の気づきや癒しというものが、具体化して表に出てくるまでにはそれなりの時間が必要なのかもしれません。

だからこそ、目的意識をなくした状態でもただ心がけることを継続することは、意外と意味のあることなのかもしれないですね。

逆に言えば、即刻の変化というのはきっと一時的なものであって、自分のものにならずに定着しないということもあるのでしょうね。

記憶を使わなければ気づいていることだけがある

非二元の探究を通して思いっきり気づいてしまったことがあるのですが、それは本当は知らないのに知っていると信じてしまっていることばかりだということ。

一番身近なところで言えば、自分は男性だとか、年齢はいくつだとか、国籍はこれこれだと言ったことです。

こうした情報というのは、記憶の中のデータとして知っていると思っているのですが、記憶を使わなければ知りようがないのです。

そして、記憶が本当はどんなものなのかについても私たちは本当には何も知りません。あるいは、今部屋の中にテレビがあってテーブルがあることを知っていると思っています。

けれども、あれがテレビだとかテーブルだと認識するためには、これもやはり記憶データを用いる必要があるのです。

それを無意識でやってしまっているので、感覚としては直に自分は知っていると思ってしまうわけです。

記憶を使わずに知っていることは何かあるでしょうか?今この瞬間気持ちいいとか悪いとかを知っていると思うかもしれません。

ただしこれは単に気づいているという言い方の方が妥当なのです。知識でないものは知ることはできないのですから。