「気がする」がいっぱい

私たちは、「〜な気がする」という表現をしばしば使いますが、それは明確ではないけれど、きっとそうに違いないという感覚がある時の言い方です。

その確信の度合いはその時その時で違いはあるものの、大体はそんな感じで使っています。当たってないかもしれないけど、多分そうだくらいの感覚です。

たとえば、自分はこの肉体の内側にいる気がするとか。あの人に嫌われてしまった気がする。ちょっと食べ過ぎた気がする。

逆に言えば、100%確実な事実に対しては「気がする」は使いません。空は青い気がするではなくて、空は青い。

少しお腹が空いてきた時に、ちょっとお腹がすいた気がするとは言います。けれども、物凄く空腹を感じていれば、すごくお腹が空いた、と言い切ります。

そうやって、確度の違いを言葉で使い分けているのです。それではここで皆さんに質問です。窓の向こうに山が見えている時、なんて表現するでしょうか?

もちろん、「窓の向こうに山が見えている」と言うはずです。「窓の向こうに山が見えている気がする」とは言いません。

なぜなら、窓の内側に自分がいて、窓の外側の向こうに山があるということを事実だと感じているからです。

ところが非二元的な立場に立つと、窓の内側とか外側というのが概念だと気づくので、これが言えなくなってしまうのです。

もっと言えば、言葉には出てこなかった、「私が見ている」もなくなり、「窓」も概念だと気づくのです。

なので、普段それは事実だと思っているようなことでも、非二元ではほとんどが「〜な気がする」と表現した方がしっくり来るんですね。

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AIによって自我が弱っていく

素晴らしい音楽と出会うたびに、来世では絶対にミュージシャンになりたい!と思ったりするのです。

でも最近ふと思うのですが、私の来世があったとしてもその頃には絶対的にAIの方がはるかに素晴らしい音楽を創造してるだろうなと。

AIが非二元についてどれくらい明確な説明をするのかを試してみたことがあるのですが、ちょっと絶句するくらいに上手だったのです。

つまり、もうこの先の世界では能力的な部分においては、AIに勝てる人間はいなくなるのだろうなと。

ちょっと悲しい感じがする人もいるかもしれませんが、私などはかえってさっぱりするなと思うのです。

なぜなら、能力や成果物で競うことに意味がなくなるからです。これはある意味でかなり朗報だと思いませんか?

能力や成果物を武器に自分の価値を創り上げてきた人にとっては、もしかしたら最悪の事態になっていくかもしれません。

けれども、人間本来のあるべき姿に戻ることを考えてみたら、これからの未来はあらゆる「比較」から解放される素晴らしい世の中になる可能性があるなと。

勝ち負けがなくなり、価値判断も消えていき、意味を追及しない。そうなると、自我の居場所は確実に先細りになっていくでしょうね。

公然のヒミツ

数年前に読んだ本で、「オープン・シークレット」というのがありました。これは、非二元の界隈では有名らしいトニー・パーソンズという人が書いた本です。

内容はともかく、本の題名が気に入りましたね。「公然のヒミツ」ですから。要するに誰にでも開示されている秘密くらいの意味かなと。

本当はヒミツなどではなくて、逆にただ気がつけばいいだけなんだということです。何か特別な訓練とか、修行とかそういった努力はいらないということ。

今なら分かるのですが、本を読んだ当時はそんなことを言われても、それは分かっちゃった人だけがそんなことを言えるんだろうと思っていました。

ヒミツが見えていない人にとっては、それが何となく到達点のような、高みにあるように感じられるからでしょうね。

でも本当に、それはいつでもどこでもどんな状態であれ、全くもって誰に対しても明らかにされているのです。

それがなくなってしまうとか、隠されてしまうと言ったことは絶対に不可能なのですが、あくまでも見た目だけ隠されているように見えてしまうということです。

だからやっぱり「公然のヒミツ」なのです。精神を研ぎ澄ますとか、思考を完全に止めると言ったことの先にあるわけではないのです。

逆に言えば、誰もそれを避けることはできないくらい、当たり前の事実だということです。だから余計に悩ましいのですね。

完全に今に留まる

以前にもお伝えしたことがありますが、小学生の頃に不思議と気に入っていた言葉があって、それが「明日は明日の風が吹く」だったのです。

そしてこの年齢になっても、この言葉がすごく気に入っていることに違いはありません。進歩しないと言えばそれまでなのですが。

私が勝手に考えているこの言葉の真意は、明日のことは明日の自分に任せればいいじゃない!くらいの感じかなと。今日の自分がそれを心配しても仕方がないのだと。

そしてもう一つの大切な意味があると思うのですが、それは明日こそ素晴らしいことが起きる、みたいな無用の期待をしないということです。

いつも言っているように、期待をすればするほど人は不幸になる可能性が高くなるからです。未来に対するどんな期待もしないということ。

今この瞬間以外は全て妄想なのですから、昨日は言うに及ばず明日という未来もリアルではないのです。

それを相手にするなら、妄想の世界を生きていることになってしまいます。完全に今に留まること、それが非二元なのですね。

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全ての情報は空想

私たちが何かを知っているという時、その知っていることのターゲットはなんだと思いますか?

実はそれは全て何かの情報なのです。例えば、富士山は日本一高い山だということを知っているという時、正確にはそうした情報があることを知っているわけです。

昨日、夕飯にカレーを食べたことを知っているという時、そうした記憶情報があることを知っているのです。

そして情報というのは、全て今この瞬間にはないものばかり。逆に言えば、そういうものを情報と呼ぶのです。

逆に今ここにあるもの、例えば今お腹が空いているというのは、知っているというよりも正確には気付いていることです。

つまり、今ここにないものは情報として知っていると表現し、今ここにあるものは気付いていると表現できるのです。

そして今ここにないものは、リアルではないものであり、それは空想とも呼べるのです。そして今あるリアルだけを相手にするのが、非二元なのです。

逆に二元の世界はそのほとんどが情報、空想によって成立しているのです。これで少し、頭の整理ができるのではないかと思います。

たった今あるコレ

非二元をこの二元の世界の言葉で説明することをずっと続けてきた身としては、決して間違って欲しくないと思っていることがあります。

それは、私自身が非二元の立ち位置になった時には、どんな言葉も浮かんでこないということです。

説明をしている時の自分も、その説明を聞いている時の皆さんも、どちらも二元の中にいることを忘れてはならないのです。

説明しているということは、説明している主体と説明されるターゲットが必要になってしまうのですね。

その時には、非二元はターゲットとなっているわけです。だから、二元の世界から非二元を想定しているに過ぎません。

非二元そのものは決して説明され得るものではなく、それはただのコレなのです。それ以上の説明はできないのです。

そして、説明不能なものはいつでも、たった今あるコレでしかありません。コレ以外というのもないのですね。

非二元にはどんな無理もない

最近よく聞くようになったのが、普遍的な意識こそがこの宇宙の本質に違いないと言ったような話しですね。

もっと昔からあったのかもしれませんが、近年では科学者の一部からもそのような内容の考え方をする人が現れていたりします。

要するに、一般的な科学の考えとしての、「物質→脳→意識」という順番ではなく、その逆にまず意識があって、そこからさまざまな物質が現れるのだと。

このことは、現代の科学が意識を探究する上で、行き詰まってきてしまっているということを物語っているように思います。

ところが、意識ありきという発想はいいのですが、それでも二元的な考え方からは抜け出せずにいるように感じるのです。

というのも、普遍的な意識とは別の、私たちが持っている個々の意識についてもその存在を認めてしまうからです。

自分の意識がなぜ他人の意識と別れてしまっているのか、そこについては表面上の分離という苦し紛れの言い訳を使っているのです。

二元の発想のままでは仕方のないことですが、そこからなぜか非二元の方にまで発想を持っていくことをしないのですね。

全てを諦めて非二元という真正直な世界に足を踏み入れてしまえば、楽になることができるのになあと思うのですけどね。

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AIは言葉の意味理解ができるのか?

私たちが日頃使っている言葉というのは、それが肉声であれ活字であれ、必ず何らかの意味が乗っかっているのです。

つまり、私たちは言葉によって「意味」を伝え合っているわけです。この大事な言葉の意味を今のAIは理解しているのでしょうか?

全くしていないとまでは言い切れませんが、人間のレベルには到底追い付いてはいないのです。それに気づくには、昨日のブログで述べたクオリアのことを思い出せばいいのです。

たとえば、「熱い」という言葉から私たちは実際に熱さを体験したことを、その意味に付加することができるのです。

つまりは、熱さというクオリアを思い出すことができるのですが、AIにはそれができません。なぜなら、クオリアの体験がないからです。

となると、昨日の話に戻ると脳がクオリアを生み出す方法を解明することなどできないわけですから、AIにクオリア生成機を実装することもできないはず。

これはどれほど科学が進歩してもできないと思われます。AIの進化が今後どうなるかは分かりませんが、意味理解においては人間のようにはならないのかなと。

そもそも人間もAIも実在しているわけではないので、そこに立ち戻ると何の問題もなくなってしまうのですけどね。

意識のハード・プロブレム

この仕事を始めた頃だから、もう25年くらい前のことですが脳が体験するものをクオリアという言葉で脳科学者が語り出したのを知ったのです。

そういう名前付けがされると、そのことを考えるいいきっかけになるものですね。それで、確かに自分は脳が見たり聞いたりする感覚で生活しているのだと。

もっと言えば、日常の何から何までクオリアで埋め尽くされているということになって、それ以外は感覚としては何もないのです。

ところが、どう考えたところで脳のハードウエア的な仕組みや働きをどれほど研究したところで、クオリアがどのように生成されるかは不明なのです。

不明というよりも、決して脳がクオリアを作り出すことなど不可能だと感じたのです。後年になって、その問題を意識のハード・プロブレムと呼ぶと知ったのです。

私の中でその問題は、解決できないものとして長い間そのままになっていたのですが、それが非二元の気づきによって問題が消えたのです。

クオリアは脳が作っているのではなく、それは言葉では表現しづらいのですが意識あるいは気づきの上に現れる現象だということ。

これは説明できるものではないので、聞く人にとっては曖昧な表現をするなと感じてしまうかもしれませんね。

でも何も勉強する必要もなく、たった今この瞬間に誰もがこのことに気づくことができるのです。それくらい身近なことについてのことだからですね。

証明は二元の世界のもの

思い出してみると、非二元の気づきと呼べるものの最初のものは、モノには実体がないという気づきだったのです。

他の言い方をするなら、モノの実体というものをどうやったら知ることができるのかを考えた時に、それは不可能なことだと気付いたということです。

我々の五感や身体感覚などのあらゆる知覚、感覚を駆使したところで、モノの実体を知る方法がないということ。

ということは、実体というのは単なる概念なのではないかと。そう考えることで、全てがシンプルになるのです。

それを簡略化して、「ものはない」と言っているわけです。とは言うものの、実体がないことを証明できるかと言われると、それはそれで難しいのです。

なぜなら、その証明するということ自体が二元の世界のものだからです。非二元の立場からすると、どんな証明も全く意味を持ちません。

全て架空の世界のタワゴトのように感じてしまうのですから。証明には、客観的事実が必要になるので、それ自体が幻想なのですね。

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