無邪気=愛=自由

幼子はみんな無邪気に生きていますね。それが私たちの本質だからです。そしてそのエネルギーは愛でできています。

もしもその子が無邪気なフリをするようになったら、要注意です。そもそもフリなどする必要のないのが無邪気さだからです。

どれだけ長く、大威張りでその無邪気さを通して生きていられるのか、それはその子の生活環境によって大きく異なってしまうはずです。

毎日の生活の底辺に優しさや安心が感じられるなら、いつまでも無邪気さは消えずに残るはずです。

そしてそういった子は、大人になるにつれて社会人としての顔を身につけるようにはなるものの、やはりその人には無邪気さのエネルギーが漂っているのです。

その原動力が愛であるので、社会というルールの中にありながらも、自由でいられるのです。愛は自由とともにあるからですね。

もしもあなたが愛しい人に対して、その人の自由を認めないと言うなら、あなたの愛が愛以外のものでできていることを知ることです。

その場合には、あなた自身も自分に自由を与えていないことに気づくことです。あなたの無邪気さがずっと隠されてきたということを物語ってもいるのですね。

戦いの人生の末路

毎日の生活を、出来るだけいつも穏やかに過ごせたらいいなと思っているのは、私だけではなはずです。

ところがその一方では、絶対負けたくない、勝って相手をギャフンと言わせたいとも思っているのです。

一つのマインドの中に、こうした相反する思いが同時に存在しているのですから、マインドというのは激しく分裂してると言わざるを得ません。

何か理不尽な目に遭った時に、上記のどちらが表面化するかで全く違った言動をすることになりますね。

穏やかでいたいのでしたら、その理不尽さを丸ごと受け止めることです。受容してしまえば、遭遇したことにマインドは影響されずにすみます。

一方、自分の正しさでその理不尽さを一刀両断することが出来れば、戦いに勝っていい気持ちになることができます。

但し、そこには何かしらの戦いが起きているので、勝敗の決着が付くまでは穏やかでいることはできません。

その場合、もしも負けるような事にでもなってしまったなら、最悪なマインドの状態になってしまいますね。

いつも自分のマインドを監視しつつ、受容しようとしているのか、勝とうとしているのか、気づいていてあげることは大切なことだと思います。

きっと長い目で見れば、受容する方が圧倒的に上質な人生になるはずですね。戦いの人生の末路は敗者と決まっていますので。

信念はゴミ箱へ

この社会では信念も持っている人の方が立派とされています。確かに、何かコトを成そうとしたら、固い信念があったほうが有利な気がします。

けれども、信念と言うのは所詮は思考であって、それも正しさと頑なさに包まれた厄介なものです。

信念を持っていると、その裏側にはいつも不信の念があるのです。それは当然のことで、その信念に反するものに対しては全て不信の念が起こるのです。

信頼がどんな形の容器にもすぐに入っていける水のようだとすれば、信念はゴツゴツとした岩のようなもの。

当たると痛いし、近くにあると常に異物感があるのです。水のような柔軟性、従順さは微塵も感じられません。

不信に対して類似語としては疑いという言葉があるのですが、この二つは似て非なるものなのです。

信念の裏返しとしての不信感に対して、疑いというのはとても純粋なものです。幼児がなぜ?を連発するあれですね。

信じてしまうと疑いはやって来なくなってしまいます。素朴で純粋な疑いを持ち続けている人は瑞々しい感性を持っている人かもしれませんね。

「癒しから覚醒へ」とは?

自分を癒していくということに興味を持ち始めてから、もうすでに20年以上が経とうとしています。

インナーチャイルドなんて言葉もそれまで知らなかったし、感情というのは溜まるものなんだというのも、それまでは全く考えたこともなかったのです。

小さな頃の自分はどうだっただろうと思い返そうとしても、それほど明確な記憶が残っているわけではないので、これは苦労するなと思ったのを覚えています。

ただ、少ない記憶の断片を少しずつ繋ぎ合わせていくうちに、自分の中に「僕は悲しいんだよ」と言う子がいるのに気づきました。

本当にそういう口調で静かに訴えているのです。その子は、今でも心の奥底にいて同じことを言っているように感じます。

もちろん、そのエネルギーはとても小さくなってしまってはいるので、普段は全く気づくこともないのですが、耳をすませば微かに聞こえてくるのです。

何で悲しいのかなあと見てあげると、色々な原因が見えてきたりするのですが、でも一番根っこにあるものは、きっと自分らしく生きることができなくなったことを嘆いているのだと思うのです。

自我の発達とともに、それまでの自由奔放さが影を潜めて、無邪気で楽しかった時間はもう戻ってこない現実を憂いているのだと。

大人になった自分も自我として生きているので、その子を癒すにも限界があるのです。心の中だけでも彼を自由にさせてあげたいと思いますね。

それはそれとして、今後はずっと自分の中心にこっそり控えてくれていた自分の本質に気づいて、そこからも生きる練習をすることなんだろうなと思っています。

これこそが本やこのブログの題名でもある、「癒しから覚醒へ」の意味なんです。

ホンモノかニセモノか?

もしもあなたという個人がニセモノであるなら、あなたはニセモノに囲まれながら、ニセモノの中で生きていくことになるのです。

ニセモノというのは、実在しないということです。あるいはその存在が一過性のものであるということです。

実際に実在しなくても、実在しているとしか思えないようなものって、たくさんあるのです。その最たるものが、私たちの自我ですね。

あなたがホンモノを見たい、ホンモノに囲まれて過ごしたいと願うのなら、あなた自身がホンモノである必要があるということです。

ホンモノは一過性ではなく、反対に永遠のものであるということ。そのためには、非存在でなければなりません。

あなたが非存在であるときに限って、そこにはどんな変化を起こすものも入り込むことができないし、存在がなければ時間も介入することができないのです。

ホンモノである非存在のあなたの本質からこの世界を見るとき、それがどんなに酷たらしいものであろうと、何であれ受容することになるのです。

善も悪も、正も不正も、不思議と問題にはならないのです。肯定も否定もないので、ただあるがままを受け容れることになるのです。

一瞬でもこれを垣間見ることができると、自我もそれなりに影響を受けるようで、不安や恐怖などが小さくなって、ひとりでに防衛も少なくなるのだと思います。

要するに良いか悪いか、正しいか間違っているかなどではなくて、ホンモノかニセモノかにかかっているということですね。

ただ見ることの難しさ

私たちにとって、ただ見るということがとても難しい理由は、自我が見ていると思い込んでいるからなのです。

自我はただ見ることが出来ないのです。自我は思考(言葉)で出来ているので、見たものを好きなように変えてしまうのです。

例えば、向こうから身長170cmくらいの男性が歩いてくるのを見て、近づいて来るにつれてその姿は大きく見えるのです。

けれどもその人の身長は170cmであり続けるように補正するのです。逆に遠ざかって豆粒くらいになっても、170cmの人として見るのです。

こうした補正は自我が自動的にやっていることなのです。もしも自分の中心から、自分の本質から見るならどうなるか?

そこにはどんな思考も感情も何もないので、その人の姿が大きくなったり、小さくなっていくのをただ見ることになるのです。

本質から見ると、過去や未来が混入してくることもないし、そこに遠近法も介在することがありません。不思議な世界が展開されているのです。

もしもあなたが散歩をしているなら、あなたの自我は「私が歩いている」姿を見るでしょう。では本質はその時何を見るのか?

左右の足が忙しく動いていて、周囲の景色がゆっくりと後方へ向かって移動するのを見ることになるのです。

幼な子が飛び跳ねたり、クルクル回っていつまでもケラケラ笑い続けるのは、周囲の景色がとんでもない動きをするさまを純粋な目で見ているからです。

それを面白がれるのは、その子に自我がでっち上げられるまでの短い間だけのことなのですね、残念ながら。

もうお分かりのことと思いますが、自我に見たままをただそのままに見ることは不可能なことなのです。

そこを改善しようとするのではなく、自我が見る代わりに本質が見ていることに気づくこと。その結果は、ただあるがままを見ることになるのですね。

物事は見たままに在る

ブッダはかつて、「行為はあるが、行為者はいない」と言ったのです。つまりこの世界には、私たちが思い描くような自律的な個人などいないということです。

肉体はあるけれど、それは木や岩などと違いはないということです。その肉体の顔の部分に二つの目があるのは事実です。

けれども岩が何も見ていないのと同様に、その二つの目によって、世界を見ている誰もいないということです。

自我というのは思考による仮想的なものであって、その思考の全ては他人からやってきたものなのです。

他人の自我があなたの自我を作ったと言ってもいいのです。その自我は、身体のあたりに自分がいると思い込むことになったのです。

そして二つの目を通して、外の世界を見ているということにしたのです。真実はどうかと言えば、あなたの本質が見ているものをただ横取りしているに過ぎません。

自我そのものは刷り込まれたものというよりも、与えられたものです。その後、今度は自我が刷り込みによって肥大化して行ったということです。

こうした複雑な自我の思考体系を簡単に傍に退けるなど到底無理な話です。だから、まずは自己の中心から見るという練習をすることです。

どれほど自我に埋もれてしまっていたとしても、真実は消えて無くなることはないので、安心してじっくりと取り組むことができます。

少しずつですが、亀の歩みのように少しずつ、ただ見えているように物事があると気づけるようになるまで、練習を継続することですね。

自意識と自己意識

少なくとも地球上では、人間だけが自意識を持つようになったのですが、それには自我の存在が決定的に必要だったと思われます。

何かの拍子に奇跡的に自我が生まれ、それが長い年月をかけて世代を超えて次第に自意識を持つようになったのでしょう。

複雑な言葉を使えるようになったことも、自我が驚異的に発達できた理由ではないかと思っています。

言葉は、思っている以上に私たちを思い込みの世界に連れていくのです。私たちは他人の言葉の罠にかかって、深い刷り込みの中で生きているとも言えるのです。

自意識が生まれたおかげで、自分は今この人を愛しいと感じているとか、自分は今怒っているとか、すごく楽しい思いをしていると自覚することができるのです。

その一方で、自分もいつかは死ぬことになると思ったり、自分と他人を比較して苦しんでみたり、自意識を持つことによる苦悩も計り知れないものがあるのです。

ところで自意識とは、外側に向いていた意識を180度向きを変えて、内側に意識を向けている状態のことです。

ただし、内側に向けた意識のターゲットはあくまでも自我なのです。自意識とは自我に向けた意識のことなのです。

それに対して、自我を通り越して自分の本質の中心に意識を向けることを自己意識と呼びます。

自己意識とは、自己の本質がそれ自体に気づいている状態のこと。それ自体は非存在であり、宇宙の遍く存在を丸ごと包含しているのですね。

自意識よりも自己意識を体験させてあげるように練習することで、自意識からやってくるあらゆる苦悩を小さくすることができるようです。

思い込みのバカバカしい強さ

92歳になる母親の短期記憶装置がだいぶやられてしまっていて、認知症ではないにせよかなり困ったことになっています。

ついさっきの記憶が消えてしまう反面、ある程度過去の記憶が残っているのです。そうなると、本人は過去の状態のままで生活しているつもりになっているのです。

危険だから一人で買い物に行かないでとどれほど伝えても、食べるものを買って来なければと言って、勝手に1人で出かけようとするのです。

本人としては、過去自分で買い物を全てやっていた頃の記憶だけがあるため、今もそのように生活していると思い込んでしまっているのです。

だから3食買ってこなくても、いつも出してもらって食べてるでしょと伝えても、それが分からないのです。

冷蔵庫の中を覗いてもらっても、何だか食べ物がないような気がするという状態なのです。

こうした思い込みが強くあると、誰のどんな言葉も本人の中には入っていかないばかりか、食べ物がないという思い込みで冷蔵庫を覗くので、無いようにしか見えないのです。

母親の場合は極端な事例ですが、私たちはみんな大なり小なり似たような勝手な思い込みの中で生きているのです。

一番強烈な思い込みは、自分は顔にある二つの目によって外の世界を見ているというものです。このことが人生にあらゆるトラブルを持ち込むのです。

自分がそうしているのだから、他人もあの二つの目からこちらを見ていると信じ込んでいるのです。

そのため、他人の目が気になるし、人にジロジロ見られているという神経症が起きるのです。

これを解消する唯一の方法は、自分が肉体の目を通して外を見ているのではないことを体感することですね。

その瞬間にいてみる

1日のうちでいつでもいいのです。比較的ゆったりと過ごせているときにでも思い出して欲しいことがあるのです。

それは、ちょうどその瞬間に居続けてみるということ。私たちはどういうわけか、過去を思い出してみたりちょっと先の未来のことを考えるのです。

この習性は本当に驚くべきものです。忙しくしている間は分からないのですが、ちょっとでも手が空いたときに、すぐに何か始められることを見つけようとするのです。

何かしていないではいられないのです。幼い子がじっとしていられないのは、普通によく見る光景ですね。

けれども、実は大人になってもその傾向は強く残っているのです。少しお腹が空いたなあと感じたら、その感覚とともにいてみるのです。

なんだかちょっと悲しいなあと感じたら、そこから逃げずにその感情とともにその瞬間にただいることです。

過去にも未来にも逃げ込まずに、そうして唯一実在するこの瞬間とともに在るように練習するのです。

そのときにようやく、自分とはいったい何なのか?というところに意識が向くようになるのですね。