癒しと真実を見ること

この仕事を始めて5年くらいが経った頃のことだと記憶していますが、どれほど心の癒しを進めて行っても、所詮は満たされることはないと気づいたのです。

確かに、癒しによって不自然な生き方が少しずつ自然なものへと変化していくのは、何度も見せてもらいました。

加えて、不自由な人生に徐々に自由の感覚がやってきて、生まれて始めて無邪気な自分を見つけることができた姿も見せてもらえたこともありました。

そんなクライアントさんの変化を見ることで、セッションは無駄ではなかったと思えるのですが、一方で常に自分に突きつけられていることがあるのです。

それは真実を見ることをおざなりにしていていいのか?ということ。ほとんどのクライアントさんはそんなことには興味を持っていないのも知っています。

自分自身についても、クライアントさんと比べてもほとんど違いはないのです。1日のほとんどは自我として生きてしまっているのですから。

けれども、ここにきてどうしても真実を見る側へとシフトしていかざるを得ないような感覚がやってきているのです。

それほど特筆するようなことでもないのですが、これからの道もきっとおおよそ決まっているのでしょうね。

歳を重ねて行った末に、自分の人生がどのように変化していくのか、ちょっとした興味があります。それがセッションにも影響することになるのかなと思っています。

エリザベスカラー

以前から気が付いていたことではあるのですが、改めて深掘りしてみてよく分かったことがあります。

自分は、自分がイメージしているような1人の人間であると思い、そう信じ込んでしまったことに、一躍買っているのはこの身体の存在なのです。

生まれた時からずっと、自分の周辺に常にあり続けているこの身体の存在が、一人称でありながらも自分を見ることができると感じてしまったのです。

実際は、自分の腕は自分ではないので見ることができるのです。自分の足や胴体も自分そのものではないので、見ることができるのです。

そしてその身体とともに、これが自分だと思っているのですが、それは決して一人称ではなかったということです。

自分に近いところにある身体を自分だと思い込んでしまったがために、これが自分だという石頭的な信じ込みが定着してしまったのです。

たまに見かけるものですが、犬の首に装着するエリザベスカラーって知ってますか?犬が患部などを舐めてしまわないようにする、メガホンを広げたようなアレです。

アレを自分の首につけて生活してみたらどうなるでしょうか?つまりは、自分の身体が見えないようにして生活するのです。

もしかしたら、一人称である自分は見えないということをしっかり感じ取ることができるかもしれないですね。

正直、いつかチャンスがあったら実験してみようと思っています。だいぶ変人が本気で混じってきた気がします。

自分は人間ではない

ブッダにしても、osho にしても、その他多くの賢人や悟りを開いた人たちが歴史上沢山いるのに、誰も直接的には言わない言葉があります。

それは、「私たちは人間ではない!」なのです。そういう人々の誰もが言葉を選んで婉曲にそのことを表現しているのです。

それが私にはとても不思議な感じがするのです。実際、私自身もこのブログでこの言葉を表現したことがほとんどなかったかもしれません。

けれども、もう周りくどい言い方をする必要などないかなと思うようになったので、今日は直接的な言い方をすることにしました。

敢えて言えば、本当にシンプルなことだと分かります。人間として生きているつもりになっているだけで、真実は違うのです。

何度も繰り返しますが、私たちは自分が思っているような人間ではないということ。確かに肉体があることは事実です。

その肉体の中には誰もいません。誰もその肉体の顔についている二つの目から外側の世界を見ているわけではないということです。

肉体の存在する場所とは、常に「ここ」なのです。それは場所ではなく、位置でもなくただ「ここ」しかないのです。

ここから自分自身である空間の中に起きつつある宇宙を眺めているのです。と、ここまで書いて気づいたことがあるのですが、やはりこういう表現はあまりいい気持ちがしませんね。

この内容を信じて欲しくて書いているのではなく、ただ自分自身で検証することしかないのです。私自身も検証を継続していくのみです。

瞑想をもっと身近なものに

人によっては、瞑想に興味はあるのだけれど、どうやったらいいのか分からないとか、目を閉じてじっとしていようと思ってもすぐに飽きてしまうなど。

チャレンジはしても、結局のところ瞑想は自分にとっては難しいとか、馴染めないと感じてやめてしまう人も多いのかも知れません。

それはとても勿体ないことだと思っていて、もっと気楽に考えられたらいいのになあと思うのです。

実は瞑想というのは、本当に様々なやり方があるので、自分にとってやりやすい方法が必ずあるのです。

一般的には、瞑想中の人を外側から眺めると、静かに姿勢良く座って目を閉じて、微動だにせずにただただ静かにしているように見えます。

けれども、例えば目を閉じていることが苦手な人であれば、目を閉じる必要などないのです。

伏目がちにしてどこをみるでもなく下の方に視線を固定しておくだけでもいいのです。実際座禅などはこの方法で行うようですし。

もっと言えば、全く目を閉じずに正面にある壁の一点を凝視するというのでも構いません。

或いは、私の場合は目を開けて部屋の空間を見るようにすることもあります。それは実際にはどこも見ていないというやり方です。

意識を内側に向けることができると、自然とこのやり方になるのです。この方法なら立っている状態でもできます。

一つだけ注意した方が良さそうなことは、身体を横にしたままやらない方がいいということ。少なくとも上半身だけは直立させておいた方がうまくいくはずです。

完全に仰向け状態になってしまうと、眠ってしまうことになりかねないので。これは私の実体験です。

いずれにしても、瞑想を堅苦しく考えて正しい方法で行わなければならないというのが、瞑想を身近なものにならなくさせていると思いますね。

物語からの脱出

日頃色々な言い方でお伝えしていることなのですが、例えば「意識的であること」とか、「自己想起する」、或いは「自分に意識を向ける」等々。

これらは全部基本的には同じことを言っているのですが、要するに見ること、眺めることなのです。

ただし間違わないようにしなければいけないのは、外の景色をただ眺めるということでは決してないのです。

外側に向けていた見る方向を180度変えて、自分側に向けるのです。そうすることで、自我である自分を見ていてあげることができるのです。

こうすることで、物語から抜けていることができるのです。自我としての私たちは放っておくと、あっという間に物語の中に引き摺り込まれてしまうからです。

そういうと何やら受け身のような気もしますが、率直に言えば自分から物語の中に身を投じてしまうということです。

物語が大好き、物語がなければ死んでしまうのです。そして物語に入り込んでしまったら最後、自分を見守ること、意識的であることは非常に難しくなってしまうのです。

そしてもう一つ付け加えると、内向きの見方というのは自分の本質から世界を眺めることにも繋がるのです。

それは本質の内側に全世界が包含されているからです。このことで受けられる恩恵は計り知れないものがあります。

カギとなるのは、あらゆる観念を使わずに正直に謙虚にソレを眺めるということになりますね。

生きやすくなるコツ

今日は生きやすくなるいくつかのコツを書いてみようと思います。とは言ってもいつもここに書いていることの繰り返しになりますが…。

まずは、何であれ事を起こらしめること。それがそのように起きるように、そこに口出しせずにそのままにすること。

それは起きるべくして起きていることなので、自分などがちょっかいを出そうとする必要も必然もないということ。

そして、そのことに決して過度の期待をせずにいること。起きることへの期待だけでなく、自分自身に対しての期待も含まれるので、そこを見逃さないこと。

期待は良さげに見えますが、実は防衛でしかなく、そこには純粋な愛は含まれていないということに気づくこと。

自分にも他人にも期待しなくなってくると、場合によって淡白だとか、冷たい人だと思われてしまうかもしれませんが、そこは動じないでいられればいいのです。

期待せずにいると、起きた結果に無頓着になり、成功したとか失敗したということから離れていることができます。

そして最後に、自分が持っているあらゆる正しさから足を洗うこと。正しさは蜜の味がするのですが、それが巡り巡って自分の首を絞めることに気付けばいいのですね。

決して信じずに、検証すること。実践あるのみです。

事実に基けば、見えてくるものがある

一つ目の事実は、誰も自分がどこにいるのかを知らずに生活しているということ。自分の身体の居場所だけは知っているのですが、自分自身の居場所は分からないのです。

二つ目の事実は、生まれてから一度も自分を直接見たことがないということ。鏡や映像の中の自分の姿は見たことがあるのですが…。

三つ目の事実は、自分が自分自身であるために必要なものとは意識であって、それ以外は全て属性(ただのデータ)であるということ。

四つ目の事実は、その意識というのは大きさも形も位置も何もなく、ただ気づいているということ。そのため、個人的なものではなく、非存在であるということ。

以上の事実から伺い知れることは、個人という単位で私たちが存在しているわけではないということ。あなたが個人でなければ、あなたが見ている他人も個人ではない。

つまり、私たちに居場所というものはなく、どこにもいないということは無であり、同様にして遍在しているということ。それが唯一無二の意識なのですね。

その結果、私たちの本質である意識は誰かに見られる存在ではなく、逆にただ見ることだけがあるのです。

しかも私たち意識が眺めている全ての存在は、その意識という空間の中に起きては消えていくということ。つまり外側とか内側というものはないのです。

こうした事実は、どうも胡散臭いことのように捉えられてしまうかもしれませんが、それは幼い頃にお前は個人だと洗脳されたことがこびりついているからです。

幼い頃の洗脳はひどく頑丈で簡単には壊れそうにありませんので、少しずつ目の前に提示されている事実に素直に目を向け続ける必要がありそうです。

あなたは非存在

今から約50年前に、レッドツェッペリンというロックバンドが日本武道館でコンサートをやるというので、高校生だった私は見に行ったことがありました。

彼らの音楽は大音量で聞くのが最高なのですが、ただガチャガチャうるさいのではなく、爆音、無音、爆音のようなメリハリがあったのです。

その演奏途中の無音状態に快感を感じたのを覚えています。それはきっと、音は静寂なしでは成立しないということの表現だったのではと思うのです。

あらゆる音は、静寂からやってきて静寂へと戻っていくのです。無音こそが全ての音の根源であるということです。

それと同じことが「存在」に対しても言えるのです。あらゆる存在は、無から立ち上がってきて、その無へと帰っていくのです。

無音という言葉に対応する無存在という言葉がないので、ただ無と表現するしかないのですが、意味合いとしては非存在ということです。

そしてその非存在が全存在の根源なのですが、それこそが私たちの本質である唯一無二の意識なのですね。

あなたの本当の姿は非存在だと言われても、何のことを言っているの?となるのですが、それを体得せずに死ぬのはもったいないなあと思っています。

自我は生まれて死ぬが、意識は永遠

日頃から自分とは大体こんな奴だと知って生活しているのですが、厳密に見ると自分自身と自分の属性とがゴッチャになっているのです。

自分の属性を一つひとつ脇に置いていく作業をしてみてください。例えば、自分の性別、年齢、名前、国籍、身体、外見、性格、境遇、記憶、考え等々。

こう言ったものは全部自分自身ではなく、自分の属性と思って間違いありません。感情だって自分自身ではありませんね。

そうした属性を全部脇に置いて残ったものこそが、自分自身だと言えるわけですが、残ったものとは何でしょうか?

自分が存続するために残っているものとは?それは意識なのです。意識を切り離してしまったら、もう自分はいなくなってしまうはず。

ところが、ここで非常に厄介なことに気づくのです。つまり自分自身だと思っていた意識には、どんな個人的な印も付いてはいないのです。

要するに、自分である意識とは個人のものではなかったということ。意識には大きさも位置も何一つないのです。時間すらありません。

意識が生まれたり消えたりすることがないので、唯一無二のものだと分かります。となると、私の意識はあなたの意識でもあるのです。

そもそも私の…とはもう言えないのです。その意識とは、見ることです。ただ見ること、気づいていること。

それが意識であり、私たちの本質なのです。自我は生まれて死にゆく哀れなものですが、意識は永遠なのですね。

ただただ眺める

以前ハワイに遊びに行った時に、絶景の名所のようなところでクルマを停めて、断崖絶壁のようなところからの眺めを楽しんだことがあったのです。

その時に、向こう側に見える切り立った山肌などが、どれほどの距離のところにあるのかが分からなくなって、要するに距離感がバカになったのです。

遠いと言えば遠いし、近いと思えば近い感じがして、極端に言ったら手が届くのではないかというレベルまで感覚が鈍ったのです。

自分の中心からただただ眺めるということをやっていると、それと同じような感覚になれる時があるのです。

とはいえ、やはり変化のない毎日の生活で目にするものは、慣れてしまっているので、なかなか遠近感が薄れることもないのです。

そんなわけで、久しぶりにどこかに遠出して、景色が開けているところでただ眺めるを実践したいなと思うようになりました。

日頃は遠出したいという欲望がないので、ほぼ決まった半径5kmくらいのところをうろうろしながら生活しているわけですが。

ここでようやくコロナ騒ぎがちょっと自分にも影響することになるかもしれないなと、暢気なことを考えている最近の私です。