物事は見たままに在る

ブッダはかつて、「行為はあるが、行為者はいない」と言ったのです。つまりこの世界には、私たちが思い描くような自律的な個人などいないということです。

肉体はあるけれど、それは木や岩などと違いはないということです。その肉体の顔の部分に二つの目があるのは事実です。

けれども岩が何も見ていないのと同様に、その二つの目によって、世界を見ている誰もいないということです。

自我というのは思考による仮想的なものであって、その思考の全ては他人からやってきたものなのです。

他人の自我があなたの自我を作ったと言ってもいいのです。その自我は、身体のあたりに自分がいると思い込むことになったのです。

そして二つの目を通して、外の世界を見ているということにしたのです。真実はどうかと言えば、あなたの本質が見ているものをただ横取りしているに過ぎません。

自我そのものは刷り込まれたものというよりも、与えられたものです。その後、今度は自我が刷り込みによって肥大化して行ったということです。

こうした複雑な自我の思考体系を簡単に傍に退けるなど到底無理な話です。だから、まずは自己の中心から見るという練習をすることです。

どれほど自我に埋もれてしまっていたとしても、真実は消えて無くなることはないので、安心してじっくりと取り組むことができます。

少しずつですが、亀の歩みのように少しずつ、ただ見えているように物事があると気づけるようになるまで、練習を継続することですね。