動画撮影で気づけたこと

皆さんは、ご自身の顔のことを明確にイメージすることってできますか?って我ながら変な質問をしてるなとは思うのですが、いかがでしょうか?

実は、私はできませんでした。と、過去形で言っているのは、ここ最近になってようやく自分の顔と声を覚えることができるようになったからです。

それは動画を撮影するようになったからなのです。つまり、それ以前は自分の顔を鏡で見る時と言うのは、何か物体でも見るように機械的だったということです。

ドライヤーで整髪する時にだけしっかり鏡を見るのですが、顔をまじまじとは見てないのです。ただ自分の顔を全く気にしてないということではないですよ。

きっと、年齢を重ねて行くに連れて、あれこんなはずじゃなかったのに、という気持ちになりがちで、あまり好意的に見ることができなくなったというのもあるかも。

それと動画のおかげで、もう一つ気づいたことがあるのです。それは、自分の喋りはスピードがやや遅いなということ。

スマホで撮影した動画を、YouTubeにアップするときにどういうわけか、画像が乱れてしまうことがあって、これはしっかり確認しなければいけないなと気づいたのです。

ですが、自分の動画のくせにチェックのためだけに全体を通して見るのはかったるいというのがあったので、視聴速度を1.25倍で見るようにしたのです。

すると、なんとも軽快な語り口調に感じられてびっくり。このくらいの速度で話すことができたら、理解しやすいなあと遅ればせながら自覚したのです。

とはいえ、自ら話す速度を変えるのはなかなか難しいので、皆さんぜひ私の動画を視聴される時には、1.25倍の速度で見ることをお勧めします。

動画を撮影することで、これまで気づけなかったことに色々と気づくことができて、年齢を顧みずにチャレンジすることって、「あり寄りのあり」なんですね。

意識がハートに下がったら…

この時代に生きる私たちの多くが、左脳を中心とした考え方、生き方を選んでしまっているのですが、その左脳のエネルギーはちょうど頭のあたりを覆っている感じがします。

その一方で、左脳にエネルギーを独り占めされてしまった感のある右脳は、その活動が消えたわけではないですが、とても控えめでそのエネルギーを感じづらくなっているように思います。

右脳のエネルギーは、位置としては頭よりももっとずっと下がった、ハートの辺りを覆っている感じがします。

そして、私たちの意識が左脳に引っ張られて頭の方に寄ってしまったおかげで、ハートから離れてしまっているのです。

ハートの特徴は、幼い頃に感じていたあのなんとも言えないキラキラした心地よさ、あるいはほんわかした暖かさや、ふわっとした浮遊感のようなものかなと。

実はその感覚って、瞑想している時の感覚に近い感じがするのです。強烈な幸せではなく、そこはかとない幸福感のようなものです。

それもなんの理由もなく、ただ呼吸してここに存在しているだけでいいのです。これって、左脳優位の時間を生きていると、本当に分からなくなってしまうのです。

だからこそ、左脳のエネルギーに引きずられて頭側に持って行かれた意識で生きていると、何か面白いこと、楽しいこと、刺激的なことを求めずにはいられなくなってしまうのです。

これって絵に描いたような悪循環ですね。こうした仕組みに気づいて、少しずつ意識を右脳側、つまりハートの方へと持っていくようにしたいものです。

意識がハートへと下がっただけで、特別なものは何も必要とせずに、理由のないハッピーな感覚へと戻ることができるのですから。

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こちらも是非視聴してくださいね。

自分を楽しむって?

このoshoの言葉も胸に響くものがありますね。

独りへと入っていきなさい。数日間、いっさいの関係を忘れてしまいなさい。生まれて初めて、自分自身と関係を持ちなさい。それが瞑想のすべてだ。ただ自分自身でいて、くつろいで、自分自身を楽しんでごらん。他人を楽しむのは試みてきたのだから、今度は自分を楽しんでみるといい。

この「自分を楽しむ」という言葉は、かつて、この仕事を初めてすぐの頃にある人からいただいた宣言文のようなものの中にもあったものです。

「自分を楽しむ」というのは、簡単なことのようですごく難しいニュアンスが含まれているなあと、あの当時思ったのを覚えています。

そこから20数年が経ちましたが、自分自身に対する感覚は相変わらずだったのですが、先日瞑想をしていてふとこれまでと異なる感覚になったのです。

それは、目を閉じているあの真っ暗な視界に、空間的なものを感じるようになったのです。いつもではないのですけどね。

それで、その空間というか広がりを感じていたら、それそのものが自分自身なんだなという思いがやってきたのです。

その時に初めて、自分を楽しむということの意味が分かった感じがしたのですね。外の世界も面白いけれど、この内側の広大な空間である自分もとても興味深いなと。

自分てこんなものだと長い間思っていたのですが、これはかなり興味深い奴なんだなと改めて気づいたのかもしれません。

あの空間の中には、一体どんな情報が詰まっているのか是非知りたいものだなと。老後の楽しみがまた一つ増えたくらいに、ノーテンキに考えています。

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想像を絶する未来を楽しみに生きる

osho がたまに口にするフレーズで、次のようなものがあるのです。「それはあなたの思いもよらないものだ。」

これって、すごく気になりませんか?自分がこれまで考えたり遭遇したりしてきたどんなものとも違うと言っているからです。

だからその言葉を聞くと、なんだか居ても立ってもいられないくらいに、もどかしいような感じがしてしまうのです。

例えば、本当に覚醒してしまった場合の感覚などはまさにそうですよね。それは、今自我として生きているあなたの思いもよらないものだ、と言われた気がして。

あるいは、瞑想を続けている日々の私にとって、瞑想が消えると、全く違う種類の瞑想性が生まれる。それはあなたの思いもよらないものだ、と。

こんなことを言われたら、ああそれは一体どんなものなのだろうと、遥か彼方に思いを馳せる感じで空(くう)を見つめてしまいます。

どれほど憧れて想像してみたところで、その想像を遥かに超えている、そう言われているわけなのでもうどうしようもないのです。

私たちは今自分ができることだけをやっていくしかないのです。今急に天使になろうとしてもなれないのですから。

地道な日々の変化に気をつけて、自分自身に対して注意を怠らないようにする。背伸びをせずに、それでも想像を絶する未来を楽しみに今を生きることにしますかね。

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現実とはリアルな夢?

私たちは、この現実と寝ている時に見る夢を互いに対極にあるものと考えています。だってそうですよね、現実で一億円当たるのと夢で一億円当たるのとでは、比べようもなく違うことだからです。

けれども、夢の中で一億円当たった時の体験というか、内面で湧き起こる感覚は、それが夢だったと気付かないうちは、現実と変わらないのではないかと。

実際、現実と夢で同じ体験をした時の脳波に、違いはないということが実験によって証明されているらしいのです。

つまり、体験そのものは現実でも夢でも同じだということです。これってすごいことじゃないですかね?

こんな夢見ちゃったよと言って、その夢を軽くあしらう感覚があったとしても、その夢をみて体験している時には、現実と変わらないわけですから。

それでハタと気づいたことがあるのですが、この現実が本当は夢のようなものなのだと見抜いてしまったとしたらどうでしょう?

リアルな人生の色合いが急激に色褪せてしまうことになるのではないかと。夢と違って現実なんだと思っているからこそ、様々なリアルな体験が可能となるわけです。

現実を現実だと信じ込んでいるからこそ、私たちはこの物質世界での貴重な経験を沢山積んで帰れるわけです。

ただ、そうは言っても人類全体の変化というか、やってきつつある方向性というのを考えると、どうやらそこそこの人たちが現実を夢として見破る時代に入りつつあるのかなと。

現実は現実なんだというこれまで通りの生き方と、現実は夢のようなものだという新たな路線と、あなたならどちらを選択しますか?

こちらも是非ご視聴ください。

内面にあるものを外側に見出す

「備えあれば憂いなし」という格言のようなものがありますね。準備をしっかりしておけば、いざという時に結果がどうかと心配することはない、という事です。

確かに正しいことを言っていると思います。今家を立て直そうとしている最中なのですが、災害が起きた時のための様々な設備などがオプションとして提示されるのです。

地震や台風、あるいは水害などに対する新しい取り組みがされていて、素晴らしいなとは思うのですが、全てのオプションを取り入れようとしたら、大変な金額になってしまいます。

何があっても自分は絶対に生き残りたい!という強い気持ちがあるのなら、自分の命ですからお金には代えられませんが、一般的に考えてそこはバランスなのでしょうね。

上記の格言を鵜呑みにしていつでも準備万端ということを心がけようとすれば、それなりの弊害も出てくるのです。

未来の安全のために、現在の生活を犠牲にしてしまうようでは本末転倒ですから。命に関わることはともかく、もっと軽い事柄でも同じだと思うのです。

準備を怠ることを云々するよりも、未来のことを憂うことの方を見つめて見ることも大切なのではないかと。

心の中にある不安感が大きければ、どれだけ準備を念入りにしようと不安が消えることは決してないからです。

不安の材料はそれこそ周り中に転がっています。それらに目を向けるなら、安心したいという欲求が強くなるのは当然かもしれません。

不安ネタから目を背けたり、抑圧して気付かなくするということを言っているのではなく、ただ自分の意識がどこに向きやすいかに気づいていることはとても大切です。

波動の悪そうなニュースに引っ張られるのか、気分が良くなるような情報を意識的に取り入れようとするのか、その選択は自由なのです。

あなたが自由意志で選ぶものこそ、あなたの内面にどんなものが隠されているのかを物語っているということに気づくことですね。

早く解放されるといいなと

私の母親は、あと一ヶ月強で95歳になるのですが、老人ホームに入居させてから早くも一年が経ちました。自宅からクルマですぐのところなので、行ける時は1日おきくらいに面会に行っているのです。

この週末に会いに行った時に、いつになく不審な面持ちで私のことを見つめるので、少し認知症が進行したのかなと思ったのですが、すぐに分かったような面持ちになったのです。

ただ、「早く死にたいねえ!」と言い出して、そのことを一度思い出すとそれを何度となく繰り返すので、こちらとしても「そうだねえ」としか言いようがなくて。

人は何か学びが残っている間は死ねないと聞いたことがあるのですが、もう生きていたってほとんど無意識で暮らしているので、何も得るものはないのではと思うのです。

だったら、早くこの不自由極まりない物質世界から解放してあげたいなと個人的には思ってしまうのですが…。

母親は、若い頃から「長生きはしたくない」と、事あるごとに言い続けてきたので、その真逆になっているのが不思議。もしかしたら、現在の状況を予知していたのかなと。

これは私の個人的な感覚なのですが、人はその肉体の死とともに自我も死ぬことになるのですが、その後非物質の身体になって解放されるのだと。

もしかしたら、母親自身の学びというよりも、周囲の者、例えば私とか家族の方に、死にゆく母親との関係の中で、なんらかの学びがあるのかなと考えてみたり。

だとしたら、どんなものがまだ残っているのかを早急に発見して、なるべく速やかに母親のここでの役目を終えさせてあげたいなと、やや真剣に考えています。

「根気」よりも「楽しみ」が続ける秘訣

osho の言葉としては、少し毛色の異なる印象を感じたのですが、とても大切な内容なので皆さんとシェアしたいと思います。

根気こそ
スピリチュアルな生活において他の何よりも重要なものだ
種を蒔いてから人はどんなに長く待たねばならないものか!
はじめ、あらゆる努力は無駄であったかに思われ
何ひとつ起こらないかに見える
するとある日、待つことが終わってそこに現実が現れる–

これにはとても耳が痛いなあと感じ入るのです。というのも、自分のマインドが何であれすぐに結果を求めてしまう傾向が強いからです。

最近、ある新しいことに挑戦している最中なのですが、それをほぼマスターしたと言っていいくらいの人が、練習を初めて結果が出るのに9年かかったと。

それを知って、自分には到底それだけの根気が続かないと反射的に思ってしまったのです。9年の練習期間中、ずっとできるようになることを信じて継続するって、ちょっと気が遠くなる感じもします。

そこでふと思ったのですが、そうか、練習をつまらない面倒なものだとしてしまうから、すぐにでも結果を手に入れたいと思うのかと。

だったら練習そのものを思い切り楽しむ方法を見つければいいのかもしれないなと。なんなら練習と捉える代わりに、それ自体をやりたくて仕方がないことと感じられたらいいのかもなと。

そうすれば、たとえ9年後に結果がやっぱり出なかったとしても、それはそれで自分にとっては楽しい9年間だったと思えるに違いないと。

そう思ったら、一つだけ自分にもようやく少しだけ結果が見えてきたなと思える事柄があったのです。それが瞑想です。

この仕事を始めて22年経つのですが、これまでに瞑想のマイブームが三度ほどありました。そのブームが過ぎてしまうと、比較的興味を失ってしまうのです。

それでも、不思議にまたブームがやってきてくれて、ブームの間は瞑想することが苦痛ではないので、続くわけですね。

そして今回の三回目のブームで、ようやく自分なりの結果らしきものを体感できるようになったのです。

この経験を無駄にしないようにしないとなと。今回は瞑想しつつなんとも心地よい音楽を存分に聞かせてあげるという作戦が功を奏したのかもしれません。

つまり、「根気」と言われてしまうといきなり自信喪失してしまうので、如何に楽しみつつ実践するかに尽きるなと。楽しい、心地良い、があればさして根気はいらないのだと思いますね。

全ての人に共通のテーマがある

全ての人が地球にやってくるときに、その人に特有のテーマというか青写真が予め設定されているというお話を聞いたことがありますか?

青写真というのは、仕事などでよく使われる比喩的な言葉ですが、要するに未来の設計というか決められた大枠のことです。

その設定の中で、私たちは自由に人生を生きていいよ、となっているのですが、残念なことにそういった事実は忘れてしまっているようです。

個人個人でその人生でどういったことを経験しようとしているのか、それを知れたらいいのにと思うことはあるかもしれませんね。

例えば、私の場合だったら人生の折り返し地点である45歳までは、ごく普通の当たり前のサラリーマン人生だったのです。

ところが、そこから一転して自分でもあれよあれよという間に、今の生活へと変化してしまいました。

これが予め概ね決められていたのかも知れないと思うと、最初に教えておいてくれよ!と言いたくなる気持ちもあります。

ですが、各自の青写真にそれぞれ固有のテーマがあるとしても、実は全ての人に共通の課題というものもあるのではないかと感じています。

それは、いつもこのブログでもお伝えしていることですが、「できるだけ自分らしく生きていく」ということです。

これがあって、その上にテーマがあると思った方がいいのです。自分のオリジナルから離れた状態では、どんなテーマもまともに経験などできないからですね。

今日は冬至ですね

「明晰夢」という言葉を聞いたことはあるでしょうか?英語で言うと、Lucid Dream(ルシッド・ドリーム)と言うのです。

そうなのです。Healing Office Lucid の Lucid です。ただし、私がこの単語を自分のヒーリングオフィスの名前に使おうと思ったのは、Lucid Dream とは無関係なのです。

この仕事を始めようとする時には、そんな言葉は聞いたこともなかったので。仕事を始めてしばらくした時に、Lucid Dream と言う言葉に出会ってちょっとびっくりしたのを覚えています。

当時を思い返すと、 Lucid と言うのは英語で頭脳明晰という意味を持っており、ラテン語では光という意味を持っているということだけだったのです。

だから Lucid Dream と重なったのは偶然なのです。これまでこのブログで、明晰夢について書いたことがあったかどうか検索してみたところ、ピッタリ8年前の今日に書いていましたね。

へ〜という内容の事を書いていますので、宜しかったら読んでみてください。

夢を夢と見抜くには?

一般的に、私たちは夢の中では無意識状態なのですね。だからこそ、これが夢だとは気付かずにその物語の中に深く巻き込まれてしまうわけです。

明晰夢というのは、逆に夢の中でこれは夢だと明確に気づいている状態になる夢のことなのです。夢の中で、明晰に夢かどうかを見極めることができるのです。

もしかしたら、それってこの現実の中でも同じことが言えるのではないかと。つまり、意識レベルが低いために、私たちはこの現実を夢だと見抜くことができずにいるのではないかと。

だとしたら、もっともっと日々意識的であらねばならないのです。思考の邪魔が入らない、純粋な意識の状態になる必要があるのです。

人生物語という時間の流れからは外れて、今この瞬間に居続けることができたなら、これは夢だと気づくことになるのかもしれませんね。

今日が冬至であり、8年前にも同じ題材で書いていたというのは、もしかしたら単なる偶然ではないかもしれません。

この現実という夢の中で皆さんとお会いしていると思うと、なんだか皆さんのことがより愛おしく感じられてくるのは、ありがたいことですね。

こちらも是非ご視聴くださいね!