人の気分の責任は取れない

先日、自分の気分を大切にしましょう!という内容の動画をYouTubeにアップしたのですが、それに関連して思い出したことがあります。

それは、他人の気分についてのことです。これは、敏感なタイプの人に多いのかもしれませんが、自分以外の誰かの気分のことをものすごく気にしてしまうということがあるのです。

敏感であるがゆえに、人の感情や気持ち、気分などが自動的に入ってきてしまうということが原因となって、それを優先してしまうのです。

けれども、私たちは自分の気分には100%責任があるのですが、他人の気分には1ミリたりとも責任がないのです。

なぜなら、他人の気分を変えることのできる唯一の人は、その本人だけだからです。私たちができることと言えば、せいぜい、いい気分でいられたらいいねと思いやることだけです。

それ以外はどれほど頑張ったところで不可能なことなのです。そのことを知らずに、人の気分を良くしようとして悪戦苦闘してしまうのです。

この努力ほど無意味で自己犠牲を伴うこともありません。あなたは、周りにいる誰の気分のことも感知せずに、自らの大事な気分にのみケアをしてあげる必要があるのです。

自分の気分を犠牲にしてまで、他人の気分を気遣うなどという馬鹿げたことから、速やかに足を洗うことですね。

もしも少しでも自覚があるのでしたら、自分は不可能に挑戦してきてしまったのだと気づいて、今すぐにでも辞めることです。

そして、エネルギーの全てを使って、ご自身の気分を最高の状態にしてあげられるように意識することですね。

こちらも是非ご視聴下さ〜い!前回の動画の補足です。

ただ自分らしくあればいい

無意識的に生きている人々、同様にして言葉は違いますが盲目的に生きている人々、彼らは自分自身を幸せにすることはできないのです。

そして当然のこととして、彼らが他人を助けることもできないのです。彼らがどれほど善意に満ちていたとしてもです。

その意識のあり方が続く限りにおいて、どのようにしても満たされることはないからです。動物であるならいいのですが、人間の場合は無理なのです。

彼らが人助けをしようとすればするほど、あらゆる問題が持ち上がってきてしまうのです。それは迷惑でしかないのです、皮肉なことですが。

その理由は、彼らの意識が目を閉じていて、自らの人生を他の誰かに任せてしまっているからなのです。

自分の固有のエネルギーに見合った生き方があるのに、それに気づくことなく決して一致しない他人の生き方と癒着してしまうからです。

もしもそうしたことに気づいて、他人が何と言おうと一番自分らしい生き方を選択するようになるなら、突如として宇宙が味方をしてくれるようになるのです。

そうなると、それまで感じていた重苦しさから解放されて、軽快で清々しい感覚が蘇ってくるはずです。

宇宙の法則はとてもシンプルです。周りに惑わされることなく、あなたが自分の存在に気づいて、それに明確に意識を向けていられるなら、過不足なく全てが整ってきてくれるのです。

あなたがあなたらしくいられさえすればいいのです。ただそれだけなのですが、考えるだけでそれがとても難しいことのように感じられるのですね。

未来の心配事にそそのかされない

私たちは、今この瞬間に生きているわけで、過去や未来と共にあるわけではないはずなのに、どうしても過去を悔やみ、未来を憂うのです。

理性では意味がないとはっきり分かっているのに、どうしても思考が過去や未来へと矛先を向けてくるのです。

気がつくと、今この瞬間を台無しにして過去や未来へとエネルギーを飛ばして、大切な現在を生きるのを忘れてしまうわけです。

ところが、癒しやその他あらゆる助けを借りて、考え方や生き方が変化してくるにつれて、ごく自然と過去と未来へ向かうことが少なくなってくるのです。

これには年齢を重ねるということも一役買ってはいるかもしれないですね。私は自覚としては過去を悔やむということは比較的少ないのかなと。

それよりも近未来の不安ネタにハマってしまう方が多いと思っていたのですが、それがどういうわけか最近明らかに変化してきました。

これまで通り未来を心配する左脳からの誘いがやってくるのですが、その手に乗らないようにできるようになったのです。

これには、自分の波動を下げたくないのと、自分の気分を良い状態に保ちたいというこの二つのことを忘れずにいられるようになったのが大きいのかもしれません。

だからすぐに懸念事項から撤退して、気分が優れる方向へと視線を移すことができるのです。もっと早くからこうした心がけを実践していればよかったなと、今更ながら思うのです。

とはいえ、これも後悔するようなことにはならずに済むようになっています。そして、瞑想の時のあの感覚が、功を奏しているとも感じています。

全体性と一つになる

私たちの脳は、身体全体からの情報、信号を絶えず受信しながら今身体はこのような状態になっているということを把握しつつあるのです。

脳が身体を動かすための信号を各筋肉などに送信して、それによって身体が動いたという情報をキャッチしつつ、異常がないかを確認しているわけです。

そういった脳と身体とのやり取りを通じて、脳とりわけ左脳は自分という存在が周囲から切り離された独立したモノであることを実感するのです。

それを逆手に取るのが瞑想です。瞑想中は、できるだけ身体を動かさずにじっとしているようにする理由は、身体からの信号を脳に送らないようにするためです。

そうすることによって、脳は身体の存在を認識しづらくなっていくのです。その状態を続けていくうちに、脳は身体の感覚を感じることもできなくなっていくのです。

すると、外側に広がる静の世界と自分の身体との区別が曖昧になって、分離感が薄れていってくれるわけです。

それがピークに達するようになると、自分が宇宙という広大な空間の一つのピースとして、カチッとハマることになるのです。

それが、今この瞬間と同期がとれた状態になった感覚としてやってくるのです。それが全体性と一つになるということです。

言葉でクドクド書くと何やら小難しいことのように聞こえるのですが、実際にはものすごく自然に起こるシンプルな現象だと言えます。

一度同期が取れだすと、今度は多少であれば身体が動いたとしても、その一体感は消えなくなるので、安心感に包まれることになります。

もしも覚醒してしまうようであれば、どれだけ動こうが何をしようがその一体感はずっと継続してくれることになるのでしょうね。

万全を期す<臨機応変

もしもあなたが非常に危険で命懸けの登山にチャレンジするとなったら、あらゆる想定をして準備に万全を期するはずですね。

それは当然のことだと思うのですが、普段の生活においてはそれほど危険で命をかけるようなことは滅多にないはずです。

だから事前の準備はほどほどにして、あとはある意味ぶっつけ本番でこなしていくということがあっても言い訳です。

もしかすると、抜けがないような完全な準備をするよりも、リアルタイムで起きることを楽しみながら事に当たるということが、楽しいということもあるはずです。

私はどちらかというと、後者の生き方が性に合っているようで、海外出張する時なども足りないものは現地調達を旨としていました。

そのおかげで、少々困った事態に遭遇してしまうこともあったりするのですが、それはそれでまあいいんじゃないという感覚で乗り切るのです。

いずれにしても、それほどの大ごとにはならないという楽天的な考え方が好みなのですね。カッコよく表現するなら、存在を信頼しているということです。

最近始めたYouTubeの撮影にしても、ほぼ事前の準備をせずにやっていて、撮影が終わった直後にもっとこうしておけばよかったかもなと、すぐに反省がやってきます。

けれども、それも少しの間だけですぐにまあいいかというように自分を許してしまえるのです。そのくらいだからこそ、やっていけるんだろうなと思っています。

万全を期すというのも決して悪くはないのですが、瞬間瞬間にやってくる出来事に合わせて臨機応変に対応していくというスタイルも、なかなか面白みがあって飽きないなと思っています。

色彩豊かなこの世界を楽しむ

毎年秋から冬にかけて街が紅葉で色づいてきて、心密かにああ綺麗だなあと感じ入るのですが、どうやら若い頃よりもずっとそういう感覚になることが増えてきましたね。

クルマを運転していると、街路樹であるイチョウの黄色が目に鮮やかに映って、本当に素晴らしい限りなのです。

その光景を昼間見ているせいか、夜に瞑想するときに真っ暗な瞼の裏にその眩しいイチョウの黄金色がクッキリ見えてくるのです。

実はこれまでずっと、自分はイメージ能力が低いなあと自覚してきたのですが、このイチョウの輝くような色合いが美しく見え出したことに、少々の驚きを持って体験しているのです。

イメージ力の高い人のように、どうやったら頭の中でイメージするだけで、くっきり鮮やかに景色などが見えるようになるのだろうかという疑問があったからです。

睡眠中に見る夢にしても、色彩豊かなものを見ることがほとんどなく、味気ない白黒の夢ばかりなのです。

もっと正確に表現するなら、色という概念のない世界の夢とでも言えばいいのか、画像というよりも何かの意味合いとかに焦点が当たった夢みたいなものです。

それはきっと普段の自分の生き方の特徴が出ているのかなと。例えば、よほど印象に残らない限り、人がどんな服装をしていたのかを覚えていなかったりするのです。

目から入ってきた視覚情報を、自分の興味の対象となる情報だけに特化させて見ているのではないかなと、そんな疑いがあるのです。

とはいうものの、今年のイチョウの美しさをきっかけとして、もっともっと色合いとか画像そのものをしっかり見ることができるようになれたらいいなと思うのですね。

こちらの動画もよろしければどうぞ。

手段を楽しめるなら、目標設定もあり

過去何度となく書いていることですが、目標を設定してそれを達成しようとする時、目標は未来にあり、それを達成するための手段は現在にあるのです。

私はそれを便宜上「仕事」と呼んでいます。一方で、手段がそのまま目的になっている場合があるのですが、それを「遊び」と呼ぶことにしています。

例えば、幼い子供が折り紙を覚えて、楽しみながらツルを折っているのは、「遊び」と言えるのです。

なぜなら、ツルを折ることが手段であると同時に、それ自体が目的でもあるからです。この場合の目的は、未来にはありません。

だから物凄く楽しいし、嬉しい気持ちになれるのです。この状態はとても波動が高いだろうと予想できますね。

逆に、未来にある目標を実現するために、場合によっては現在を犠牲にしてまで、我慢しつつ手段を継続するのであれば、それはもう本末転倒なのです。

当然のこと、波動はダダ下がりになってしまうはず。ただし、手段と目標が別々だからなんでも良くないというわけでもありません。

未来の目標を達成するための手段自体を、それなりに楽しめるというのであれば、それはそれで素晴らしいことです。

ただし、手段としてのプロセスの成果が、目標到達に見合ったものになっているかを不安に感じるようですと、やはり波動が下がることになるでしょうね。

「仕事」であろうと「遊び」であろうと、手段を楽しむことができるのであれば、どちらでも構わないということです。

そして手段は常に、今現在にあるので、結局今この瞬間を楽しんでいられるかどうかが最も大切なことだということですね。

コインの片面だけを入手することはできない

この社会で私たちが日常的に使っている言葉の中で、肯定的で良いイメージがあるものもたくさんあるのですが、その中でも自分にはあまりしっくりこないなと感じる言葉があります。

それは例えば、向上心とか、優越感、あるいは自尊心など。よくプライドを持て!と指導者が叱咤激励する場面を見ますが、あれも好みではないですね。

以下のoshoの言葉を読むと、そういうことかと納得できますね。

あなたが理解しなくてはならないのは、自分で自分を優れていると思うときに感じる自尊心と、誰かが自分より優れていると思うときに感じる屈辱感は、同じコインの別々の側面だということだ。このふたつの面は表裏一体だ。まるごとならコインを捨てられるが、半分だけ取っておくわけにはいかない。

同様にして、「自信を持て!」という言葉もありますね。これも苦手なのです。自信が持てないという人にとっては、自分を持つことはいいことだと思うかもしれません。

けれども、自信があるのと自信がないのとは同じコインの裏表なのです。それは、コロコロと表と裏が入れ替わることになるのです。

価値ある自分になる、というのも同じこと。価値がある自分には、その裏側にベッタリと価値のない自分が張り付いているのです。

我々が住んでいるこの世界は、二元性の世界なので表と裏のどちらか一方だけというわけにはいかないのです。

快楽を求めれば、いずれは不快がやってきます。愛を求めれば、いつしか憎しみに変化してしまうわけです。

それが悪いということではなく、そういうものだということを知っておくということが大切なのです。

ただし、思考から抜け出すことができた時だけは、裏表のない非二元の世界へと戻ることができるのですね。

夢は不思議なもの

最近、動画を撮るようになってから、事務所で昼寝をするということがなくなってきました。それまでは、予約が入ってない時にはよく昼寝をしていたのです。

昼寝をすると、ほとんどの場合に夢を見るのですが、それもどうでもいいくだらない夢ばかりを見るのです。

最近知ったのですが、夢には大きく分けて二種類のものがあるのだとか。一つは、「カルマの夢」と言って、要するに私が日常的に見るような潜在意識の中にあるゴタゴタしたものからやってくるもの。

普段気になっている事とか、過去の消化できていない事柄に関連したものとか、そういうあまり波動のよろしくないものですね。

もう一つの方は、「光明の夢」と言って、高次の自分と繋がった状態で見る夢らしいのです。ほとんどの人がこの夢は記憶に残らないらしいのです。

もちろん私もそんな類の夢など一度も見たことがないのですが、できたら死ぬ前に一度くらいは見てみたいものです。

夢はどんな人でも必ず見るものらしいですね。「俺はほとんど夢を見たことがない」と豪語している人でも、単に記憶していないだけで、レム睡眠の時に起こされると、夢を見ていたと答えるそうです。

自分の見る夢に少し注意を向けてみようかなと思っていたら、皮肉なことに夢の記憶がなくなってしまったようで、朝起きた時に何も覚えていないのです。

サラリーマンを辞める少し前に、分析心理学という夢を題材にしたセッションを受けていたことがあったのですが、その時には夢をいくつか覚えておいて、それを持っていく必要があったのです。

そうすると、不思議なことに必ずいくつか夢を見るのです。それを書き留めておいて、セッションの時にセラピストに伝えることで、その時の心理状態を分析してもらうわけです。

その時に知ったことですが、夢には本当はものすごく大切な情報が含まれているらしいので、面倒臭くなければ毎日夢日記をつけるといいのです。

それもある程度長く続けることで、少しずつ自分自身でも自分の内面を分析することができるようになるらしいのですね。

地道な努力が必要ですが、効果は必ず出てくるらしいので、もしもご興味があればチャレンジしてみてくださいね。

こちらもどうぞ、ご視聴ください。

自我とは、精神活動のプロセス

昨日のブログで、二元性というのは思考が創り出した幻想の世界だと表現してもいいのではないかということを書きました。

ということは、生と死というのも二元性を意味しているので、幻想であるということが言えそうですね。

生と死が幻想ってどういう意味?と思うかもしれませんが、要するにどちらも実在するものではないということです。

私たちは、生きているか死んでいるかのどちらかしかないと思い込んでいるのですが、本当はそのどちらでもないし、またそのどちらも含んでいるということです。

私たちの本当の姿は、存在であって生きたり死んだりするようなものではないということです。存在は存在でしかない、存在に対して生死のようなペアはないということ。

これが非二元の世界ですね。我々は思考によって、存在に対して非存在のような不可思議な概念を作り出すことはできますが、それはまやかしです。

私たちのこの物質世界に対して、高次の世界を非物質の世界などとも呼べるのですが、これも思考が作り出したもの。

非物質の世界とはただ単に物質世界よりも波動が高いというだけです。物質、非物質といった捉え方、分け方をする必要はないのです。

このように二元性の世界に慣れ親しんできた私たちにとっては、それが当たり前のように感じられるだけだということですね。

二元性という幻想の世界で死ぬことができるのは、自我だけです。それは自我そのものが存在ではないからです。それは精神活動というプロセスに過ぎないのですから。