「分離」という幻想を見抜く

私たちが原理的に決して満足することができない理由は、「自分は全体から切り離されて一人孤独にいる可哀想な存在だ」と信じてしまったからです。

その否定的な信念の上にあらゆる思考が積み重なって、その思考に絡まれて生活しているのが私たちの人生というわけです。

思考は分離の申し子です。純粋な意識が全ては一つという非二元の世界であるのに対して、思考は全ては分離からできているという二元性の世界にあるものです。

このことを常に忘れずにいることです。非二元が真実であるのに対して、二元性は思考が作り出した幻想の世界とも言えます。

だからもしも満たされた人生に変えたいと願うのであれば、その思考を大人しくさせる必要があるのです。

この幻想の世界で、社会の秩序の中で生きていくためには思考をある程度上手に使っていく必要がありますが、それを必要最小限度にとどめておくことです。

不必要な思考は放っておいて、できるだけ静かにゆったりとした時間を過ごすことで、思考のワナから抜け出すことができるようになるのです。

それ以外のどんな努力も本当は必要ないのです。思考からしっかり距離を置くことさえできれば、自動的に分離という幻想からも少しずつ離れていけるからです。

思考よりも意識を中心に据えることができれば、「自我病について」の動画でもお伝えしたように、物理的などんな理由もなしに満たされた状態になれるのです。

やっぱり、自分の内面の状態を今この瞬間にできるだけいられるようにするのが肝ということになりそうですね。 

脳は単なる受信機

oshoが言っていたことですが、私たちの脳、特に左脳は単なる受信機に過ぎないと。初めのうちは、どういうことなのか分からなかったのです。

左脳というのは、思考を生み出す場所ではないのかと思っていたのですが、oshoによると、どうも思考はエネルギーとしてあちらこちらを浮遊しているのだとか。

ちょうどテレビやラジオの電波のように、可視化することはできないのですが、確実にそれは存在していて、受信機で周波数を合わすことでそれを拾うことができるのです。

それと同じようなことが思考のエネルギーと脳の間の関係にも言えるということですね。だからその人の波動によって、同調する思考のエネルギーに違いがあるということです。

それともう一つ、これは最近ネット上で拾った情報なのですが、記憶というものが脳の中にはないということらしいのです。

今日に至るまでずっと脳科学者たちは、記憶情報が脳の中でどのように蓄積されているのかを探究してきているのですが、全く分からずにいるのです。

それもそのはず、脳はやはり単なる受信機であって、どこかにある記憶情報を瞬間瞬間に受信しているだけなのだとか。

初めはおっと!と思いましたが、それを聞いてoshoの言葉と繋がったのです。脳は、思考も記憶もただ受信しているだけなのだと。

無闇に信じる必要はないのですが、そういう可能性は充分にあるなと感じます。この宇宙は不思議なことだらけですからね。

自分の中にある信念や常識を使って、物事を決めつけてしまうことだけは極力やめたいと思うのですが、いかがでしょうか?

金縛りはチャンスだった

高校生の頃、毎晩のように夜中の3時過ぎまでラジオの深夜放送を聴いてから寝るという生活を繰り返していたのです。

そのせいなのか、金縛り状態になってしまうことがしょっちゅうありました。一度あれがやってくると、ああまたなっちゃったよ〜。困ったなあと。

どれほど身体に力を入れて、そこから逃れようとしても小指一本動かすこともできなくなってしまうので、これで呼吸が止まったら死んじゃうんじゃないの、と不安になってみたりもしました。

現に生きているので、そんな心配は無用だったのですけどね。金縛りというのは、肉体と精神の不適合とでもいうのか。

要するに、身体は疲れていて眠ってしまっているのに、精神がまだ興奮状態を維持しているために、目覚めた状態でいることで起きるものらしいのです。

最近でもたまに、変な時間に昼寝したりすると、小さな金縛り状態がやってきたりすることはあるのですが、それほどの恐怖はもうなくなりました。

実はこの金縛り状態をうまく利用することで、体外離脱をしたり高次の自分と繋がることが可能になるらしいのですが。

それを阻んでいるのが、自分は肉体とイコールだという強い思い込みらしいのです。自分は肉体ではない、自我でもない、純粋な意識だと分かっていても、深い部分では肉体だと思っているのかも知れません。

なぜなら、過去の自分のことを思い出してみたときに、自分の身体の映像記憶がメインになっていることからしても、納得してしまいます。

このしぶとい思い込みを少しでも外していくことができたら、非物質の世界への旅も夢ではなくなるのかも知れませんね。

こちらの動画も宜しければどうぞ。

人生は数奇なもの

人生というのは本当に不思議なもので、明日何が起きるのか全く予想ができないものです。そこがまた面白いところなのですが…。

クライアントさんの中には、癒しを始めてから完全に違う人生を歩み始めるようになった人もいらっしゃいます。側からみていても気持ちがいいものですね。

私自身も、20年以上もごく普通の会社員をしていて、あっという間に全く予想外の展開の中に放り込まれてしまったことがありました。

そのおかげで、今の仕事をするようになったのですが。それまでの自分からすると、到底想像することすらできなかった変化を体験したのです。

ごく普通に生きて、ごく普通の生活を続けてそのまま死んでいくものとばかり思っていたのですが、そうでもなかったということです。

私にとっては、このセラピストという仕事をするようになったこともそうですが、それだけではなくて、自分の人生観、あるいは宇宙観などがガラッと変わってしまったことが大きいのです。

自我としての自分はナニモノでもないということに気づいてしまったし、さらにいえばより高次元の存在としての自己への感覚とか、瞑想による深い気づきなど。

そうしたものが、当たり前の毎日の中にものすごくしっかりと入り込んできて、どうにも無視できないレベルにまで育ってしまっています。

そんなことをつらつら考えていたら、会社員だった自分がどのようにして脱サラしてセラピストになったのかを、まとめて話してみたいと思ったのです。

それで、ことの顛末などを含めて、一本の動画にまとめてみました。題名はまだ決めてませんが、明日にでもアップしますのでよろしければご覧くださいね。 

「自前ドラッグ」に病みつき

高校生か大学生の頃だったと思うのですが、確か「自律訓練法」という本と出会って、そこそこ熱心に実践していたことがありました。

詳しいことは忘れてしまいましたが、いくつかの段階からできてきて、両手が重いとか両手が暖かいなどの自己暗示をかけていくのです。

最後の方の段階になると、額が涼しいのような暗示もありましたが、結局は最後までマスターすることなく終わってしまった記憶があります。

今思うと、あれが自分の中での瞑想のハシリだったのかもなと。そして、今の仕事をするようになって、瞑想を熱心にするブームがやってくるのです。

ブームが去ると、瞑想はやった方がいいかもしれないけれど、やらなければいけないということでもないしなと、勝手に解釈するわけです。

時は流れて、現在三度目のマイブームが来ているようです。二度目のブームの時には、かなり熱心にやっていた記憶があり、例の覚醒体験と関連があるのかもしれません。

それに比べると、現在やってきてるブームはもう少し冷静というのか、やれる時はやるけれどやれない時はやらなくても良いという自由さが大きいので、気楽にやっている感じです。

それでもこれまでに体験したことのない感覚になったりして、面白みが増してきた感じがするのです。

言葉を選ばずに表現すれば、「自前ドラッグ」とでも呼べば良いのか、うまく入り込めると病みつきになるような感覚になれるのです。

薬物でのドラッグではないので、身体にはとても良いのではないかと思っています。ただ、リラックスできるとか、そういう類のものではないのです。

興味津々なので、自我の自分はちょっと静かな興奮をしているようです。この先、もっと行ったらどうなっちゃうの?と好奇心と恐れの入り混じった気持ちがあるようです。

やり方はいたってシンプル。今この瞬間と一つになることを意識して、その中に入っていく感じです。

もっともっと熟達していくことができたなら、みなさんと一緒に瞑想会などをやってみるのもありかなと。あの感覚を皆さんとシェアできたらいいな思っています。

やりたいことが見つからなくても大丈夫

他人と対立したり、争ったりすることを嫌うあまりに、いつでも相手を優先してしまって、奴隷のように生きてきてしまったという人は大勢いるのです。

それはもちろん、幼い頃の親との関係性が大きく影響しているわけで、本人が自覚的にそういう生き方を選んだわけではないのです。

幼い子供が無意識的に自分を守ろうとして、苦肉の策として自動的にやり出したことなのです。その結果、大人になっても自分が何者で、何をしたいと思っているのかなどが分からなくなってしまうのですね。

私自身は、かなり自由に生きてきたはずなのですが、幼い頃からやりたいことが特別ないという自分に気づいていて、それなりに困ったなあと思っていたのです。

だから、自分が何をしたいか分からない、というクライアントさんの気持ちが当たり前のように普通に分かってしまうのです。

私が私なりにたどり着いた道は、何をしたいのか分からなくても大丈夫ということ。必要以上に焦ったり、むやみやたらに手当たり次第に興味を感じないことに手を出したりしなくて良いということ。

何にも特に魅力を感じないのであれば、それはそれで良いということ。そこを問題視する必要はないのだとはっきり分かってあげることです。

「ワクワクすることをやっていますか?」などと言われて、何をしていいのか見当もつかないと落胆する必要などないということです。

今のその自分をそのままに受け止めてあげることのほうが、余程大切なことなのです。他人と自分を比べることをやめるのです。

どんな自分でもOKを出してあげられるなら、いずれは必要なことが必要なタイミングであなたのところにやってくるはずです。

そしてそれが、予想していたようなことではない可能性もあるのです。他人からは気づかれることがないくらいに、目立たぬ内面に関わるようなことであるかもしれません。

どんなあなたであれ、上の方にいるもう一方のあなたの片割れが、深い受容のなかで地上のあなたを優しく見守ってくれていることを忘れないことですね。

自分の上位バーションの立場になってみる

どんな男性が理想ですか?と聞かれて、多くの女性は思いやりがあって優しい人がいいと答えるのではないかと思います。

優しい人、あるいは優しさとは、なにも物腰が柔らかいとか、優しそうな顔立ちをしているということでは必ずしもないわけです。

優しさという特徴の真ん中にあるものとは、相手の立場になって物事を考えることができるということですね。

相手に憑依して、相手の目線で周囲を見ることができる人。実際に相手の身体の中に入るわけにはいかないので、あくまでも想像するしかないのですが。

ということは、想像する力が大きいかどうかが一つのカギになるのかも知れませんが、それに加えて、意識して想像してみるという姿勢も大切です。

感覚的にはとても繊細で、十分に相手の気持ちを理解できる能力があったとしても、明示的にそれをしないという選択もできるわけですから。

さて、今日の本題はここからです。あなたの上の方にあなたをこの物理世界に放り込んだ張本人がいるとします。

いわゆる、ハイヤーマインドとかハイヤーセルフなどと呼ばれています。勿論、人間ではないですし、想像を遥かに超えているので実感はないかも知れません。

けれども、その疑いを一旦脇に置いて、その存在に思いを馳せながら、あなたの優しさを最大限発揮してその視点に立って見ようとするのです。

すると、気のせいなのかも知れませんが、少し気持ちがゆったりしてきたり、不安や心配のエネルギーから距離ができる感じがします。

自分のハイヤーセルフのあまりにも高い波動の一部を少し垣間見ることもできるかも知れません。あくまでも想像の域ですけれど。

一人の人間として、身に降りかかった問題に悶々としてしまったり、解決の目処が立たずに苦しんでいるような場合には、このハイヤーセルフの目線になってみるということが有効かも知れません。

そしてなにも困ったことがないとしても、自分の上位バージョンとも言える存在と仲良しでいる時間を過ごすことで、ひとりでに人生がうまく回っていくようになるかも知れないのです。

ご興味があれば、ぜひ試してみてくださいね。

続けてこちらもどうぞ、楽しんでご視聴ください!

プロセスを楽しむ

筋トレをコツコツ地道に続けていると、少しずつですがそれなりに筋肉がついてきます。こうなることで、初めて本格的な筋トレができる身体になるのです。

逆に何かの理由でしばらく休んでしまうと、筋肉が落ちてきてしまい、筋肉を鍛えることができなくなってしまうのです。

これは経験した人にしか分からないかも知れません。筋肉がない状態では、筋肉を鍛えるようなトレーニングをするまでに至らないということです。

筋肉をいじめてあげて、それで筋肉が何クソとなってようやく今以上の筋肉へと進化するのですが、筋肉がなければ、筋肉をいじめることすらできないということです。

何となくイメージができたでしょうか?それとだいぶ毛色は違いますが、瞑想についても似たようなことが言えるのではないかと。

要するに、瞑想がしっかりできるようになるためには、瞑想のための精神的な筋肉を付ける必要があるのです。

瞑想のための筋肉がない状態では、なかなか瞑想をしたところでその効果を感じることは難しいのです。

さりとて何もしなければ、いつまで経っても瞑想の筋肉は付いてはくれません。瞑想をするためには、瞑想のための筋肉がしっかりついている必要があるということです。

そうなって初めて、深い瞑想ができるようになるのです。こういったジレンマは、多くのことに共通して言えることなのかも知れませんね。

このジレンマを乗り越えるためには、それ自身を楽しむ気持ち、そのプロセスを楽しむ気持ちが絶対的に必要なのでしょう。

楽器を演奏できるようになるのもそうだし、英会話を上達させるのも同じように、楽しむ気持ちがあることで明日またやりたいと思えるわけです。

そうやって、とにかくプロセス自体を楽しみながら進めていくうちに、気がついた時にはそれなりの筋肉がついていて、そこからは自動的に勝手に進み始めてくれるということなのですね。

夢を楽しみましょう!

なぜだか分からないのですが、ずっと以前より勝手に妄想していたことなのですが、「死んだら目が覚める」という感覚があるのです。

子供の頃に、風邪をひいたか何かで高熱を出して、夜にウンウン唸りながら布団で寝ていて、あくる朝目が覚めたら枕元に両親がいたのです。

それで、ああずっと見守っていてくれていたんだと安心したと同時に、熱が冷めてとても気分が楽になっているのに気づいた、そんな景色が残っているのです。

その感覚に近いものが、死んだ後にやってくるのではないかと。つまり、現実を生きていたというリアルな夢から覚めて、全てを理解した瞬間の深い安堵。

過去にこれと同じようなブログを書いた記憶があるのですが、その頃とはまた感覚が変化しているかもしれません。

このリアルに感じている物理現実が、夢のようなものだという感覚は、拭おうとしても拭いきれないほど、自分の中では定着しているのです。

それは、そのことに自我である自分が気づいているというよりも、どこかでそれを感じているという表現の方が近いです。

だから、私の自我さんはごく普通の人間として、死ぬのが怖いという当たり前の感覚を持っているのです。

とはいえ、年齢を重ねてきて死が近づいてきているという実感もあるので、自我にとっても都合のいい「現実は夢だ」の方を採用したいのかもしれません。

何にせよ、死ぬと同時に自我の自分も死ぬのですが、自我とは無縁の自意識のようなものは決して消えないという感覚もあるのです。

広がった自己の感覚、時空を超えた次元に在る自己が消えるということはないのでしょうね。だからみなさん、安心して夢の中にいる限り思い切り好きなことをして楽しみましょう。

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「良い気分であること」を最優先

長〜いこと生きてきて、今頃になってようやく分かってきたことがあります。それも、とても大切なことです。

もっと早く理解して実践できていればなお良かったのですが、それでも知らずに死んでいくことに比べたら、まだ間に合った方かもと思っています。

それは、題名から分かる通り、「気分」はコントロールできるということ。いついかなる状況であっても、良い気分でいられたらそれに勝るものはありません。

そうと分かっていながらも、やはり何か自分にとって不快な状況がやってくると、それにともなって確実に気分が悪くなるのです。

長年そんな人生を送ってきたので、これはもうしようがないことなのだろうと思い込んでいたのですが、そうでもないんだなと。

以前にも一度似たような理解がやってきたことがあったのですが、今回の理解はその時よりも格段に明確なものに思えるのです。

自分の波動を上げたいという気持ち、同様にして波動を極力下げたくないという思いが本気になってきたようで、気分が悪い状態というのは間違いなく波動を下げるはず。

それはとてもとても損なことなのです。理不尽なことを訴えて、相手をギャフンと言わせたいという子供じみた強い欲求があって、それが波動を整える邪魔をしていたのです。

気分を犠牲にしてでも言いたいことを言いたい。とにかく怒りを我慢して自己表現を抑え込む方が余程損だと思っている子供がいるのです。

それが、ここにきて優先順位に変化が起きたということかなと。どんなことよりも、「良い気分であること」を最優先にしたいと思えるようになったのです。

笑えてきますが、この年齢になって初めて大人になった気分。この気分も、良い気分の部類に入りますね。

過去を思い返せば、「ああ、嫌な気分」という言葉を吐いたことが多々あったなあと。あれは本当に勿体無い時間だった。今となっては、人生を無駄に過ごしてしまったと感じます。

気分をコントロールするといっても、無理やり自分の本当の気持ちを抑圧して、表面だけニコニコするといったことでは決してないのです。

そこを間違えてしまうと、なお一層波動を下げることになりかねないので、注意が必要です。そんな自己防衛をせずとも、気持ちをしっかり見つめた上で、気分は変えられるのです。

ここがミソですね。気分は自分の身に起きていることによって変化させられてしまうという、否定的な信念を見つけることです。

そして発想の転換をするのです。それは、気分というものは自分でどうにでもなるものであって、外の状況に従う必要などないということ。

1日を通して、ずっと気分は上々という人生に是非とも、変えていきたいものですね。