激しく生きる

– osho –

あなたは生命を持っているだろうが、生きてはいない。そして、いつか死ぬだろうが、死にはしない。なぜなら、あなたの中のすべてがなまぬるいからだ。生きているって?いや正確ではない。ただ引きずっているだけだ。何となく、ただ何となく自分自身を引っ張っているのだ。

力の限り激しく生きるのだ。生命のキャンドルを両端から燃やしなさい。激しく激しく燃やしなさい。一秒で燃え尽きたらそれでもよい。少なくともそれが何であるかを知るであろう。激しさのみが貫かれる。激しい人生を生きることができれば、異なる質の死を得るだろう。なぜなら、そのとき人は、激しく死ぬからだ。人生がそうであれば、死もまた同じだ。引きずって生きれば、引きずって死ぬ。人生を見失えば、死もまた見失うだろう。力の限り激しく生きなさい。すべてを賭けるのだ。なぜ心配するのだ。なぜ未来のことを心配するのだ。この瞬間こそがそこにある。自分の存在のすべてをそこに持ってきなさい。激しく、すべてをもって、完全に生きるのだ。そうすれば、この瞬間が啓示になる。そして人生を知るとき、死を知ることになる。

これが神秘の鍵だ。人生を知れば、死を知ることになる。人が死が何であるかを問うとき、それは、自分自身が生き抜いていないことを意味する。なぜなら、深層では生と死がひとつだからだ。人生の神秘とは何だろう。人生の神秘とは死だ。愛しているとき、愛の神秘とは何だろう。死だ。瞑想するとき、瞑想の神秘とは何だろう。死だ。

美しい激しいものが起こるとき、それはいつも死を通して起きる。人は死ぬ。自分自身を完全にそこに持っていき、そして他のすべてを背後にして死ぬ。あたかも自分がそこにいないほどに激しくなる。自分がそこにいれば、その激しさは完全になりきれず、ふたつがそこにあることになる。人を愛するとき、恋人がそこにいれば、愛は激しくなり得ない。深く、完全に愛するのだ。恋人が消えてしまうほどに。そうすれば、自分がエネルギーの動きになる。そのとき、人は愛を知る。人生を知る。死を知る。

この三つの言葉には深い意味がある。愛、人生、死。それぞれの神秘は同じだ。もしそれらを理解したら、瞑想は必要ではなくなる。瞑想が必要なのは、これらが理解できないからだ。瞑想とはスペアの車輪だ。真に愛するとき、それは瞑想になる。愛さないとき、そのときは瞑想せねばならない。真に生きるとき、それは瞑想になる。生きないとき、そのときは瞑想せねばならない。そのとき、何か別のものを足さねばならない。

しかしこれは問題だ。深く愛せない人間が、どうして深く瞑想できよう。深く生きられない人間が、どうして深く瞑想できよう。問題は、愛でも瞑想でも、また死でもない。それは、いかにして深みに向かっていくかということだ。深さこそが問題なのだ。

何かに向かって深く進むとき、人生は表面にあり、死が中心に来る。花を見ることでさえ、完全に見つめれば、花を見ることの中ですべてを忘れれば、花の中に死ぬ。同化することを経験する。融合することを経験する。突然に、自分が自分でなく、ただ花であることを感じる。

瞬間ごとに、あたかもそれが最後の瞬間であるかのように生きなさい。誰が知ろう。それが最後かもしれない。

お金にまつわる話し

お金はないよりも、ある方がいいですね。お金を嫌っているという自覚のある人はほとんどいないでしょう。誰だってお金は好きなはずです。

けれども、そうした自覚はともかくとして、各人の無意識の中でお金のことをどう思っているのかということになると、実に千差万別であると言って間違いありません。

それはまさしく、幼い頃からどのようにお金と関わりを持って生活してきたのかということに、強く影響を受けてしまうということなのです。

もしも、あなたの親がお金に苦労をしているところを見てきたならば、いい悪いは別にしても、お金に対して平均以上の関心を持つようになるはずです。

つまり無関心ではいられなくなるということです。場合によっては、お金を敵対視してしまう可能性も充分にあるのです。あくまでも、意識下のお話ですよ。

その場合、たとえば金銭的なことで必要以上に親に対して申し訳なさを持ってしまい、何とかして経済的に親を援助しなければと思うようになるかもしれません。

あるいは、お金への仕返しとばかりに、沢山お金を稼いでおいて、それを無駄使いすることで過去の鬱積した感情を発散するということだってあり得るのです。

勿論、本人はそのような自覚がないままに、お金を浪費することになるのですが…。また、無意識的にお金から遠ざかる人生へと進んでしまい、結果として親と同じように経済的な困窮を起こすこともあります。

逆に成長段階で、お金に困るような経験がなかった人の場合は、その後の人生のどの場面においても、やはり本当にお金に困るということに出くわすことはないでしょうね。

お金があってもなくても、実は誰も死にはしません。飢え死にするとしたら、それこそご本人のカルマの問題だと思えばいいのです。

ですから、お金の心配を殊更せずに、伸び伸びとやりたいことをやっていく方が、結果はついてくるということです。経験者はきっとそのことを知っているはずです。

珍入者出現

我が家は、木造の一戸建てなのですが、ずっと以前からネズミが出没することがあったのです。二階と一階の間の空間をバタバタと運動会をしているような音がたまにしていたのです。

そして昨日のことですが、たまたま理由があって自分の部屋のドアを開けたまま外出したのですが、そのためにネズミが一匹私の部屋に紛れ込んでしまったのです。

帰宅後、ネズミ捕りを仕掛けた状態で、普段の生活をしていたのですが、私の部屋から出て行かないようにと家人に言われていたので、ドアを閉めてとにかく無事捕まって欲しいと願っていたのです。

けれども、ネズミは一向に姿を現わさず、そのままいつものように寝る前の瞑想をしていたら、瞑想が深くなったときに、半眼になったら目の前のテーブルの上を走り抜ける真っ黒い姿を見たのです。

すぐにネズミだと分かって部屋の電気を点けたのですが、もうどこにいるのか分からず仕舞い。結局、ネズミ一匹と同部屋状態で就寝することに。

自分が寝かかりそうになると、決まってガサガサと音がして、眠りに入るのを邪魔されるのです。そんなことを何度か繰り返していた時です。

寝ている私の額の上をパタパタを走り抜ける感覚がして飛び起きました。すぐに電気を点けるも姿は見えず、こんなことを繰り返して結局朝方の5時くらいになって、ようやく寝ることができました。

翌朝、家人に窓を全開にして外に逃がすように伝えて出かけたのですが、帰宅してみるとネズミはそのまま部屋の中にいるとのこと。また、今晩も寝不足になるのかと半ばあきらめていた瞬間。

家人が部屋の隅にしかけたゴキブリホイホイの巨大なやつに、ペタっとくっついている奴の姿を見つけました。ホッとしたやら、可哀想やら。彼には、何の責任もないのですが、人間はとにかく自分勝手に処理してしまうのですね。

私の額の上を歩いてくれたあの身軽な彼の感触を思い出して、ちょっと物思いに浸ったりしたのでした。どうでもいいことですが、瞑想中には彼は私の存在に気づかなくなるようですね。

独り在ること

恐怖という感情の中には、いろいろなバリエーションがあって、そのうちの一つに孤独というのがあります。孤独をつきつめていくと、最後にはそれが恐れであることが分かります。

その孤独というものと、ただ独りで自分自身と共にあることとは、全く異なるものなのです。孤独というのは、そもそもそこに他人の不在というものがあるのです。

自分一人では寂しいので、誰かにその寂しさを穴埋めして欲しいという欲求があって、それが期待通りではないときに初めて、孤独というものを感じるのです。

一方で、ただ独り在るという状態においては、誰かの存在の入る余地すらありません。だからそこには、孤独というものがないのです。

自分と共に在るということは、本当に素晴らしいことです。究極の一人称には、他の誰の存在もあり得ないからですね。そこに淋しさというものはないのです。

孤独の「孤」というのは、自他があって初めて成立するものです。元々独りであるならば、そこに「孤」というものが存在することは不可能なのです。

あなたは独りであり、独りで生まれて独りで死ぬのです。人との関わりがあるものの、本質的には独りで生きているのです。それは何と清々しいものなのか。

独り在ることの清々しさを知ったもの同士が互いに関わる時、すべては一つであるという真理が現れるわけです。孤独なエゴを慰めるために誰かがいるのではありません。

あなたの内奥に深く入っていけば、独りあることの素晴らしさに気づくことになるはずです。そしてその凝縮は、一気に爆発して、全体性へと広がるのです。

新たな流れに乗る

何だか急になのですが、もしかしたらこの先自分はあまり肉を食べない人生になるのかもしれないという、予感のようなものが最近来ていたのです。

まさかなあという思いも勿論あるのですが…。というのも、実は若いころは異常なほどの肉食だったからで、それは今も大きくは変わってはいないのです。

ただ、若い頃よりもある程度野菜なども摂るようになったのです。以前は、肉ばかり食べていて非常にバランスが悪かったのです。だから大腸がんにもなったのですね。

そんな肉大好き人間の自分が、どうも来年あたりから食事が変わって行くのかもしれないなと思うのです。勿論、突然ベジタリアンになろうというのではありません。

徐々にですが、肉が主体であった食事の傾向が変わっていくのかもしれないという感じです。肉を食べてはいけないなどというルールは、自分の中をいくら探しても一生見つかりはしないと知っています。

それなのに、何かの流れがやってこようとしているのは、きっとこれも生が起こすことなのですね。生が何の目的でそうした変化を起こそうとするのかは分かりませんが、でも我々はそれに従うしかないのです。

今年も大きな変化がありました。それは、これまでにもずっと断続的にやってきていた瞑想の習慣が、途絶えることなく続くようになったということです。

自分の中の何かの流行りもののように、熱中しては止めて、またやるようになっては飽きて、ということを繰り返していたのですが、どうしたわけかわざわざ毎朝早い時間に起きて、瞑想をするようになったのです。

それがまったく苦ではないのです。だから続いているのでしょうけれど。そして、より深く内奥に入るためには、より繊細な感性が必要となるはずで、どうも肉食は感覚を鈍感にさせるようなので…。

私は決して、自分の中に新しいルールを作ろうとは思いませんが、ただそういう流れになるのであれば、それに乗って行くというだけのことですね。

関係性こそがエゴ

独りで心静かに瞑想していると、人物としての自分がいなくなっていくのを感じることができます。なぜなら、人物というのは、人との関係性の中にこそあるからです。

自分とただ一緒にいると、つまり独りの中に深く入って行くと、そこにはほかに誰もいないのです。そこには、どんな関係性もありません。

そうなると、自分がどんな人物か、性別も、年齢も、国籍も、家族も、一切合財が不明になってしまうのです。自分は物静かなのかおしゃべりなのか、優しいのか怒りっぽいのか、どんな性格も消えてしまいます。

なぜなら、そうしたあらゆる特徴というのは他の誰かとの間にこそ成立するものだからです。実際、もしもあなたがこれから先死ぬまで無人島で独り暮らすなら、あなたのこれまでの特徴は全部消えてしまいます。

痩せているのか太っているのか、背が高いのか低いのか、どんなことでも他人との比較の上でしか成立しないことだからです。

まったくの冗談にしかなりませんが、もしもあなたが学生であれば、あなたの現在の偏差値など、すぐにどこかへすっ飛んでしまいますね。

エゴというのは、関係性の中にこそあるのです。関係性こそがエゴそのものであるとも言えるのです。けれども、関係性がなくなったとしても、あなたの本質が丸ごと消滅してしまうということはありません。

あなたはエゴではないからです。それなら、あなたの本質とは一体なんなのかということになります。それを探求してみたくないですか?

日頃あなたがこれが自分だと思っていた人物像、あるいは人格というものは、他人が作ったものなのです。あなたの本質は、ほかの誰かに作れるようなものでは決してありません。

もしもあなたがあなた自身の存在に気づくことができれば、あなたの生はすっかり変容してしまうはずです。なぜなら、なにものでもないあなたは生まれたことも死ぬこともないのですから。

死から解放されるなら、どんな深刻さとも無縁になりますね。その境地に一刻も早く戻りたいとは思わないでしょうか?

「野心」ではなく「遊び心」で生きる

日々闘い続けている人たちが沢山います。ご本人もそのことは重々承知してはいるのですが、それ以外にどうすればいいのかが分からずにいるのです。

闘いの原動力となっているのが、「野心」です。でもこれはなるべく肯定的に表現すればということです。ある程度の「野心」がなければ、人間は成長できないなどと分かったようなことを言う人もいるかもしれません。

けれども、「野心」の原動力となるのは恐怖なのです。したがって、この社会の常識としてのいい意味での「野心」などというものは、それこそ幻想に違いありません。

恐怖が原動力であるもので生きて、満ち足りた人生を送るなどいうことがあるはずないからです。「野心」にはどんな愛も含まれてはいません。

その恐怖が一体どこからやってくるのかと言うと、それは自分の存在価値に気づいていない状態のマインドからやってくるのです。その多くは恐怖というよりも、不安と呼んだ方が近いかもしれません。

自分が自分のままに生きていていいかどうかが、正直しっかりと分かっていない状態、それこそがこの不安の正体なのです。だからこそ、何とかして不安を安心にしたいと願うわけです。

そこから「野心」が生まれてくることを想像するのは、それほど難しいことではないはずです。あなたのマインドの中には、どの程度の「野心」があるでしょうか?

あなたが今日を生きる目的が、何等かの「野心」を具現化するためだとするなら、それは勿論闘い続けなければならないはずです。闘ってしまえば、人生に負けがやってきます。

つまり、決して満ち足りた人生を生きることができなくなるということですね。生きる原動力を「野心」の代わりに、「遊び」にしてしまうことです。

「野心」は必ずやあなたの人生を蝕むことになります。代わりに、無垢な子どものように「遊び心」を持って生きることができれば、間違いなく人生の勝者になるのです。

全的に生きるには…

私たちがその瞬間を全的に生きるならば、その瞬間の自分のエネルギーが完全に消費されて、残ることはありません。燃えカスが残らないということですね。

勿論、過去の記憶はちゃんと残るのですが、そこにどんなエネルギーも残存してはいないということです。つまり、その一瞬ごとに死ぬということです。

生き延びるエネルギーが何もないのですから、しっかりと生きて次の瞬間に向かう直前で死ぬということです。そうすれば、過去は完全に消え失せ、過去に引きずられることもなくなるのです。

今この瞬間には、過去などというものはどこにも存在しないのですが、過去に燃え残ってしまったエネルギーは残ることがあるということです。

幼い頃に無邪気に生きていたときには、きっと完全燃焼に近い状態であったはずなのですが、自分のままではいけないのだという思いの発生とともに、多くの燃えカスを残しながら生きることになるのです。

それが我々の現実なのです。そして、そのような残存してしまった過去のエネルギーを総称して、インナーチャイルドなどと呼ぶわけです。

燃え残ったエネルギーは、何もしなければ永遠にそのままありつづけます。それがエネルギーの本性だからです。そして、いつかはあなたの現在の人生を攻撃してくることになるのです。

心の癒しとは、その過去のエネルギーを燃やして気持ちよく死なせてやることなのです。そのためには、過去を単に思い出すだけではダメなのです。

過去を再体験することが必要となるのです。現在のあなたが、過去の自分に戻って過去を再度生きることによって、残っていたエネルギーを燃焼するということです。そのための一つの方法が、催眠療法ということなのです。

エネルギーとは抑圧された感情を意味するのです。過去に残してきたエネルギーが小さくなればなるほど、あなたは今この瞬間に腰を据えて生きることを妨害されなくなるのです。

恐怖や怒りといった感情のエネルギーが小さくなれば、あなたはそれだけ無防備になっていくはずです。無防備になればなるほど、思考は止まり、それだけ全的に生きることができるようになるのです。

我慢強さが役立つとき

世の中には、我慢強い人と我慢強くない人がいますね。私の場合は後者であり、変な表現ですが自分で自分の事を我慢弱いと称しています。

セラピストの立場からすると、どちらのタイプの人間がより生きやすいかと言えば、間違いなく後者だと思うのです。なにしろ、歯を食いしばって頑張ることをしない、あるいはできないのですから。

それだけ、心身にかかる負荷が小さくなるわけですから、ダメージを負うことも少ないということになるのです。人間、適度の負荷や適度の緊張はいいことですが、過度は禁物なのです。

ただし、適当なところで我慢できずに止めてしまうという生き方ですから、一芸に秀でるという人物には成りにくいという欠点があるのも事実です。

一方、我慢強い人は人知れず気持ちを抑えたり、自己表現をせずに鬱憤を溜めてしまったりするのですから、そのつけは必ず後の人生に回ってくることになるのです。

その時に心の癒しが必要になるのですね。セッションにいらっしゃるクライアントさんの多くは、きっと我慢強いタイプの人たちなのではないかと感じています。

そして、最近気づいたことなのですが、この我慢強さがいずれとても大きな役割を果たすことになるということです。人が癒される前までの我慢強さは、自己防衛のために使われたのです。

そして癒された後の我慢強さは、より意識的であり続けるために使われるのだろうと思うのです。私自身は修行や苦行といったものが苦手なのですが、そこで必要となるのが我慢強さなのです。

人生の初期に自分の我慢強さを発揮して、苦しい人生を生きてきた人は、ある意味修行に対する準備が整っていると言ってもいいのかもしれません。

どんなことでも無駄なことはないということですね。

作用・反作用の法則

人間同士、お互いにウソをつくことができなかったとしたら、どういうことになると思いますか?それは、きっと社会や人間関係がギクシャクしてしまって、うまく回らなくなるのではないかと考えられますね。

でも実際にはその逆なことが起きるのではないかと思うのです。私たちは、他人に対しても、そして自分に対してまでもウソをつくことができるために、結局は苦しむことになるのです。

最大の問題は、自分に対してつくウソなのです。もしも、あなたが自分の本音を自分に対して隠すとしたら、つまりそれはいわゆる抑圧するということなのですが、それは一時的には都合よく忘れることもできるでしょう。

ところが、抑圧したものは「必ず」何等かの形を持って、あなたに攻め寄ってくることになるのです。これは、マインドの性質として例外はありません。

もしも仮に、子どものころに自分の怒りを感じないように抑圧することができると、その怒りはいずれ絶大なパワーを持って、あなたに襲い掛かってきます。

例えば、怪我や病気、それも難病になる可能性があるでしょうね。あるいは、非常に本人が困ってしまうようないわゆる問題行動として現れてくるはずです。

これは、昔小学校の理科で習った、作用・反作用の法則と同じようなものだと思えばいいのです。押し込まれたエネルギーは、その力に比例した強さを持って、外側へと表出して来るということです。

だから抑圧こそが、私たちを苦しめる最大の敵だと気づかねばなりません。現在のあなたにやってくる問題のほとんどすべては、過去に抑圧したエネルギーの表出が原因だと考えて間違いありません。

ただし、抑圧は通常無意識的に行われるため、それは阻止することはリアルタイムでは難しいのです。だからこそ、常日頃から自分をしっかり監視することが必要なのです。

いつも自分に意識を向けつつ、どんな些細な気持ちや感情であっても、抑圧しないように心がけることです。内側に意識を向けることを練習することが大切な理由は、ここにこそあるのです。