広大な地平にいる

人の人生にはいい時もあるし、悪い時もありますね。そして、悪い時からどうも抜け出せなくなって、困ってしまっているという状態の人もいます。

そういう人は、どう考えてもどうにもならない、光の差し込む出口というものをいくら見回しても見当たらないと思っているのです。

いやいや思っているというのではなく、実際に出口などありはしないとさえ感じているかもしれません。勿論、その人の理屈の上ではきっとそうなのでしょうね。

けれども、どんな人にも光の出口はあります。それは、実は暗闇の中でもがいているあなたには見つけることができないものなのです。

そのもがくこと、何とかしなければと焦る思い、そうした思考が邪魔をして出口を見せないようにしているのですが、本人にとってはそんなことに気づくはずもないのです。

私はサラリーマン時代に、サラリーマンを辞めるという選択肢なんて、あるようで実はあるはずがないと感じていました。現実のことを考え出したら、どうにもこうにもサラリーマンでい続けるしか方法がないと思っていたのです。

けれども、病気になってそれまで自分が守っていたものよりも、もっと大切なものがあることに気づかされてから、いとも簡単に会社を辞めることができたのです。

経済的に困窮するのが怖かったり、他人に無能だと判断されるのを恐れていたり、そうしたことから逃げ続けていると、その人には出口がないのです。

一旦、死を意識するようなことになれば、それまでの恐れが大したものではなかったという気持ちになるかもしれません。もしもあなたが、闘いを辞めると決心できれば、すぐにでも出口がやってきます。

見つける必要すらありません。元々、あなたは暗闇の中で彷徨っていたわけではなかったと気づくからです。最初からあなたは、明るく広々として青天にいたのですから。

どれほど八方塞がりに思えたとしても、その中心にいるあなた自身が闘い、あるいは防衛を手放していくことができれば、広大な地平にいることに気が付くのですね。

春は来る

何でもエジプトには、次のような諺があるそうです。

「弟子に準備ができれば師が現れる」。

ああ、そういうことか。この年齢になる今になっても、私には一向に師が現れていないのです。

ということは、それは運命を恨むのではなく、私自身がその準備が万端整っていないということの証しだということですね。なんだか納得してしまいました。

自分にも師と呼べる存在が欲しいとずっと思っていたのですが、それは見当違いだったということが分かっただけでも、よかったと思っています。

じゃあ、その準備を整えるためにはどうすればいいのかということですが、そのことをちょうど言い表している一つの俳句のようなものがあるのです。それは…、

「黙って座って、何もせずにいると、春が来て草はひとりでに生える」

というものです。春が来てほしいからと言って、強引にここに来させることは不可能ですね。

ただ自分にできることをして、待つということです。それ以外のことは、すべてが邪魔になるだけだからです。春はいつか必ず来るものです。それを待てばいいのです。

黙って座って何もせずに…、瞑想を「する」というのもマインドの働きです。何もせずにいるということを、これまでどれだけ嫌がってきたのか、実際に何もせずにいると分かってくるものです。

何もせずにいるなら、その人は無能な怠け者になってしまうと恐れているからかもしれません。そして、もしも無能な怠け者になったとしても、それでもいいのです。

逆にその見返りは、途方もなく大きなものだからです。これは、実践しなければ決して分かることではありません。そして、いつかはきっと春はやってきてくれるのですから。

不完全さの魅力

先日の朝、いつものようにクルマで出かけようとしたら、どうも我が愛車の調子が何か変なのです。よく見ると、ギアがローに入らずに、いきなりセカンドからスタートしていたのです。

びっくりして、すぐに停車してエンジンをかけなおしたりしたのですが、一向に状況に変化はなく、仕方なく恐る恐る走ってみると、どうやらシフトアップはするようなのです。

つまり、発進するときだけ、ちょっと非力になる程度で、あとは普通に運転できることがわかったのです。けれど、このままだと何が起こるか分からないと思い、結局最寄りのディーラーに持っていくことにしました。

そんなわけで今は、愛車が修理から戻って来るまでの間、家のクルマを使って通勤しているのです。家のクルマというのは、ごく一般的なセダンの国産車なのですが、これがまたとてつもなく楽なのです。

運転をしていて、このままだと眠ってしまうんじゃないかと思うくらいに、何にもしなくてもいいような気がするくらいに楽なのです。それは勿論私のクルマとの比較でそう感じるのですが…。

自分のクルマは、その反対に(クラッチはないのですが)マニュアル車のようにギアをシフトしなければ、スムーズな気持ちのいい走りができないという代物なのです。

それ以外にも、いろいろドライバーに注文を付けるクルマなので、ボーっとして運転してると結構まずいことになったりもする、実は面倒な奴なのです。

けれども、「fun to drive」 という点で言うと、とにかく面白いのです。自分が彼を手なずけて、上手に操作している感が楽しいということなのでしょうね。

人間とは本当に贅沢なものです。あまりに便利過ぎると、ちょっと厄介なものを求めてしまう節があるということです。このことは、どんなものにでも言えるのかもしれません。

あまりに均整のとれた完璧なスタイルの女性よりも、ちょっと人間的な匂いのするスタイルの人のほうが親しみが湧くし、従順過ぎる女性よりも、少しは意地っ張りなところのある女性を男は好むのかもしれません。

人は完璧なものを求めているようでいて、実はそうではないということです。不完全なものにこそ、最大限の愛を感じるのです。

自分自身の不完全さにも、それを丸ごと受け止めることができると、本当に清々しい開放的な生き方ができるようになるはずですね。

褒められたい思いとは

人を褒める言葉というのにも、いろいろありますね。たとえば、すごいね~とか、偉いね~、ちゃんとしてるね~、頑張ったね~等々。

そして褒められたら、誰もがよほどひねくれていない限りは、悪い気はしないものです。褒められて伸びるタイプだと自分のことを表現する人もいますね。

子供を育てるときには、褒めることも必要だと言うことを力説する人もいます。分からないでもないのですが、私は何となく胡散臭い感じがどうしてもするのです。

もっと親に褒めてもらいたかったと思っている人もいるでしょうね。その気持ちはとてもよく分かるのです。けれども、本当は褒めて欲しいのではないと言ったらどうでしょうか?

褒めて欲しいという気持ちは一体どこからくるのかを見てみると、それは在るがままの自分ではダメなのかもしれないという自己否定感が元にあるということです。

自分のままでOKだと分かっている子は、取り立てて褒めて欲しいと思う必要を感じないはずだからです。つまり、自分の存在価値にしっかり気づいていないからこそ、その代わりとなるものを探すのです。

それが褒めてもらうということだったわけです。褒める対象というのは、存在ではなくて何かの成果だったり結果だったりするのですから、褒めてもらいたい子供はそれだけ頑張るようになるのです。

そこには必ず自分でも気づけないような自己犠牲が必ず存在するのです。でも、褒めてもらえるというご褒美をもらえることで、その自己犠牲をすっかり抑圧することができるのです。

そうなると、その子の生き方は決まってしまいます。つまり、他人からの評価を最大限にするように気を配って生きるということです。独自の意見をもったりせず、誰からも否定されないような人生を生きるようになってしまうのです。

もしもあなたが、誰かに褒めてもらいたいと思っているのなら、それは存在価値の代わりには決してならないということに気づき、自分を徹底的に受け止めるということを実践することです。

方法が分からなければ、セラピストなどの専門家に相談することも考えてみることです。

常に「見ていること」の実践

もしもあなたが、街を歩いているときに、誰かの家の庭先にきれいな花を見つけたとします。その時に、ごく一般的には「ああ、きれいな花だなあ!」と思うでしょうね。

すごく急いでいて、よほど気持ちに余裕がないとか、いやな気分に打ちのめされていたりしなければ、誰でもそう思うわけです。それがごく普通の反応です。

けれども、そう思ったとすると、残念ながらせっかくハートでその美しさを感じれるものを、マインドが邪魔をしているということに気づくことです。

「思う」というのは思考、つまりマインドの領域だからです。だから、もしも明日以降同じような状況がやってきたときには、決して何も思わずにその花の美しさをただただ感じてみることです。

どんな言葉も内側に存在しないようにして下さい。そのときに、私たちが如何に言葉を使うように慣らされてしまっているかに気づくかもしれません。

どんな小さな声だろうが、ほとんど発生せずとも、心の中でその言葉が浮かんだだけでマインドを使っているということなのです。

きれいな花を見たときに、沈黙の状態でその美しさを感じることができたなら、そのときにはハートをフルに使ったということになるのです。

そして更にその上があります。それは、その花の美しさを感じている自分をただ「見ていること」です。それもできれば、同時にすることです。

これが、私たちにできる最上級のその瞬間の過ごし方なのです。もしも仮に、「ああ、きれいな花だなあ!」と思ってしまったとしても、その自分をやはり「見ていること」です。

その練習を毎日行って下さい。そのようにして、常に意識を自分に向け続けていることができるなら、まず初めに、あなたの内側に言葉では表現できない、「何も無さが在る」と気づくはずです。

そのことに気づくことができると、きっとあなたは人生で初めて「落ち着く」ということの本当の実感を得ることができるでしょうね。実践あるのみです。

非同化は一時的

私たちの誰もが抱えている不安の根源的なものとは、一体どこから来るのでしょうか?それは本当の自分とはナニモノなのかということを、知らずに生きているからなのです。

ところがそのことに気づかないでいられるのは、幼い頃に自我の目覚めとともに、自分はこの肉体だと思い込んでしまったからです。

気がついたら言葉が喋れるようになっていたのと同じようにして、気がついたら自分はこの身体だと信じ込んでしまっていたのです。

だから自分のことは知っていると錯覚しているのです。その誤魔化しの下に自分を知らない自分が隠されているというわけです。

ちなみに、自分の大きさはどのくらい?と問い合わせると、きっと自分の身体の大きさと同じくらいの大きさを想定していることに気づくはずです。

その感覚をよく見つめてあげると、それが作り物の感覚だということが分かります。その瞬間、意識的なマインドの部分だけですが、自分と身体の同化が崩れるのです。

その瞬間、あっという間に自分の大きさが不明な状態になるので、非同化したことがすぐに感じ取れます。この実践は、身体と眼球をなるべく動かさないようにするのがコツです。

分からなくなった大きさに意識を向けていると、今度は何処にいるのかという感覚すら怪しくなってきます。こうなると、もう自分という存在が無かあるいは無限大だと分かります。

こうして、身体との同化はすぐに落とすことができるのですが、残念なことに無意識のマインドの中には頑固に自分はこの身体に違いないという信念が厳然とあり続けるのです。

だからこそ、身体に対する非同化は一時的なものでしかないということですね。意識的なマインドが無意識の部分に影響力を持つようになれば、すっきりと同化を終わらせることができるはずなのですが…。

自己同化をはずす

グルジェフは、もしも人間に罪というものがあるとするなら、それは自己同化だと言ったそうです。これは本当に人間の内面について、熟知した人の言葉だというのが分かるというものです。

夢の中の自分は、その夢の中でこれが夢だとは気づかないのが普通ですね。どんな内容の夢であろうと、それを真に受けてしまっているのです。

怖い夢に汗びっしょりになることもあるだろうし、夢の中の出来事に悩まされて深刻になっていることもありますね。なぜ夢を夢と認識できないかというと、自分と夢を同化しているからです。

朝目覚めて、その夢と自分との間に距離ができたときに、やっとなんだ夢だったのかと気づくわけです。夢の余韻はしばらく残るかもしれませんが、いずれは忘れていくのです。

私たちの誰もが、自分の本質をこの身体とマインドに同化してしまっているのです。それを自我(エゴ)と呼ぶのですが、その自己同化によってあらゆる苦しみが発生しているのです。

夢を夢と見破るためには、その夢との同化をはずせばよかったのと同じように、身体およびマインドとの同化を見破って、非同化することができれば、あなたの人生を完全な物語として見ることができるようになるのです。

その時に初めて、この現実世界は夢のようなものだったと気づくのです。現実が幻想だと言っているのではありません。現実は勿論夢ではありません。

けれども、同化をはずすことで現実を夢と同じように単なる物語として「見る」ことができるということです。そして、同化をはずすための唯一の方法こそが、「見ていること」なのです。

ただひたすら自分を見ていることによって、身体そしてマインドとの間にすき間ができるようになるのです。その距離が自己同化をはずすことに繋がるということです。

奇想天外な方法

ある王様が、とある女性を好きになったのですが、実はその女性はその王様の家来の男のことが好きで、二人は影でこっそり逢瀬の恋を楽しんでいたのです。

それを知った王は、知恵袋として付いている者に相談した結果、彼はあることを思いつき、王様もそれに同意したのです。それは奇想天外な方法でした。

王様は、その女性と彼女が好きなその家来とを裸にして、みんなにみえるように縛りつけてしまったのです。それもぴったりと二人の身体がくっつくようにして…。

王様がその女性に憧れを持っていたことを知っていたものは、誰もがとても驚いたのです。なぜ王様はその家来の男に嫉妬しないでいられるのだろうかと。

ところが、数日経つうちに、真夏の暑さの中で縛られて見世物にされた二人は、汗ばんだ互いの身体に触れるのもいやになってしまったのです。

そして、縄を解かれたあと、二人は城から逃げ出しただけでなく、二人はもう二度と互いの身体にくっつこうともしなくなってしまったということです。

王様は、知恵袋の者の洞察の鋭さに驚いたのでした。この逸話のいいたいこととは、どんなことでも休養が必要だということです。

どれほどの快感であれ、どれほどの悦びであれ、それがずっと続くのであれば、いつかは拷問と同じことになるのです。幼い子供は、同じことを繰り返し続けても大人ほど、すぐには飽きないものです。

それでも、いつかはそれを止めたくなる時がやってくるものです。休養はそれを中断するものとして、忌み嫌う気持ちが誰にもあるかもしれませんが、休養は決してその対極にあるものではありません。

休養とは、それを引き立てる大切な立役者だということですね。ですから、何事も休養をとってほどほどに。

身体の痛みを見る

幼い頃から、痛みって何なのだろうなあ?ということをよく考えていた記憶があります。子供の頃は、身体が弱くて年中医者に通っていたくらい、いろいろな身体の痛みに苦しめられていたからなのでしょうね。

特にお腹が痛いということが頻繁にあって、それは当時から大人になった最近に至るまでずっと続いているのです。大げさに聞こえるでしょうけれど、その痛みが自分にとっては、何か命に係わるような気がするのです。

その逆に、昔から精神的に苦しめられたという経験がほとんどないため、よけいに肉体的な苦痛というものに意識が向くようになったのだと思うのです。

だからなのか、自分という存在をもっと高めようとか、よりよい人格の持ち主になりたいとか、より崇高な人物に、よりすばらしい自分へと改善する等々、そのような欲求はほとんどないのです。

代わりに、ひたすら身体の苦痛から逃れるためにはどうしたらいいのだろうという方向にばかり、関心が向いてしまったのでしょうね。

この仕事を始めて間もないころ、ある超能力者さんのところに縁があって行っていたことがあったのですが、彼は人の内面に何が書いてあるかを読めたのです。びっくりでしょう?

彼が私の内面を読んで言うには、「『肉体的痛みとは一体何なのだろう?』って書いてありますよ!」と教えてくれたのでした。別に毎日そんなことを考えていたわけでもないのに、そのことをズバリ指摘されたので驚きました。

確かに心の奥には、常にそのような疑問があるという自覚があったからです。そして、最近この身体の痛みに関して、どうやら解決する方法があるということが分かったのです。

それが、身体との同化を落とすということだったのですね。充分に意識的になっていくことで、身体との隙間がはっきりするようになるのです。

そうすると、身体の苦痛を感じる代わりに、それを観察する立場になれるということです。昨日のブログにも書きましたが、私たちのやっている身体との同化は本当にしつこいものです。

それでも、望みは捨てられません。一にも二にも、できるだけ日頃から意識を自分に向け続けることによって、少しずつでも身体を客観視できるようになれればと思うのです。

痛みを感じているのはそれを受け取る自分であり、それを見ている自分ではないということに体験として気づけるようになるといいなと思うのです。

身体は対象物

このブログを読んで下さっている方であれば、大抵の人が自分は身体ではないということをご存じかもしれませんね。その通り、私たちは身体ではありません。

けれども、それは知っているということであって、つまり外部からやってきた情報に過ぎません。今流行りのスピリチュアルな情報には、当然そのようなことが書いてあるからです。

そのために、自分は身体などでは決してない、という気持ちが当り前のこととして定着しているのです。ところがです。それは残念ながら、ただの情報に過ぎません。

本当のところ、自分のことを身体だとして生きていることがほとんどだと言ったら、驚くでしょうか?勿論、瞑想などをしている間だけは、身体からはずれた内面に触れていられるかもしれません。

けれども、日常的な生活をしているときには、あっという間に身体に戻ってしまっているのです。そのときには、どんな知識も役には立たないのです。

自分を見ることを続けて行くときに、自分の身体でなさ加減に的を絞って見てみると、とても面白いことに気づくことができます。

自分には、手も足もないし、眼、口、顔もないのです。それなのに、私たちはごく当たり前のように、今自分は歩いている、今自分は食べている、などと思っているのです。

脚のない自分が歩けるはずがありませんし、口のない自分が食べることなどできないはずです。厄介ですが、身体の足を使って身体に歩かせている自分がいるというように見なければならないことが分かります。

肉体の口を使って、身体は食べ物を体内に摂取しているというように見る必要があるということです。このようにして、注意深く自分を見続けていると、少しずつ身体と自分の間に隙間が見えてくるのです。

身体は見つめる対象でしかなくなるのです。そのうえで、内面を見つめていると、どうやらこれこそが自分だと思っていたものが、マインドの中の思考だったということにも気づくようになるのです。

そうやって、身体やマインドとの同化を少しずつ減らしていくことで、あなたは本来の純粋な意識としてのあなたに戻っていくのでしょうね。