常に在るもの、それがあなただ

あなたは自分の起きている世界を忘れ

自分の夢の世界をも忘れる

朝、ふたたび起きている世界がその存在を現わす

あなたは、あなたの夢と眠りを忘れ去る

だがひとつだけ

絶えることなくそこにい続けるものがある

あなただ

by osho

これが自分だと思っているものを一つずつ剥ぎ取って行くと最後はどうなるのかを試してみたことはあるでしょうか?

自分の身体、自分の考え、自分の体験、自分のマインド、このような自分の◯◯と言うことのできるあらゆるものを脇に置いて行くのです。

そうして残ったもの、それが自分の本質だとしたらそれは一体何でしょうか?もうそれ以上自分の〇〇と言えなくなるところ。

それは生まれたり消えたりすることのないもの、つまり絶えることなくそこにい続けるもの。

あえて表現すれば意識とか、気づきということになるのでしょうね。意識というのは覚醒している状態のことです。

ここで一つ気をつけなければいけないことがあるのですが、「自分の意識」と言うこともできるのでは?と思うかもしれません。

ここが思考の限界なのです。意識は自分に従属するものではないということへの気づき自体が意識なのです。

意識が広大無辺の大空のようなものだとすれば、思考はその中を流れる雲だと思えばいいのですね。

 

カルマは思考の中にのみある

カルマを満たすそんな必要はどこにもない

あなたがただ醒めるということだけで

突然すべてのカルマははがれ落ちてゆく

ただ一瞬の強烈な覚醒のもとに

すべての過去は消え失せ、ごみくずと化す!

by osho

カルマというのは実在するものではなく、思考によって創り出された物語の中にのみ存在するものなのです。

完全に目醒めるということは、思考から100%離れる状態を指すのですから、当然のごとくカルマは消えてしまうのです。

ただ思考の中にどっぷり浸かってしまっている私たちにとっては、思考が生み出した感情のエネルギーの力に負けてしまうのです。

恨みつらみ、憎しみ、嫉妬、憎悪といったやっかいなエネルギーは、それを癒さなければなくなることはないと感じてしまうのです。

その感覚がカルマという面倒な仕組みを考案するのです。そうなってしまえば、カルマは絶対的な力を持っていると感じてしまうでしょうね。

凝縮した思考が緩んでほどけてくると、あらゆる過去と未来も同時に希薄になって行き、時間の流れがなくなるのですからカルマも消えて当然なのです。

もしもカルマありきでさまざまな教えを説くような宗教があるなら、そこには近寄らないことですね。

自分の単純な存在を楽しむ

瞑想が成就されないかぎり、愛は惨めなままでありつづける。ひとたびあなたが独りで生きるすべを学んだら、ひとたびあなたが、いっさい何の理由もなく、自分の単純な存在を楽しむすべを学んだら、そのときには、二人が共に在るという、もっと複雑な問題を解く可能性がある。

by osho

私たちが日頃よく知っている愛というのは、誰かと一緒にいたいとか、誰かのことを思うと心がキュンとするといった類のものです。

そのような愛というのは、エゴの愛であって、与えるのではなく貰おうとする特徴を持っています。

一緒にいて欲しいとか、◯◯してちょうだい、つまり自分の外側にいる誰かによって足りないものを補ってもらおうとしているのです。

その愛はいずれは虚しい結末を迎えることになります。瞑想というのは、外側のもので満たそうとする代わりに、ただ今ある自分のままで満ちていることに気付くこと。

つまりは、自分の単純な存在を楽しむことができるなら、エゴの愛は次第に本物の愛へと変化して行くということです。

簡単に言ってしまえば、独りでいてそれを楽しめるようになれば、二人が共にいる時の状況が変わるということです。

互いに相手を必要とするのではなく、生を分かち合うというようになるのです。そうなったら、独りでいるよりもさらに互いの愛が溢れてくるようになるのでしょうね。

すべては消えゆくもの

死ぬ前に自分の人生を振り返った時に、どのような思いで死にゆくのが理想でしょうか?

いろいろあったけど、全般的には満足のゆく人生だったと思いたいのか、それともうまくいかない惨めで虚しい人生だったと後悔したいのか?

それは勿論前者の方でしょうね。人生の最期に悔やみながら死んでゆくのだけは避けたいですから。

けれども、実は前者の方にしても、何かと比較してまあまあいい人生だったと言っているだけなのです。

そうやって都合のいい面ばかりに着目しているだけであって、より幸福そうな人の人生とは比較しないでいるだけだとも言えるのです。

本当に大切なことは、人生がどうだったかと振り返るのではなく、人生とは思考が作った作り物でしかなかったと気付くこと。

この気づきが死ぬ前に得られるなら、人生を振り返ることはなくなるのです。それはちょうど、目覚めた後に夢の内容がどうであれ気にならなくなるのに似ています。

今この瞬間、あなたの人生がどんなものであれ、すべては完全に消えゆくものでしかないのですからね。

あくる朝旅立つ前に

私たちの真の家は心ではない。心は旅の宿にすぎない–夜の宿、一夜の宿にはふさわしい。が、朝になれば私たちは行かねばならない。心が創りだすのは夢だけだ–どうして夢があなたの真の家でありえよう?心が創りだすのは欲望だけだ–欲望のなかで、どうして生きることができよう?

by osho

この人生が一夜の宿だとしたら、その一泊を終えた次に来る旅は一体どんなものなのでしょうか?

それは残念ながら、宿に泊まっている晩のうちに知ることはできないのでしょうね。なぜなら、あくる朝目覚めるまでは夢の中だからです。

たった一泊の宿だとは言え、不快な宿よりは快適な宿で過ごしたいものです。それを決めるのは、あなたのマインドの状態なのです。

マインドが欲望の塊であるなら、その欲望が惨めさを表現した夢を創り出すからです。欲望と惨めさとは、互いに増幅し合うように作用するのです。

そういった連鎖を止めるためには、まさしくこの人生が一夜の宿だということを見抜くしかないのかもしれません。

旅の途中に一夜の宿に泊まっているのは誰なのか?私たちが一生と感じるこの人生を一泊として見る存在とは?

それを思考で捕まえようとするのは無理なのです。その反対に、思考で出来たこの宿、この人生を包含する何かを体感することです。

沈黙してそこに意識を向けつつ…。

過去のエネルギーを解放する

もしもあなたが思い出したくない過去を持っているとしたら、その過去を引きずっていると認識することです。

過去はもう過ぎ去ってしまったものであり、実在しないものだからわざわざ思い出す必要もないという理屈は、的を射たものではありません。

なぜなら、過去はもうない、過去はどうでもいいと思っているのなら、思い出すことも苦にならないはずだからです。

どうでもいいと思っていないから、まだわだかまりが残っているからこそ思い出すたびに傷が痛むのです。

そこに何らかのわだかまりがあれば、ネガティブな感情のエネルギーの蓄積があるということを示しています。

それを放っておいて、現在の自分だけが新しい未来へ向かって生きていこうとしても、必ず足を引っ張られることになるのです。

あなたにとって、過去がまったく意味のないものになるためには、過去を見直すことが必要なのです。

マインドのことですから、完全にクリーンになることはないのですが、それでもそこそこ過去のどの場面であれ見ることによって、過去に囚われることが少なくなっていくのです。

これまで培ってきた生き方を変えて行く練習をするのと同時に、過去に残してきたネガティブな思いも少しずつ解放してあげることは大切なことなのですね。

信念も正しさも固定観念もいらない

ほんとうに生きている人は、ただ生き、流れ、呼応できて、敏感で、臨機応変だ。彼は、あるがままに生きる。彼は鏡に似ている–固定観念を持っていない。出会うものが何であれ、そのすべてを、その真実を、その真の姿を映しだす。

by osho

↑こういう人は、信念、信条、正しさ、固定観念などをほとんど持っていないのです。だから側から見ればいい加減な人と映るでしょうね。

明らかに気楽で、未来への不安を抱え込んでいたりしないのです。もしかすると、言うことやることに一貫性がないこともあるかもしれません。

けれどもそれは、その時々に正直に呼応しているだけのこと。それこそが流れの中であるがままに生きている証拠。

一般的には適当で我儘に見えるかもしれないという特徴があるのです。それが反感を買う結果になったりもして。

しっかりしなければとか、ちゃんと生きないとと思って頑張っている人からは、眉をひそめられるかもしれません。

そして非常に敏感な感性を持っているのも、こういう人の特徴なのです。また偏りのないバランスの取れた人。

ちょうどど真ん中の生き方、それを中道とか中庸というのですね。もしも自分が自由に生きていないという自覚があるなら、その原因は防衛からくることに気付くこと。

自分の生き方を点検してみて、どんな防衛を続けてきたのかをしっかり見つめてみることです。

そして少しでも、上のような自由で柔軟な生き方になるように練習していくことですね。

精神状態に見合った現実がやってくる

もしもあなたがある目的地に向かって歩いている時に、次のどちらかの道を選択するとしたら、一体どちらを選ぶでしょうか?

一つは、近道ではあるけれど狭くて人通りが多くて歩きずらい道、そしてもう一つは少し遠回りではあるけれど人が少なくてゆったりとした景色のいい道。

それは勿論、あなたの精神状態に左右されるでしょうね。もしも忙しくてイライラしているときだったら、きっと前者の道を選ぶでしょう。

そして、気持ちにゆとりがあって落ち着いている時なら、後者の道を選ぶ可能性が高いのではないかと思います。

どちらを選択しようと、そこには当然正解はないわけですから、臨機応変に選べばいいだけです。

けれどもここで気づくべきことは、あなたの精神状態に見合った現実を選んでしまう、あるいは見合った現実がやってくるということ。

イライラしていれば、イライラするような環境を選び、穏やかな状態であれば穏やかな気持ちにさせてくれる環境を選ぶ(やってくる)ということです。

それなら、今日一日気持ちいい環境にやってきて欲しいのであれば、前もってそれに見合った精神状態にしておく必要があるということ。

自分に強いる必要はありませんが、無理のない程度に意識的に自分の気持ちをいい方向に持っていくようにすることは、とても重要なことなのです。

是非試してみてください。

思考と無知は同義語

哲学とは正確には何か?それはまったく何も知らないのに、知っているふりをすることだ。それは思索だ。思索とはつねに、人が無知であるのに、何かをでっちあげようとしているという意味だ。いつであれあなたが考えるとき、それはたんに、あなたが知らないことを示している。

by osho

思考とは何かという問いに対して、直接的に答えることは難しいのですが、それはエネルギーだとかイメージすることだと言うことはできます。

そしてさらに言えば、↑上に書いてある通り、思考とは知らないということを表しているということなのです。

真に知っていることを考えることはできないのです。知らないからこそ、つまり無知だからこそ思考することができるのです。

ということは、ずっと思考が止まらないマインドというのは、無知の塊みたいなものだということになりますね。

逆に言えば、無知であるからこそマインドは思考することができ、もしも真理の知を得ることができたら、思考は不要になり、その結果マインドは機能しなくなるのです。

マインドとして生きている私たちというのは、果てしない無知の中にいるのです。それを隠すために、思考による知識(データ)を蓄積するわけです。

知識は思考の一部であって、真の意味での知ではありません。だから物知りになるのはたやすいことなのです。

無知であることにとことん気づいていられるようにすることが、逆に言えば知への道なのでしょうね。

何度繰り返しても足りない

何度も何度も繰り返して、聴く側からしたら耳にタコができるくらいかもしれませんが、それでもやっぱり伝えたいことがあります。

その一つは、自分以外の誰の人生も幸せにすることはできないということ。勿論その反対に、他の誰の人生も不幸にすることもできません。

私たちにできることは、泣いている人を笑わすことだったり、落ち込んでいる人を励ますことだったり、あるいは溺れそうな人を助けることです。

そんな一過性のヘルプならできるかもしれないという程度なのです。人生というロングレンジで考えてみれば、幸不幸を決めるのは本人にしかできないのです。

人は誰でも例外なく、自分自身の人生を変えることだけができるのであって、他人の人生に対してはどんな責任も負うことは不可能なのです。

そしてお伝えしたいことのもう一つは、他の誰かの期待に応えるために生きているのではないということ。

あなたは他の誰かの奴隷になるために生まれたわけでは断じてないのです。誰かの期待に応えられたとしても、その人もあなたも決して真に満たされることはありません。

そういう意味で、上で挙げた二つのことは、互いに関連しているのです。そのことをしっかりと見抜くことが大切ですね。