欲望と探求に違いはない

マインドの働き、マインドの機能を見るがいい。マインドはいつも探求者だ。つねに何かしらを欲しがっている。それは欲望と探求を通して生きている。金を探し求めるときもあれば、瞑想を探し求めるときもある。だが基本的に違いはない。それは同じゲームだ–違う言葉で演じられるが少しも変わらない。

by osho

欲望という言葉からは容易に自我らしさを連想することができますが、探求というと少しニュアンスが違う感じがします。

特に、真実の探求となると自我から遠ざかるイメージがするのですが、どんな探求であれそれこそは自我ど真ん中だということです。

お金を探し求める姿と、瞑想を探し求める姿は真逆なように見えて、実はどちらも自我(マインド)の働きとしては違いがないのです。

このように本質を見抜くためには、やはりマインドの仕組みを深く理解することがどうしても必要なことなのですね。

欲望であれ探求であれ、マインドというのは常に何かを追い求めているのです。つまり、追い求めることをしなくなったらマインドは自然消滅するということ。

あなたは今何を探し求めているでしょうか?どれだけそこに自覚を持って生きているでしょうか?

あなたがマインドを自分と同一視している限りは、欲望もなくならないし探求がなくなることもないということです。

そのことをしっかり理解した上で、今一度自分のマインドが何を求めているのかを見つめてみることですね。

この生は橋にすぎない

この生はまさに旅だ。この生は橋にすぎない。それを通り過ぎるがいい。そのなかに巻き込まれすぎないことだ。超然として、離れたままでいるがいい。が、その超然さと分離は強いられたものであってはならない。それは、あなたの理解から生まれるものでなければならない。

by osho

この生を橋だと見抜ける人はほとんどいないでしょう。橋というのは、向こう側に渡るためにある特別な道のこと。

この生という橋は、誰にでも平等に与えられていて、誰もがそれを渡ることができるようになっています。

けれども、この生を橋などとは思っていないわけで、この生の中で何かを成し遂げることが生まれてきた目的だと信じているのです。

だからこの生を生きること自体には目的はないのだと言われても、にわかには合点がいかないのは当然のことです。

いい人生にしたいと思えば、橋の上に陣取ってそこに立派な家を建てたくなるわけで、巻き込まれてしまうのは仕方のないこと。

橋に巻き込まれ過ぎずに渡った先には何が待っているのか?それはすでに渡り終えた先輩の言葉を真摯に聞くしかありません。

↑上の文章は、そうした先輩の一人である osho の言葉です。無事渡り終えた覚者の言葉から何を読み取るのか、頭を空っぽにして入ってくるものを感じる必要がありますね。

思考が創り出した幻想

あなたの思考すべてが、あなたとあなたの生を創りだしていることがわかる。それらがあなたの地獄を創りだし、あなたの天国を創りだす。それらがあなたの惨めさを創りだし、あなたの喜びを創りだす。いずれも幻想だ–苦痛と快楽、甘美な夢と悪夢、いずれも幻想だ。

by osho

↑この言葉をよくよく噛みしめなければなりません。思考が、あなたという個人の存在と、あなたが生きている人生を創り出していると言っているのです。

これが本当なら(実際本当なのですが)何が起きようと、自分以外の誰かのせいにすることはできないと理解することです。

毎日が地獄のようであれば、その地獄の創造者はあなた自身であり、逆に生が天国だと感じるなら、それもあなたが創り出したものだということです。

惨めさも喜びも、共にあなたの思考が創り出したものなので、幻想に過ぎないと言っているのですね。

ところが、わたしたちにとってはそれらはすべて現実のもののように感じるのです。勝手に惨めさはやってくるし、喜びも外側からやってくるのだと。

すべての物語とその演出は思考によって創られたことを、一体どうやって見抜けばいいのでしょうか?

たとえば、今の地球からすべての人間が消えたとして、そこでひどい地震や台風、津波などの天変地異が起きたとしても、それはただそのように起きるだけなのです。

あなたがそこにいなければ、あなたがその津波に恐怖を感じたり、ひどいことが起きていると認識しなければ、そこにはどんな物語性もないのです。

起きることはこれから先も継続してただ起き続けるだけ。あなたの思考がそれを好き勝手な物語へと創りあげているだけだということです。

そこには悲劇も喜劇も何も実在しないのです。それを少しでも見抜くことができたら、気楽さがその分だけやってきてくれるでしょうね。

自我を傍らに感じつつ

若い頃は、この社会を通して何かを成し遂げることが最も大切なことだと思うものです。そのように教わっても来たので、そう考えるのが当然なのです。

けれども、そうやって成功してもいつかは必ず失敗もやってくるのです。成功と失敗は一対のものだからです。

その繰り返しを経験すると、成し遂げる系の人生を根底から見直すチャンスがやってきてくれるのです。

そして人生において、最も大切なことは何かを成すことではなく、気づくことだという深い理解を得るようになります。

その気づきというのは、この自分とは何か?ということへの深い洞察を通してやってくるものです。

自分の本質が何かを知るとき、この宇宙の全てを知ることになるのです。それは知識ではなく、それこそが明白な気づきなのですね。

気づきはいつも自我によって妨害され続けているのですが、成し遂げることから一歩退くことで、自我はその力を緩めざるを得なくなるのです。

その結果、自我が傍らにありながらも、全く次元の異なる自己のフレーバーが訪れてくれるのです。

勿論日々の瑣末な出来事は無限に続くのですが、それでもそれを見つめる目は確実に静かに深く安定してきてくれるようになりますね。

理由のない感情

私たちの内面を彩っているものに、思考と感情があります。思考は考えたり思ったりイメージしたりするもので、頭の範疇と考えられます。

一方の感情というのは、考えることとは違って主に感じるものです。頭ではなくて、ハートのものという感覚を持っています。

ところでみなさんは、思考が感情を生み出すということを知っているでしょうか?勿論100%ではありませんが、感情の多くは思考が元になっているのです。

たとえば、幸福感を感じるにはそれなりの理由があるのです。願いが叶ったから、充実しているから、人より恵まれているから等々。

そうした理由というのは、思考によって認識、あるいは判断されて作られたものです。だから、幸福感は思考が元にあるということ。

不幸だという感覚もそれと全く同様に、思考の判断によってそれを感じるわけです。どんな感情であれ、それを感じる理由があるなら、それは思考がベースにあるということです。

それなら思考がない状態ではどうなるのでしょうか?当然のことですが、不幸も幸福感もどちらも消えてしまうのです。

つまり理由のある(思考によって作られた)感情というのは、思考が止まれば何であれ消滅するということです。

怒りや悲しみ、不安や恐怖といった感情も思考が動かなければ、その多くはなくなってしまうのです。

その一方で、人生の中で大切な感情には理由がないのです。理由のない感謝とか、理由のない至福感などはただやってくるのです。

そしてそういったものは、思考がない限りは永遠にあり続けてくれるものでもあるということですね。

希望と不安は自我の食いぶち

若い頃というのは、自分の将来に対して何らかの希望を持っているものですね。いろいろな可能性を想定することができるからです。

その一方で、これからどうなっていくのか分からないという面での不安も併せ持っています。

その希望と不安がどちらも比較的大きいのが若者であり、年齢を重ねるにつれて、そのどちらも少しずつ小さくなっていくものです。

私ぐらいの年齢になると、もう人生に対する希望というのはほとんどなくなってしまい、これから先どうなるものでもないという落ち着いたところに立っています。

そのため、今後の人生がどうなるのか心配でたまらないということもなくなってしまうのです。

希望も不安も自我にとっては、絶対的に必要なものだということが分かった上で言うのですが、若い頃を通過してきた身としてはそのどちらも本当は必要ないのです。

これが手に入ったらきっと満たされる、この人と結婚できたら幸せになれる、こんな能力が身についたら充実するはず等々。

希望を叶えて安心できたら、人生は最高だと若い頃は普通に信じているものですが、それは幻想に過ぎないということです。

これが治ったら、これが解決したら、お金が手に入ったら、健康になったらという未来への期待はただ自我が生き延びるための道具なのです。

今この瞬間、全く理由なしに穏やかで、落ち着いていて、自然でいられることがきっと1番大切なことなのだろうと思いますね。

身体に対して意識的であること

せっかく少し遠目の病院に行って腰に痛い注射を打ってもらったのですが、どうも調子に乗ってしまったようで、痛みがぶり返してしまいました。

2時間以上の運転も負担になったようですが、やはり1番良くなかったのは身体への意識がまた散漫になってしまったことかと。

痛みがあるときには、自然と自分の身体の様子にしっかり意識が向いた状態にいられたのですが、気がついたら無意識になっていたわけです。

それで知らずにシャワーなどで不用意に身体をひねってしまったりしたのが原因だと思われます。

これは以前にも書いたことですが、具合の良くないときというのは大切な気づきを得る大チャンスだということ。

普段自分の身体に意識を向け続けることが難しいのですが、痛みや不具合があるときにはしっかり見続けることができるのです。

それをどれだけ自分にとって自然なことにしてしまえるのか、やはり放っておくと外へ外へと注意が向いてしまうのですね。

能のある演目では、舞台袖から舞台中央まで歩いてくるのに、30分もかけるものがありますが、あれはこれ以上注意深くできないくらいに身体の動きに注意する一つの良い事例です。

すぐに忘れてしまいがちな、身体に対して意識的であること。あたらめてまた一から出直そうと思うのです。

どんな自分であれ、責める必要はない

もう何度も繰り返して、すっかり癖になってしまっている腰痛がまたやってきてしまいました。

きっかけはいろいろなんですが、特別無理をしたわけでもなく、ただ何となくの予兆のようなものはあるのです。

だからと言って、それを避ける手段を持っているわけでもなく、結局はまた「ギクッ」という一瞬のショックとともに、痛みはやってくるのです。

ただ以前と違うのは、少しでも早く治してあげようという気持ちが起きるようになったことですね。

以前だったら、不便は承知の上で、自然治癒するまで放っておくことが多かったのですが、今はなるべく早め早めに処置を受けに行けるようになったのです。

そのおかげもあってか、無駄なエネルギーを浪費することもなく、日常の生活に早々に戻れるようになりました。

至極当たり前のことなのですが、こういうことってできない人にとってはなかなかできないもので、すぐに対処できる人にはこの気持ちは分かってもらえいないのですね。

なので、私はどちらの人の気持ちも今では分かってあげられるようになったのです。すぐに対応できなくても、大丈夫。

どんな自分であれ、責める必要はまったくないということだけは確かですよ!

マインドには愛は分からない

だが、心に留めておくがいい。さもなければ、あなたはことの全体を間違って解釈しかねない。あなたが愛と呼ぶものが消えると、別の種類の愛が誕生する。あなたはそれにまったく気づいていない。瞑想が消えると、まったく違う種類の瞑想性が生まれる。それはあなたの思いもよらないものだ。

by osho

クライアントさんとお話ししていると、ときどき自分は人を愛することができないという問題を抱えていると言われることがあります。

ご本人としては、そういう自分はダメな人間だと思って自責しているのでしょうけれど、その気持ちは分かるものの本当はお門違いなのです。

残念なことですが、マインドとして生きている限り、人は愛を知らないのです。もちろん恋愛などのエゴの愛は知っていますが、それを真の愛と誤解しているのです。

誰かを必要とすることを、愛だと勘違いしているのですが、それはあまりにも意識が低過ぎます。

私自身のことですが、もうすでに学生の頃から自分は誰のことも本当には愛せないということに気づいていました。

愛は好き嫌いということとは全く異なるものです。愛はマインドが消えた瞬間に顕れる非常に本質的なものです。

だからクライアントさんには、愛がないのは当然のことで、それを悩むことはないとお伝えするのです。

愛に限らず、自分は人並みにできないということで自己否定してしまうのは、マインドについての理解が足りないからだと気づくこと。

マインドを深く理解することができると、自分を責めるのもマインドの仕組みの一つに過ぎないと分かって、とても楽になれるはずです。

依存の根っこにある不安を見てあげる

幼い頃に両親から安心させてもらうことができないでいると、その子のマインドは不安のかたまりになってしまいます。

そうなれば、その不安をどうにかして安心に変えようとする毎日になってしまうのです。

その結果、幼い無邪気な子供の興味の代わりに、自己防衛の方に生きるエネルギーのほとんどを使うようになるのです。

そのため、自分が何に興味があるのかとか、何が好きなのかといった基本的な自分らしさを見失ってしまう可能性が高くなるのです。

不安や恐怖から逃れようとして、必要以上に親に依存してしまう場合もあるかもしれません。

その依存を存続させるために、相手を好きだという気持ちにすり替えてしまうこともあるのです。

よく幼い子供がお母さんの後ろにくっついて歩いている姿を見ることがあり、お母さんのことが大好きなんだねと思えるかもしれません。

けれども、それは好きという気持ちよりもその子の不安を表していると思った方が当たっているはずです。

安心している子供は、いくらお母さんのことが大好きであっても、後をくっついて歩いたりしないものです。もっと自由奔放に見えるはず。

もしもあなたが、成長しても親に依存している部分があると感じるなら、その根底にある不安を見つけてあげることです。

そうすることで、気付かずにいた親へのあるがままの気持ちも見つかるかもしれませんね。