相手への期待が自分の首を絞める

誰だって嫌われるよりは好かれたい、愛されたいと思っていますね。でも残念なことに、相手の心をコントロールすることは不可能ですので、そこはどうすることもできません。

ただし、相手が自分のことをどう思っているのかということについて、すごく気になる人と、それほど気にならないという人がいるのも事実です。この違いはどこからくるのでしょう?

それは相手への期待の度合いが違うということです。好かれたいという期待が強ければ、それだけ相手の気持ちを気にすることになるのは当然のことです。逆に期待が小さければ、気になりません。

「どうでもいいこと=気にならない 」と言ってもいいのですから。10代〜20代の若い女性が、彼氏に向かって、私のこと好きなの?好きならそれをもっとわからせてよ!って言ってる姿をイメージできますね。

それはまさしく、好きと思われているという実感が欲しくて思わず出た言葉なのでしょう。その実感を欲しがるのは、それだけ期待が大きいからなのです。それなら今度は、なぜ期待が大きいのか?

愛されてる実感が乏しいのは、マインドの奥深くに、「私は愛されるに値しない存在だ」という思い込みが隠されているからです。いくら愛してると言われても、少し時間が経つと猜疑心が顔を出してくるのは、そういう理由です。

そしてまた明日も同じ質問をしなければならないことになるのです。実際にそういう質問をしなくても、猜疑心がある限りは同じことです。その状態が長く続くと精神的に参ってしまい、結果別れることになったりします。

本当は相手の問題ではないのですから、相手を質問責めにしたところで何の解決にもなりません。幼い頃の存在価値の欠如に気づいて、そこをしっかり癒していくことが必要ですね。

感情は不健康なマインドの特効薬

以前、父親が歳を重ねて涙なんか枯れてしまったと言っているのを聞いたことがあったのですが、その時はそんなものなのかなあと思っていたのですが、みなさんはどうですか?

人は様々な場面で涙を流しますね。悲しくても泣くし、悔しくても泣きます。痛くても泣くし、寂しくても泣きますね。恐怖でも泣くだろうし、また嬉しい時や感動したときも泣きますね。

私自身の記憶では、高校生くらいから泣くことがなくなり、サラリーマンを辞めるまでそれは続いていたと思うのです。つまり、長い間涙とは無縁の生活をしていたということです。

それでもそのことになんの違和感も感じていませんでした。なぜなら、泣くようなネタが自分にはないのだから、泣く必要もないと思っていたのですね。

けれども、会社を辞める時期に同期して、自分癒しを始めた頃には驚くほどに涙を流すようになりました。そのとき初めて分かったのは、それまで自分の感情と関わらないようにしていたのだろうということ。

正直に自分の感情と共にいられるようになったときに、それまでのツケがいっぺんにやってきたという感じで、多くの涙を流しました。涙は浄化だとよく言いますが、確かにそうですね。

どんな感情がやってきたとしても、分け隔てなくすべてをあるがままに感じてあげること。こんな当たり前のことができなくなってしまっている男性の実に多いことか。

女性はそれほどひどくはないですが、それでも我慢を得意としている人は大勢見てきました。癒しの第一歩は、感情から逃げないこと。感情というのは、不健康なマインドを修復してくれる特効薬なのです。

それが見える形で表現してくれるのが涙なんでしょうね。

意識とは注意深さのこと

私たちは、日常的に「無意識」という言葉を使いますね。あるいは、寝ているときには「意識がない」といった表現もします。けれども、実際には意識がなくなるということはありません。

意識は永遠不滅です。実存=意識と思っても間違いではありません。ですから、意識は常に存在するのです。意識だけが真実だといってもいいくらいです。

では意識がないというのはどういうことかというと、意識には二つの状態があると考えればいいのです。一つは覚醒状態、もうひとつは眠っている状態です。

無意識とか意識がないというのは、意識が眠っている状態を指すということです。そしてもう一つ、両者の中間的な状態もあります。それは半覚醒状態とも呼べるもの。

半分目覚めていて、半分寝ている状態。なぜこうした中途半端な状態があるかというと、意識というのは別の言葉で言えば注意深さなのです。だからこそグレードがあるわけです。

100%の注意深さがあれば、完全に覚醒していると言えるし、50%の注意深さであれば半覚醒状態だということです。ちなみに、私たちの標準的な注意深さは10%程度です。

マインドの90%くらいは無意識の領域だからです。こうしたことに気づけば、誰もが眠りながら生活しているという本当の意味を理解できるようになるはずです。

みんなが90%眠りこけているのです。意識的であれとは、十二分に注意深くいなさいということ。それが結局、90%の無意識部分を目覚めさせることにつながる唯一の方法なのですね。

 

ダルマに目を入れる?

日本人なら誰でもダルマを知っていると思います。と言っても普段はまったく関わりもないので、もしかしたら今の子供たちが知っているのかどうかは分からないですね。

実はダルマのことを先ほど思い出していたのですが…、ダルマの目は最初白くなっていて、後で何かを祝うときに黒目を入れるという風習がありますが、そのことを思い出していました。

ダルマの起源は、インドで起きた仏陀の教えを中国に伝えたボーディダルマという人の名前らしいですね。日本名だと、達磨大使といいます。

彼が中国に持ち込んでくれた仏陀の教えと、老師の教えが見事にミックスして、それが日本に伝わって、最終的に禅として開花したのです。奇跡的なことが起きたのだと感じます。

話を元に戻すと…、ボーディダルマは何年もの間壁に向かって座禅を続けた結果、手足が腐ってしまったという言い伝えがあり、そのためにダルマは手足がないあの形になったということです。

で、なぜ祝い事があるときにダルマに目を入れるという儀式があるのかということですが、ここからは私の勝手な憶測になるのですが、あれはダルマが目を開けるという意味があるのだろうと。

つぶっていた目を開ける、つまり開眼したという意味です。それは勿論覚醒したということなのでしょう。そして大切なことは、人間は誰でもが(ボーディ)ダルマだということ。

目をつぶっていようと開いていようと、ボーディダルマと同じ存在なんだということ。そしていつかは誰でもが目を開けるときがくるのです。そのときには、ダルマに黒目を入れることになるのです。

osho はいつも、誰もが眠れるブッダだと言っていました。目を開けるとは、100%意識的になるということ。私たちは、自分は朝目が覚めた状態のまま活動していると思っているのです。

けれども本当はぐっすりと眠っているのですね。つまり、無意識に巻き込まれた状態のままにいるということ。だからほんの少しだけの意識的な部分だけが頼りなのです。

自分のダルマに目が入るのは一体いつなんだろうと考えつつ、それを邪魔しているのはこの私なんだよなあ…。

「見ることができない」というインスピレーション

今日は何を書かされることになるんだろうと、キーボードに向かってしばらく静かにしていると、「見ることができない」というイメージのようなものが浮かんできました。

何だろうと思っていると、それは目の前にあるもの、今この瞬間に起きていることを、そのままに見ることができてないということだと気付きました。真実の世界は、時間の中にはないのです。

けれども私たちは、この世界を自分にとって都合のいいように解釈をして得られたものを現実の世界として認識しているに過ぎないということです。時間の流れを感じるとは、そういうことなのです。

だからこの世界を時間の中で展開していく物語として見ているのですが、そのことに気づくことができなくなってしまっているのですね。しかもその物語は、人の数だけあるのです。

誰もが同じ世界を見ていると思いがちですが、物語はマインドの数だけあるのです。それが分かった時、そこから抜け出せない気持ち悪さのようなものも感じます。

何だか牢獄の中にいるような、そんな閉塞感。直に世界を見ることも体験することもできずに、これが世界だと信じ込んで、各々が違う世界で生きているのですから、争いごとが起きても当然なのです。

マインドの解釈が落ちて、この世界を完全にあるがままに見ることができるようになったら、すべてが常に新鮮に感じられ、きっと退屈というものは消え失せてしまうでしょう。

そのときには、同時に時間と物語の住人である自分のエゴも消えてしまっているはずですね。

愛と執着を混同しない

昨日のブログで、執着があれば自然の流れからの反作用の力を受けてしまうということを書きました。執着は自由という自然の流れに立ち向かってしまうからです。

それなら執着を取るにはどうしたらいいのだろう?という発想にすぐなってしまうかもしれませんが、そのためには自分の中にどんな執着があるかをまず見てあげる必要があるのです。

実は多くの人が、愛と執着の違いがはっきりしていないままにいるのです。つまり、執着を愛と勘違いしている状態でいるということです。私自身も若い時には、両者を混同していた記憶があります。

愛の特徴は、相手に一切の期待をしないということと、それが愛以外の何かに変わることがないという点です。一方で、執着はちょうどこの真逆だと理解すればいいのです。

執着は、気づいていようがいまいが必ず相手に対して期待を持っているのです。そして、その期待を裏切られると、愛(の形をした執着)は一気に憎悪へと変貌するのです。

自分の中にある執着をみて、ただ執着だと受け止めることができるなら、それだけで少しは執着が小さくなってしまうはずです。執着を毛嫌いすれば、反作用の力によって、執着に飲み込まれてしまうかもしれません。

許しが訪れるのと同期して、執着も自然が溶かしていってくれるまで、ただ見ていてあげることが大切なのですね。

作用反作用の法則を思い出せ

「作用反作用の法則」って覚えていますか?誰もが学校で習ったはずなので、名前を知らないという人はいないでしょう。でも内容は思い出せない人もいるかもしれません。

簡単に言えば、あなたが壁を手のひらで押せば、それと同じ分だけの力で壁があなたの手のひらを押し返してくるということです。この両者の力が互いに反対方向で釣り合っているわけです。

これが釣り合わなくなったら、壁が動くか壊れるかしてしまうはずです。あなたが床に立っていられるのは、重力によってあなたの足が床を押し付けるのと同時に床があなたの足を押し返してくれるからです。

だからずっと立ちっぱなしでいると、足の裏が痛くなるのです。何であれ、この物質的な世界においては、この法則から逃れることはできません。ここで話しはいきなり執着へと転換します。

執着というのは固着を作り出しますね。それは例えれば、川の流れに身を任せてプカプカ浮いているのに反して、岩か何かにしがみついて流れに逆らっているようなものです。

そうなると、自然の流れの力は、逆らった力の大きさだけあなたを流そうとしてくるということです。しがみつけばそれだけ過酷な状態になってしまうということです。

ストレスなしに清々しく生きるためには、自然に対して逆らわないことです。そうすることで作用反作用の法則を感じずにいられるからです。だから執着は大敵なのですね。

 

戦いの中に敗北がある

生と戦わないこと
さもなければ、あなたは負けを見るだろう
明け渡しなさい
そうすれば、あなたの勝利は確実だ
降伏の中に勝利があり
戦いの中に敗北がある
もしあなたが欲求不満だとしたら
それはただただ
あなたが必死に戦ってきたことをあらわしているにすぎない

by osho

これを読んで、戦わずに生きていけるならそれに越したことはないけれど、そうもいかないのが人生じゃないのか?戦わなければ、ますます不利な立場になったりしてバカを見るのは明らかだろう。

このように考えている人もいるかもしれません。あるいは、自分から攻撃しようと思っているわけではないけれど、相手から攻撃をしかけてこられるから、それに立ち向かっているだけだと…。

私たちのエゴというのは、みんな一国一城の主なのです。だから、高いお城を建てて、その周りに深いお堀を作って、敵が攻めてこられないように自分はお城のテッペンで周囲を見張っているのです。

なぜこんなことになってしまったのか?それはエゴを深く理解すれば明らかになります。エゴとは、外側にある広大な世界とこのちっぽけな自分が分離しているという思い込みからできているからです。

この思い込みが岩のように硬くなって、自分のことは自分で守らねばならないという幻想を作り込んでしまったのです。そこから人生という戦いの場が生み出されていったというわけです。

そしてエゴは、幸せになって満ち足りたいと願っている反面、その裏側では戦うことで世界との分離を明確にし、自分の存在を保とうとすることに必死なのです。

敵がいるから戦わざるを得ないのではなく、戦わなければエゴは消えてしまうことをどこかで知っているのです。だからエゴが強ければそれだけ、人生が激しい戦いの場となるのは当然のことです。

戦わなくなればエゴは消えていく運命にありますが、その代わりに本当のあなたが姿をあらわすことになるでしょうね。それは個人という波ではない海である全体としての自己が覚醒するのです。

どんなことでも起こり得る

事実は小説よりも奇なり、という言葉があるように、この世界では起こり得ることはなんだって起こるのです。可能性がゼロでない限りは、どれほど可能性が小さいとしてもです。

そのぶんだけ時間を長く取ることによって、いずれは起きるということです。コップの水の中に、インクを一滴垂らすと、あっという間にインクは水に溶けていきますね。

そして水の色は、インクで薄まった一定の色になるはずです。けれども、時間軸を長くすれば、例えばいずれは上半分が真水で、下半分だけがインクと水の混ざった色になることだってあるのです。

どれだけあなたが大好きな彼氏のことを信じているとしても、彼の気持ちがあなたから離れていくこともあり得るということ。その可能性を否定してしまうと、悲劇が起きるのです。

私たちには、自分に都合のいいように物事を期待する習性がありますね。そして当然のこと、その期待が大きければそれだけ裏切られたときのショックも大きくなるのです。

期待すれば、いつかは裏切られます。そしてその反対に、期待しないでいられるなら、裏切られる可能性はゼロになるのです。なぜなら、裏切られるのは期待に対してだからです。

だから、もしも裏切られたくないと思うなら、期待しないことです。物事は、それが起きるように起きるのです。変な日本語ですが、起きることはコントロールできないということ。

この理解が深くなれば、期待することのバカバカしさにも気づけるようになるはずです。期待がなければ、あなたは真の自由を手にすることになるのです。

 

許しは訪れるもの

英語で、謝る=apologize は自動詞ですが、許す=forgive は他動詞なんですよね。つまり、forgive はその後に目的語がくるのですが、それが罪だったり相手だったりするわけです。

〜を許すというとき、何となくそこに意思の力のようなものが存在するように感じませんか?広く寛大な心でもって許す、のような…。それはきっと他動詞だから、そんな感じがするのだと思うのです。

ところで、意思の力、つまり思考でターゲットを許すということができると思いますか?実はこれは真っ赤なウソ。自分の意志力で眠りにつけないのと同様に、許すという力は思考にはありません。

実際には、許さないという思い、もっと言えば執着が消えたときに、そこに許された状態がやってくるということです。

だから、私はあなたのしたことを許した、というとき、それが本当であるなら、私はあなたのしたことについてどうでもいいという心の状態になっている、ということです。

繰り返しますが、寝ずにいるということは意志力で可能ですが、寝入ることは意志力ではできません。それと同様に、許さないのは意志力ですが、許すことは意志力では不可能なのです。

したがって、相手を許したいのに許せないのはどうしてか?と悩んでも仕方のないことだと理解することです。そんなとき、一番大切なことは許せずにいる自分に寄り添ってあげることです。

許せない自分を責めてしまえば逆効果になるのです。怒りを握りしめてそこに執着している自分のマインドを受け止めてあげること。そうすれば、少しずつその執着のエネルギーは小さくなっていくはずです。

あるいは、寄り添う代わりに、気持ちを代弁してあげることです。たとえば、「私は絶対あなたのことを許さない!」などの言葉を繰り返し唱えるのです。げっそりするほどそれを繰り返すことで、自然と許しは訪れるでしょうね。