自分に対して徹底的に正直でいる

自分に対して正直でいるという、こんな当たり前なことがなかなかできないのが、私たち人間の本性かもしれません。

自分の心の奥からの声に正直に耳を傾ける、あるいは自分に対して正直にものを言う、どんな自分であってもそのままを見てあげること。

誰かに甘えたいと思っている未熟な自分、誰かを打ち負かして勝ち誇りたい自分、人を見下して安心したい自分、貪欲に自分本位に生きようとする自分。

些細なことに傷ついてしまう情けない自分、他人のことを思いやる気持ちができない薄情な自分、いつも寝ていたい怠け者の自分。

数え上げたら全くきりがありません。上記したことはすべて私自身に当てはまることですが、そんな自分を丸ごと受け止めてあげればいいだけです。

自分に正直になるとは、ただ本当のことを言えばいいということではありません。訴えたい気持ちを真正面から見てあげると、隠されていた本音を吐露することになるのです。

それは訴えることではなくて、独り言をいうようなニュアンスです。誰かに聞いて欲しい気持ちを充分受け止めてあげれば、告白のように正直な言葉が出てくるのです。

そのとき初めて、心を開くことができます。どこまでも徹底的に正直でいることができるなら、私たちはただそれだけで苦しみから解放されるはずです。

なぜなら、苦悩の根源とは自分に対して不正直になったり、隠し事をすることだからですね。正直な気持ちで自分と一緒にいる時間を作ってみることをお勧めします。

真に知るということ

真に知るということ、あるいは真に所有するということ、それはそれ自身であるということと同じ意味を持ちます。

それは、自分以外の何物も本当には知ることができないからです。勿論、知ったつもりになることはできますが、それはただ思考がそう解釈しているに過ぎません。

あるいは、自分以外の何物も本当には所有することなどできません。私たちが所有しているつもりになっているのは、ただの約束ごとに過ぎません。

みんなが、揃ってあの家はあなたのものだと言ってくれるからこそ、それはあなたの所有物と言う取り決めになっているだけです。

あなたが本当に所有できるのは、あなたそのものしかありません。私たちの知覚は自分以外の何かを対象として機能するのですから、知覚そのものが真実ではないことは明らかです。

真に見ることができるもの、真に聞くことができるもの、真に触れることができるもの、それは自分自身しかありえません。

私たちが最も頼りにしている知覚、それはその奥に純粋な意識としての気づきがあるのです。けれども、あまりにも知覚に力を与えてしまったために、そのことに気づけなくなってしまっています。

知覚のずっとずっと奥にある気づき、そこに意識を向けていれば、あなたが知覚しているすべてのものが、本当はあなた自身なのだと気づくことができるはずです。

肉体の目で見るのではなく、肉体の耳で聴くのでもなく、ただ一人称の自己に気づいていることこそ、真に知るということなのです。

今日の独り言

大分古くなって動作がすっかり鈍くなってしまった、我が愛するパソコンの前にすわって、今日は何を書こうかと心を静かにすると、しばらくしていつもの「あれ」がやってきてくれます。

「あれ」をどう表現すればいいのか、言葉ではどうにも言い表すことができないのは分かっているのですが、敢えて言うと…。

はちきれんばかりの、それでいてとても冷静な悦びとでも言えばいいのか、それを感じているというよりも、自分がそれ自体だということが分かるのです。

それは、今日という一日に自分がどんな経験をして、どんな反応をしたのかということから完全に分離した、別次元のものなのです。

心のどこかに、この世界に対していいようのない怒りのようなものを持っている自分の部分を感じることもできます。それは本当にあらゆるものを呪っているようです。

それはこの人生のほとんどの間、ずっと心の中で影ながら活躍していて、物理的な私の人生を描き続けてきました。

その想いの描くままの人生が今この瞬間も起きています。そんなものがあるにも関わらず、やっぱりその奥でこの世界を愛している自分もいるのです。

この世界は大きくもなければ小さくもありません。ただ本質の自己が現象化して顕れているに過ぎないのですから。

あなたの夢に大きさがないのと同じです。あなたが自分の夢を愛しく感じるのと同じように、私はこの世界で何が起ころうともとても愛しいのです。

人生はまぼろしのよう

普段寝付きのいい方なのですが、何か気になっていることがあったりすると、いつものようにすぐには寝れないという経験を何度もしています。

きっとそのときには、気になっている事柄が、頭の中に何度も繰り返しやってきて、その思考にとらわれてしまうからですね。

もう随分と前のことですが、まだ会社員だったころ、与えられたプロジェクトをどのように進めていったらいいのか考えなければならないときがありました。

たまたま、ちょうど年末年始の連休をまたいで、年明け早々からスタートさせなければならないというタイミングでした。

休み中は特別出かける用事もなくて、ずっと家で過ごしていたのですが、その仕事のことが気になって頭から離れなかったのをよく覚えています。

朝起きたときに、睡眠中もずっとそのことを考えていたというのが分かるのです。何となくこれは危ういなと思ったのを記憶しています。

人は考えないようにしようと思うと、余計そのことがグルグル頭の中で回転してしまうのですね。あれからもうすでに、20年くらいが経ちました。

今では、考えないようにする上手な方法を知っています。それは、考えないようにするのではなくて、その思考を見る側にいるようにするのです。

そうすると、思考はあっという間に沈静化していってくれます。そして更にいいことは、そういうことを日ごろから忘れずに実践することで、過去や未来の思考そのものがやってくることが減りました。

最近では、一日の終わりにこうしてブログを書く習慣がついているのですが、この瞬間今日のことを思い出しても、まるで遥か彼方のことのように感じている自分がいます。

明日はもっと遠い未来のような気がします。たとえが悪いかもしれませんが、この現実がまるで儚い夢のようなもののように思うのです。

まさか、こんなふうに自分の人生がなってしまうとは、思いもよらなかったのですが、なったものは仕方がないので、これを楽しむことにしようと思っています。

ウツ症状が来たらチャンス到来

無邪気さの原動力は愛であり、一方自己防衛の原動力は恐怖です。勿論、自我による自己防衛が機能するからこそ、規律ある社会性が育つのですから自己防衛が不要ということではありません。

けれども、自己防衛ばかりが優先されて、無防備な無邪気さが抑圧されてしまえば、人生を謳歌することができなくなってしまうのも事実です。

ここでいう自己防衛とは、心理的な防衛のことです。この心理的な防衛の主は自我ですので、自我が明確には存在しない人間以外の動物には、この心理的防衛はほとんどないと言ってもいいのです。

たとえ盲導犬などの優秀な犬が、人間の作った規則を立派に守り通すとしても、彼らは自分が規律を守っているという自覚がありません。

この我々人間だけが行う心理的防衛こそが、私たちの苦しみの根源であるということは、もう何度も繰り返しお伝えしてきましたね。

あまりにも一方的に、心理的防衛ばかりが優勢になってしまうと、ある一定の限界を越えた時には、心のストライキとも呼べる事態がやってきます。

それは、無邪気さの中に内在する防衛本能の方が作用して、それまでの心理的防衛一辺倒の生き方を強制的に中止させるのです。

これがいわゆるうつ症状なのです。身体が重くて動かせなくなったり、心が疲弊してやる気がまったくなくなってしまったりといったことが起きてきます。

そうでもしなければ、一線を越えて取り返しのつかないことになってしまうと本能的に感じ取るからでしょう。最後の助け舟がそこにあるということです。

ですから、鬱々とした症状がやってきたときはチャンスだと思ってください。自分がやり続けてきた心理的防衛に気づいて、それを少しずつ手放していくヒントがそこにあるからです。

無邪気さがその人の魅力を作る

幼児のころの無邪気さというのは、とても尊いものです。なぜなら、そこには自我がまだ発生していなかったからこその無防備さがあるからです。

それは心理的な恐怖や不安というものを知らずにいる時代ですから、愛そのものといってもいいのかもしれませんね。

ところが、自我の目覚めとともに、少しずつこのままの自分ではいけないという自己防衛の要素が作られていくのです。

無邪気さはその人のオリジナルな部分であり、自己防衛を伴った自我は、生後作られた社会性の部分となるのです。

したがって、どちらもこの世界で生きていくためには必要不可欠なのですが、恐怖や自己否定感が強すぎると、そのバランスがとれずに自己防衛の方ばかりが優勢になっていってしまいます。

そうなると、大切なオリジナルな部分である無邪気さが心の奥にしまわれたままで、長い間陽の目を見ずにいることになってしまいます。

こうなると、社会性はあるかもしれませんが、愛のない無機質な魅力の薄い人物になってしまうことになるのです。

あなたは、自分の中にある無邪気さや無防備さとしっかり繋がっているという自覚がありますか?もしもそうした感覚が希薄であるのなら、癒しが必要な状態だと考えるべきです。

理性による努力だけでは、バランスのとれた心の状態に戻すことは難しいからです。毎日、子供のように無邪気な自分の心の部分を意識してあげてくださいね。

全体性の目でこの世界を見る

自分のことを人物だと信じ込んでいる思考を使ってこの世界を見ると、味方もいるけれど敵かもしれないと感じる人たちも沢山いるように思えます。

その逆に、あの感覚、全体性としての自分を通してこの世界を見てみると、嫌いな敵のように見えていたあの人もこの人も、すべてが自分の内側にあるということに気づけます。

その二つの違いが、自分の中で同居していることに不思議な感じを持っているのも事実ですが、でもそのように絶妙なメカニズムがあるのです。

個人としては、局所的に物事を見て判断するので、そこには必ず分離という愛の欠如からくる恐怖が横たわっています。

全体の中の一部としての自分という考え方ができないために、嫉妬や欲望が渦巻いて、それが苦しみを誘発するのです。

そこには、常に不条理感、不平等感、勝敗というものがついてまわるのです。自分が周りに対して有利な立場でいたとしても、いつかは逆転がやってくるのです。

食物連鎖という全体性で見るか、弱肉強食という個体としての理不尽さで見るかという違いなのです。

物事はただ起きているのですから、それをただそのままに見るためには、全体性を通して見る必要があるということです。

全体性から見れば、無駄なことは何一つなく、神秘的ともいえるバランスの上にすべてが成り立っていることを感じざるをえないのです。

忙しい毎日の中で、ほんの数分でもいいですから世界をそのように見る時間を作って、自分にその経験をさせてあげられるといいなと思うのです。

自分以外の誰かのために生きる

苦虫噛み潰したような深刻な顔をして生きるより、明るく軽やかな表情でいられるように生きるほうがいいに決まっています。

気の進まない仕事を心の内で文句を言いながらも続けていくよりも、自分がやりたいこと、ワクワクできるような仕事をしていくほうがいいですね。

でももっとその上にすばらしいと感じるのは、その仕事が自分のためではなくて、世のため人のためである場合です。

最近聞いた誰かの言葉で、生きていくために仕事をしているのではなくて、仕事をするために生きている、というのがありました。

なるほど、そういう言葉を心から言える人は、間違いなく自分の喜びのために生きるというよりも、自分以外の何かのために生きている人なのでしょうね。

若いうちから、自己防衛としてではなく自分に厳しく生きてきた人、きっとそれは育てられた環境にも影響されるのでしょうけれど、そういう人はいつか世のため人のために生きることのできる可能性の最も高い人のように思います。

防衛ではなく自分を最優先しない生き方というのは、そのような厳しさというものが根底に必要なのではないかと感じます。

私などは、昔から我がままで生きてきましたし、身体がしんどいことは大嫌い、何とか快適で楽な毎日をと望む気持ちが強いのです。

かといって、そういう自分を否定するつもりは毛頭ないのですが、それでも長くて短い人生のほんの少しの間だけでも、自分以外の誰かのために生きることができたら、それはきっとすばらしい体験なのでしょうね。

自分がいるという「ふり」

自分という人物はいない、ということに気づかされたとき、本当に驚きました。でもその裏で、実はそれを知っていたという感覚もありました。

いつから分かっていたのかは分かりませんが、何かそのあたりのことについて、モヤ~っとぼやかしながら生きてきたように思うのです。

私たちは、いろんな「ふり」を上手にしながら何食わぬ顔で毎日を生活しているのですね。この地球上にいるとされる70億人の人類は、個別の意識を持っていると思われています。

でももうそんな「ふり」をしなくてもいいのかなと思っています。地球上には誰もいないのですから。個別の意識ではなくて、個別の思考が在るだけです。

それもどこにあるかなんて、分かりません。この自分がいないのですから、あたかも意志を持って目の前にいるように見えるあなたもいないのです。

誰一人いません。ただそれが起きているだけなのですから。在るのは、唯一無二のこの在るという気づきだけ。

この人生も、死後の世界も、飛来するUFOや宇宙人も、天使であれ天狗であれ、予知能力からテレパシー、あらゆる一切合財は源泉から流れ出た結果。

意志も目的も、意味も価値も、罪も全部がただの思考による作り物に過ぎません。その証拠に、すべては一過性でしかないのです。

自分がいるという「ふり」をしているという「ふり」をしながら、この人生をできるだけエンジョイしようじゃありませんか!

生まれ変わらず生き続けるもの

by gangaji

私たちは、自分の問題を軽減し、苦悩に終止符を打つための答えを探し求めます。けれども、その前にまず、生まれ変わりがあります。

それは自分で実際に選択した生まれ変わりです。私たちはしばしば、何者でもなくただ今ここに存在する、ということよりも、苦しむ人として生まれ変わることを選択します。

何者でもなく、何を守ろうともせずにいる、という意思は、非常に強烈な感情を生むことがあります。激しい恐れが湧き起こることもあります。

「私は消えてしまうかもしれない。そして私の人生は実際には何の重要性もなかったことになる」と思うのです。

けれど、わかっていただきたいのは、それはいずれにしろ起きることだ、ということです。あなたはいずれは消え去り、生前たとえどんなに大きな貢献を残そうとも、それさえいつかは消え去るのです。

ですからあなたに訊きます。あなたは、たとえこの一瞬だけでも、生まれ変わらない、という意思を持てますか?

その意思があるならば、あなたには、生まれ変わらないもの、物語の苦しみも問題も必要とせずに生き続けるものは何なのか、がわかるはずです。

そこに何が生き続けているかに気づき、その広大さ、平安が、あなた自身の心であることを知ってください。それは、生まれることも死ぬことも一切関係のない、あなた自身なのです。

その気づきに忠実であるなら、生まれ変わることは問題ではなくなります。なぜなら、あなたの物語、あなたの「問題」は、本当のあなたという広大な知性の中に現れているのだ、ということをあなたは意識的に認識できるからです。

そうしたときあなたには、あなたがどんな過去からも本質的に自由であるということがわかります。そして過去を歓迎し、過去から学び、その美しさ、恐ろしさのすべてを享受することができるのです。