概念と自己の同一視をやめる

by gangaji

自己探求とは、あなたをどこかへ連れて行ってくれる道のことではありません。それは、あなたをその行程の途中で立ち止まらせ、自分自身で、直接、あなたが誰であるかを発見させてくれる道のことです。

止めることの力を言葉で説明することはできません。止めることができたその瞬間、そこにはどんな概念もなく、けれども意識があります。

概念を持たない意識というのは、当然、自由です。それは一瞬にして自(おの)ずから明らかになります。私たちは普段、概念に従うことをあまりにも教え込まれているため、意識そのものも概念化しようとします。

意識が存在するために何の概念も必要ないということに気づくその永遠の一瞬、概念と自己の同一視は忘れ去られます。これは必要不可欠な経験です。

その経験の後には、概念とは無関係に、意識とは自由なものである、ということに対するより深い気づきが訪れます。

概念と自分を同一視することを止め、存在の根底にある静けさを自己であると認めるこの重要な転換には、往々にして恐れが伴います。

自分の本質を完全に理解した偉大な導師たちは、私たちに、個体性の崩壊(ほうかい)というこの恐怖と対峙するよう促します。その対峙がもたらすものは逆説的です。

つまり、個体制は崩壊しながら、同時に個人が一人ひとり明確になるのです。意識の特異性は、一人ひとりの個体の中に意識それ自身を認識しながら、同時にまたあらゆるものを息づかせる力として自身を認識する、という点です。

個体性を進んで放棄してもいい、と思うときがやってきます。そう思ったとき、実際に放棄されるのは条件づけられた個体性であって、一つひとつの意識はすべての意識と一つである、ということが明らかになります。

けれどもまず最初になくてはならないのは、個々の自己と認識していたもの一切を失うことをいとわない、という意思です。

恐れを感じるただ一つの理由は、この喪失が現実にはどういうものかを想像することができないからです。

喪失が起こったとき、それは実に大変よい知らせです。個人というアイデンティティは、自己実現という甘美な真実を被(おお)う殻(から)であったことがわかるのです。

今、この一瞬、すべてを止めてごらんなさい――探し求めることも、否定することも、拒否することも、すがりつくことも、それら全部を手放し、今この一瞬だけ、あなたの存在の真の姿の中に身を委ねてごらんなさい。

するとその後に起こるすべてのことを、存在という聖域において見、体験することができるでしょう。