自分という個人は本当にいるか?

ips 細胞の発明によって、いずれは他人から臓器を提供されて移植するということが必要なくなる時代がやってくるのでしょうね。

あらかじめ、患者自身の臓器を ips 細胞から作っておいて、それと交換するだけで済むわけですから、これ以上の治療はありません。

その際移植する臓器は自分のものと全く同じものであるため、拒絶反応などを心配することもなくなるわけですから、本当にすばらしいですね。

さて、更に医学が発達した遠い将来には、今の自分とまったく同じコピー人間を作ることもできるようになるかもしれません。倫理上の問題はともかくとして…。

そのコピー人間とは、今の自分自身となんら違う部分のない、完全なるコピーです。肉体も精神も、記憶も性格にいたるまで、全く同じ自分自身です。

そうなった場合、オリジナルの自分とコピーされた自分の区別はつかなくなってしまいます。互いに、俺がオリジナルで、お前がコピーに違いないと言い合うことになるかもしれません。

なぜなら、自分がコピーされたという記憶がどちらにもないからです。そうなったときのそれぞれの自分とは何なのでしょうか?

私たちは、自分という個人が二人以上いるということを理解することができません。コピーはいくらいてもいいけれど、それはあくまでもコピーでしかないという立場です。

けれども、客観的にあなたを見る人からすれば、どちらもあなただと言うはずです。なぜなら、両者を区別する何のすべも無いのですから。

それでも、オリジナルのあなたとコピーされたあなたの二人は、ともに自分は一体どっちなのかということに延々と悩むことになるでしょう。

私たちが感じるこの不自然さは一体どこからくるのでしょうか?それは、自分という個人は過去からずっと連続して存在するという思い込みがあるからなのです。

もしも、一瞬一瞬自分という人物が新たに作られているとしたなら、オリジナルだろうがコピーだろうが、一瞬でリセットされてしまうのですから、何の違いも無いということに気づきます。

つづく