身体が熱くなる現象

最近、数は減ったものの時々はヒーリングのセッションをしています。以前は、ヒーリングが一番人気だったのですが、どういうわけか最近はそうではなくなっています。

そのヒーリングをしていると、毎回必ず体中がカッカとしてきて、すごく暑くなるんですね。涼しい顔してやっているように見えて、ひどいときには胸のあたりに汗が垂れるのを感じます。

何の運動もしていないのに、というよりもじっと静かにして呼吸を整えてほぼ瞑想状態のようなものなのに、なぜか身体が熱を持つのです。

講座を受講された方々は、実践中にみなさん似たような経験をされたと思うのですが、私自身そのようになってしまう理由は分かりません。

理由はともかくも、お風呂に浸かったようになるので、血行もよくなって決して身体には悪くないだろうというくらいの気持ちでやっています。

ところで、これも不思議なことなのですが、このブログを書こうとしてパソコンの前に座ると、それに似たような状態になります。

心はとても冷静でいるのですが、身体が熱く感じてきます。気づかずにキーを打っているときがほとんどですが、ふと指が止まったときなどにそれを感じるんです。

この季節は暑いさなかなので、この身体が熱くなってしまうのはどうかと思うのですが、本当に不思議なことです。

そして、こうして打ち終わるころには、その熱も引いてきてくれます。

選挙カー不要論

毎回選挙が近づくと、いわゆる「選挙カー」なるものが街中に出没して、拡声器から大声を出して「○○です。○○をよろしくお願いします!」と訴えますね。

ルシッドのセッションルームがある吉祥寺でも、人出が多い街だからか、やたらに選挙カーのお出ましとなるのです。

そうなると、そこそこ静かな環境でゆったりとヒプノセラピーのセッションをしようと思っても、あのけたたましい音がちょっと気になりますね。

実際には、クライアントさんは催眠状態になって、過去の出来事やそのときの気持ちや感情の方へ意識が向いてしまうと、外の騒音はどうでもよくなるのですが…。

それにしても、毎回思うのですが、一体あの選挙カーで訴えている内容は何なのでしょうかね?ただ、名前を連呼するだけの効果が如何ほどなのか疑いたくなってしまいます。

今日は、参議院選挙を明日に控えた選挙運動最後の日とあって、夜8時直前まで激しい連呼合戦が繰り広げられていました。

猛暑のさなかの選挙運動は、当事者の方々にとっては本当に大変だったことだろうとお察ししますが、できたら意味のない選挙カーはそろそろ廃止にして欲しいものです。

何かの売り場で、売り手から「これを買ってちょうだい」と言われると、買いたくなくなるへそ曲がりの私のようなものもいるのです。「よろしく、よろしく~」と訴えない謙虚な人に投票したくなるのは、私だけでしょうか?

明日の開票結果が多少気にはなりますが、それはきっと今この地球規模で起きている大きなうねりの一つの結果を見ることになる気がしています。

距離ゼロで切り離す

意識を今に向けるということは、具体的にはどういうことなのかとよく聞かれます。方法があるかといえば、明確なものはないかもしれません。

ただし、それに近いニュアンスのやり方はあります。例えば、自分の思考に注意を向けていることで、過去と未来を行ったり来たりする防衛のための思考を緩めることができます。

それは、意識を今に置いておくことができるようになるはずですね。あるいは、何かをしようとすることの反対をするのです。

つまり、すべてをやめてみるということ。何もせずに、じっとしている瞬間を作るのです。何の目的もない心の状態は、やはり今にいることに通じるものがあります。

また、そっと耳を澄ますというやり方もあるかもしれません。耳を澄まして何かの音を聞くということではなく、ただただ耳を澄ましている状態でいるということ。

それは集中ではなく、今というサウンド(それは静寂さなのですが)に耳を澄ますと言うことです。こうしたことを試してみると、あらゆるものから自己が切り離されることに気づきます。

ただし、切り離されたとしても、それは距離ゼロの状態でのことなのです。他の表現をすれば、密着しているけれども、それそのものではないという感覚です。

それは、スクリーンと映像の関係のようなものだと思えばいいのです。映像は確かにスクリーン上に、つまりスクリーンとの距離ゼロで映しだされますが、スクリーン自体が映像になることはありませんね。

距離ゼロで切り離す視点を持つことができれば、私たちはあらゆるものをダイレクトに感じると同時に、何物からも傷つけられることはないと知ることになるのです。

人にはそれぞれの事情がある

世の中には、同じ人間なはずなのに本当に様々な人たちがいるものです。それも、到底自分には理解することができないという場合も多いですね。

街ですれ違う、何か口の中でブツブツ文句のようなことを言っている人がいるかと思えば、交差点を止まりもせずに突っ切ろうとする自転車の人。

奇想天外な危険な挑戦をし続けている人、何も食べずにずっと健康で生き続けていられる人、人への迷惑をモノともせずに騒音を出す人。

挙げ出したらキリがありません。けれども、どんな人のどんな行動も、どんな考え方であっても、よ~く見てあげればごく普通の思考を使ってなるほどと納得できる理由があるものです。

自分という個人がこれまで経験によって得てきたものなど、地球上の70億人のすべての経験からしたらゴミのように小さなものです。

私たちは、そのほんの取るに足らないような体験を通して、周りの人たちのことを評価して、善悪や正不正を判断して裁いてしまいます。

その人にはその人なりの事情というものがある、ということを忘れずにいられると、そこそこ心を広げてやさしい目で相手を見てあげることができて、自分がその分だけ楽になります。

でもね、心の癒しを進めているときには、そのことは一旦脇に置いておいてください。

「幼い頃に親からされた虐待や考えられないような仕打ち、思い出したくもない理不尽な相手の行為にも、実はそれなりの事情がある」というところに目をやってしまうと、本当の感情が隠されてしまうからです。

久しぶりに嬉しいニュース

昨日、青森県だったと思うのですが、刃物で女性を切りつけていた男性を、高校生が体当たりで突き飛ばして命を救ったということがあったのですね。

今朝のニュースで知りました。彼は、甲子園を目指して県大会に出場している有名校の野球部員なのだそうです。

彼を含めた補欠たちが、試合会場の駐車場の整理などをボランティアでやっていたところ、その事件に出くわしたとのこと。

本人によると、何も考えずに無我夢中で突進したと言っていましたが、本当にそうなんでしょうね。思考が働いて、保身の考えがよぎったとしたら、そんなことはできなかったはずですから。

ここから先は、私の勝手な憶測に過ぎないので、適当に読み流してもらって構わないのですが。あえて書きたいので書かせてもらいますね。

もしも彼が一生懸命練習をしてきた末にレギュラーになれなくて、かつユニフォーム姿でクルマの整理をさせられていることに少しでもイラっときていたなら、結果は違っていたかもしれません。

なぜなら、そのイラっとする心は、まさしく保身からやってくるからです。その保身を抱いたままでは必ず思考が活動しているのですから、無我夢中にはなれなかったはず。

彼の日ごろの心の在り様がそのまま伝わってくるような気がしませんか?彼のような若者がいるのですから、日本の未来もまだまだ捨てたもんじゃないと思いますね。

それにしても、報道番組のコメンテーターのみなさま、もう少しましなコメントをよろしくお願いします!

概念と自己の同一視をやめる

by gangaji

自己探求とは、あなたをどこかへ連れて行ってくれる道のことではありません。それは、あなたをその行程の途中で立ち止まらせ、自分自身で、直接、あなたが誰であるかを発見させてくれる道のことです。

止めることの力を言葉で説明することはできません。止めることができたその瞬間、そこにはどんな概念もなく、けれども意識があります。

概念を持たない意識というのは、当然、自由です。それは一瞬にして自(おの)ずから明らかになります。私たちは普段、概念に従うことをあまりにも教え込まれているため、意識そのものも概念化しようとします。

意識が存在するために何の概念も必要ないということに気づくその永遠の一瞬、概念と自己の同一視は忘れ去られます。これは必要不可欠な経験です。

その経験の後には、概念とは無関係に、意識とは自由なものである、ということに対するより深い気づきが訪れます。

概念と自分を同一視することを止め、存在の根底にある静けさを自己であると認めるこの重要な転換には、往々にして恐れが伴います。

自分の本質を完全に理解した偉大な導師たちは、私たちに、個体性の崩壊(ほうかい)というこの恐怖と対峙するよう促します。その対峙がもたらすものは逆説的です。

つまり、個体制は崩壊しながら、同時に個人が一人ひとり明確になるのです。意識の特異性は、一人ひとりの個体の中に意識それ自身を認識しながら、同時にまたあらゆるものを息づかせる力として自身を認識する、という点です。

個体性を進んで放棄してもいい、と思うときがやってきます。そう思ったとき、実際に放棄されるのは条件づけられた個体性であって、一つひとつの意識はすべての意識と一つである、ということが明らかになります。

けれどもまず最初になくてはならないのは、個々の自己と認識していたもの一切を失うことをいとわない、という意思です。

恐れを感じるただ一つの理由は、この喪失が現実にはどういうものかを想像することができないからです。

喪失が起こったとき、それは実に大変よい知らせです。個人というアイデンティティは、自己実現という甘美な真実を被(おお)う殻(から)であったことがわかるのです。

今、この一瞬、すべてを止めてごらんなさい――探し求めることも、否定することも、拒否することも、すがりつくことも、それら全部を手放し、今この一瞬だけ、あなたの存在の真の姿の中に身を委ねてごらんなさい。

するとその後に起こるすべてのことを、存在という聖域において見、体験することができるでしょう。

実年齢と精神年齢の不一致について

幼いときに、自分の現実としての幼さと、自分の大人っぽい感覚とのずれを感じて、どうしようもない惨めさに飲み込まれていた人たちがいます。

それも時々いらっしゃいます。どういう人の場合にそういうことが起きるのかは定かではないのですが、思った以上に多くの事例に出会います。

たとえば、子供のころに「何で自分はこんなに小さいんだろう?」と不自然に自分自身を感じていたり、もっと明確に「私は子供じゃない!」と心の中で叫んでいたりもするのです。

肉体だけは、どうやってもほぼ実年齢に相応の育ち方をするのですが、心というのはどうもその限りではないようですね。

勿論、大人のような実体験が豊富ではないわけですから、物知りというわけではありませんが、要するに誰にも教わったわけではないのに人の心の在り方などを知っているのです。

この人にこういうことを言ったら傷つけることになるとか、この人に我侭をしたら相手がもたないなど、生まれながらに分かっているのです。

こういう子供は、周りの無邪気な子供たちと一緒にいてもあまり楽しめなかったりします。それはそうですよね、その子はもっと大人っぽい洗練されたものなどに興味があるのですから。

こうしたケースで一番困るのは、自分が思ったような自分にいつまでたってもなれないという現実をつきつけられて、自己否定を強く持ってしまうということです。

単に早熟というレベルで済ませるようなものではないので、本人は人知れず悩んだりすることになる場合も多いようです。

どこかの年齢になれば、実年齢が精神年齢にキャッチアップすることになるのでいつまでもその問題が続くということはないのですが、その自己否定感だけが残ってしまうのです。

それと同時に、子供のころから大人っぽい気の使い方をして生きてきてしまうために、感情が鬱積してしまい、後々そうしたものが噴出して本人を驚かせることにもつながるのです。

思い当たるという場合には、自分の心の奥深くに隠してしまった無邪気さを是非探してみてください。そこと出会うことができたなら、無邪気さと大人っぽさのバランスのとれた成熟した人間へと歩みを進めていけるはずです。

死とは思考の中にしかないもの

私たちは、みな幼くして自我に目覚めたころから死への恐怖を持つようになっていきます。自分がいなくなるとは、どういうことなのかと考えるだけでとても恐ろしく感じるのです。

けれども、安心してください。私たちの誰もが死ぬことはありません。なぜなら、実在していないものが、いなくなるということはありえないからです。

死への恐怖とは、自分がここにいるという思いがあるからこそのものなのです。実際、自我に目覚める以前の幼児には、心理的な死への恐怖はありません。

自分という人物が実在のものではないと気づいたとき、本当の意味で死から開放されます。私たちの本質は、元々生まれてもいないのですから、死ぬこともありません。

死の恐怖は、自分という個人がここにいるという思考の中にしかないものです。今この瞬間でも、自我という思考が停止しさえすれば、恐怖は消え去ります。

つまり、自分がここにいるという想いも、その自分の死に対する恐怖も、どちらも思考によってでっちあげられた実在しないものです。

今この瞬間、私たちが思考を使って忙しく活動しているそのバックに、常に在り続けているもの、それは人間という個人の生き死にとは次元の異なるものです。

ただ在るというこの感覚は、思考を越えた表現不能の領域であり、そこはたとえ肉体が滅びた後でも、今この瞬間と同じままなのです。

私たちは、恐怖から逃れようとして思考を使うように仕向けられてしまったので、ますます恐怖がつのり、結局恐怖から開放されることがないのです。

逃げようとせずに、ただただここにあってただ在るという純粋な気づきへ意識をむけていれば、思考を越えた真実こそが私たちの本質であり、そこに恐怖は入る余地がないと気づくのです。

真の救いに気づくとき

ほとんどの人々が、安心、安全を手に入れようと頑張っています。それは、勿論心の中に恐怖や不安があるからです。

そうしたネガティブな感情から逃れたくて、安心を求めて日々暮らしているわけです。そのときに使われるのが、幼いときに作り上げられた自己防衛システムです。

それはひと時の安心を得るためには効果があるのは事実です。けれども、その逆に人生レベルではいつまでたっても救われることはありません。

誰かに勝っても、好きな人と一緒にいられても、お金持ちになっても、明日はどうなるのか誰にも分からないし、必ず変化するのがこの世の常です。

事業が成功しても明日は倒産するかもしれないし、愛しい人との別離がやってくるかもしれませんし、病気で苦しむことになる可能性もあるのです。

本当の救いとはどんなものでしょうか?実は、個人としてのこの自分が人生の主役としているかぎりは、残念ながら真の救いは決してやってきてはくれません。

救われるべきこの自分がいないと分かったとき、本当の救いがくるのです。あなたの周りで起きているどんな事柄とも関わりありません。

あなたの内面でこのことの気づきがやってきたとき、やっと真の救いの意味が分かることになるはずです。

それはあまりにもあっけない気づきであると同時に、壮大過ぎてたとえようのないものです。なぜなら、それは安心を得る自己がいないという気づきだからです。

それでも、人間としての自分はこの肉体をもって、まるでこの人生を生きていくように見えるのですから、不思議なものですね。

「このくらい大丈夫」って言ってませんか?

もうかなり昔のことですが、電車通勤していた車中で相当に具合悪そうな女性がいたのですが、近くにいた若い男性が「大丈夫ですか?」を連発していました。

傍から見ていてもすぐに大丈夫じゃないだろうと分かるのに、その男性は女性が答えずにいたからなのか、何度も具合を聞くのです。

座席に腰掛けていた男性の一人がそれに気づいて、黙って席を譲ってくれたのでよかったのですが、大丈夫ではないときには答えることもできないことぐらい分かりそうなもんですよね。

私たちは、日常的に何か具合が悪かったり、どこかを痛めてしまったときにも、「大丈夫です」というようなことを言う習慣ができています。

本当に大丈夫じゃないときには上のエピソードの女性のように言葉が出なくなるでしょうが、かなりキツイ状態であっても「大丈夫」と言ってしまうのです。

それは周りに対する気遣いなのか、大丈夫じゃないと思われるのがイヤなのか、物事を丸く治めたいのか、とにかく平気なふりをしようとします。

子供のころに弱虫とはやし立てられた悲しい経験がある人は、そんなことには負けまいとして強がるクセができてしまっているのかもしれません。

実は、対外的にどう表現するかは別として、また大丈夫かどうかよりも、ただその瞬間の具合をそのままに、あるがままに感じることが絶対的に必要なのです。

理不尽な目に遭ったときに、「このくらい大丈夫」とやる前に、少しの時間でいいので自分の心からあがってくるあらゆる反応に身を委ねるのです。

要するに、我慢しようとしてしまう前に、我慢せずにいる時間を作って欲しいのです。心的反応、肉体的な反応を丸ごと感じることができたなら、その後は泣こうが叫ぼうが、周りに助けを求めようが忍耐しようが、それこそ大丈夫なのです。