幼い応対が出てくる時

普段私たちは、大人として社会的で冷静な対応をすることができますね。少々困ったことがあっても、ある程度はそれを落ち着いて処理できるのです。

ところが、その理性的な反応ができなくなってしまう事例というのもあるのです。その時には、インナーチャイルドに乗っ取られている時なのです。

以前、オフィスの固定電話があるときに、もちろんその番号はホームページに掲載していたので、時々問い合わせの電話がかかってくることがあったのです。

あるとき、電話に出てみると、ものすごく高飛車な態度の女性から、それもかなりの上から見下ろすような言葉で、機関銃のような質問がやってきたのです。

不意を突かれてドギマギしている間にも、次から次へとあれはどうなんだ、これはどうなってるんだと追求されてしまったのです。

そのうち、私の応対の態度がびく付いているなと察したのか、もういいわ、と言って電話は切られてしまったのです。

その後冷静になって、自分の応対がひどく怯えた子供のようだったことを思い出し、ああかなり小さい頃の自分に乗っ取られていたんだなと理解できたのです。

きっと4歳年上の姉にそんな感じで詰問されて、タジタジになっていた頃の自分になってしまっていたのですね。

皆さんにも似たような経験があるのではないでしょうか?もしもそうしたことが頻発するようであれば、セラピーを受けてみてもいいかもしれないですね。

人と同じじゃなくていい

8月11日(水)が山の日という休日だということを知らずに、それが今年だけオリンピックの閉会式の8月8日(日)になったということも知らず。

そして、8月9日(月)がその振替休日になったことも全て知らずに、今日もグズグズの毎日を送っています。

今年はどういうわけか、オリンピックをほとんど見ずに過ごして、閉会式の直前にテレビでやっていた総集編みたいな番組を見て、全部観た気になった私です。

前回の東京オリンピックは1964年だったので、今から57年前のことです。皆さんの多くはきっと知らないでしょうね。

あの当時小学生だった私は、習い事のために外に出た時に、大空に5輪のマークが描かれているのを見て感動したのです。

そういえば、男子マラソンで日本の円谷選手が銅メダルを獲ったのですが、最後トラックを一周する姿がとても辛そうでした。

ちなみに金メダルはエチオピアのアベベ選手。彼は、ゴールしたあと余裕で屈伸運動をしていたのを覚えています。

あの頃の自分がどんな気持ちで競技を見ていたのか、それほどは覚えていないのですが、でも総じて真面目に観戦していたと思います。

あの当時は国民全体がそうだったのか分かりませんが、今の私のように全然観ないで過ごすような人はほとんどいなかったはずです。

それを考えると、人と同じように生きなくてもいいんだということが分かって、それだけでも自由になれたのかも知れないと思います。

ダイレクト感を取り戻す

何歳の頃だったのかは定かではないのですが、きっと小学校の低学年の頃だったと思うのですが、ある日自分の周囲にうっすらとした膜がかかったような感じになったのです。

このことは以前このブログで書いたこともあったのですが、今その理由が分かったかもしれないと思っています。

膜がかかったような感覚というのは、外の世界との間に薄い隔たりのようなものができて、ダイレクト感が失われたということです。

きっと自我の発達と共に、自分は頭の中にいて二つの目を通して外の世界を見ているという感覚が優位になってしまったのでしょう。

身体(頭)という鎧の窓(目)からしか外を見ることができなくなってしまったということです。間接的な眺めになってしまったのだと。

それまでは、自分の居場所が頭の中だとは感じておらず、あるがままの自分が正直に外の世界に接していたのです。

この感覚の違いを当時の自分は肌で感じていたのではないかと思うのです。そうだとすると、これは元に戻せるかもしれません。

実際、頭のあるべき場所から提示されているものをただ眺めるとき、あの幼い頃のダイレクト感が若干戻ってくれているような感じもします。

あとは練習あるのみです。もしも似たような感覚を持っている人がいたら、同じことを試してみることをお勧めします。

一人称は非存在

よく、常識に縛られずに柔軟な考え方をしろ!と言った言葉を聞くと思うのですが、今日はそんな話しです。

私自身は、もちろん常識人としてのごく普通の感性で生きているという面があるのと同時に、割と常識に捉われずに生きているなあと思っていたのです。

ところが、最近めちゃくちゃ常識とか、当たり前と思われるようなことに縛られていたということを発見したのです。

昨日のブログの続きのようになってしまいますが、「一人称は存在できない」ということを発見してしまったのです。

これは、私たちの常識とはかけ離れたことを言っているように思われるのですが、実はそのカラクリを次のように説明できるのです。

私たちは自分のことを一人称として自覚していますし、その自分はレッキとした1人の人間として「存在」していると思っています。

ここにはとても致命的な落とし穴が隠されています。私たちの自覚というのは、ほんの少し自分自身の中心から距離があるのです。

だから存在できるのです。つまりは、清廉潔癖な一人称ではなかったということです。一人称ですから、どんな距離もあってはなりません。

その距離がどれほどのものかは測ることは難しいのですが、それでも自分の中心ではなかったのです。それが自我ですね。

そして私たちが自分を内省するとき、つまりこれが自分だと内面を見るときには、その距離の外側までしか見てはいないのです。

それよりも先の中心にまで意識を向けられたら、その時にはいきなり個人という存在は消えて、無もしくは全体性と呼ばれる非存在を見ることになるのです。

「一人称は存在できない」という意味は、一人称は非存在としてあらゆる存在を支えているということです。

それが私の本質であり、あなたの本質でもあるということですね。

新鮮な気づき

生きる目的は人によって様々だと思うのですが、私の場合は「自分の本質とは何か?」に気づくこと以外にはないなあと思っています。

多くの人にとって、自分とは肉体を持った1人の人間(個人)であると信じているわけですが、それは単に自我のことを自分だと思い込んでいるのだと。

だとすれば、自我の正体を見破ることができれば、自ずと自分の本当の姿が見えてくるはずという理屈になります。

何らかの修行を積むなりして、自我が崩壊してくれれば覚醒して、自分の本質に戻ることになり、その後はブッダや osho のようになるのだと思っていました。

もちろん今でもそれは変わらないのですが、その見方というのはあくまでも他者目線でしかなかったということに最近気付いたのです。

あくまでも一人称で見た場合、自我がどうのこうのと言う前に、そもそも今までに一度たりとも自分を生で見たことがなかったと気付いたのです。

他人を見るように、自分を見つけられた試しがないのです。鏡に映った姿や写真などはあくまでも偽物です。

本物の自分はと言うと、やはり見ることはできないのです。知覚することが存在を起こすという現代物理学の理論からすれば、知覚の対象とは成り得ない自分はやはり存在しないのです。

一人称の立場からすれば、自分が見ている世界には自分は存在しないのです。これは自我の問題とはまるで別の話です。

これまで自我にばかり目が奪われていたので、この新発見は自分としてはとても新鮮なのですが、皆さんはいかがでしょうか?

矢印を内向きにして見る

人間というものを真正面からしっかり見ると、私達が生きる原動力は「不満」からやって来ることがハッキリと分かるのです。

不満があるからこそ「満たされたい」という欲求が生まれるのです。そしてその欲望が生きる活力を与えてくれるのです。

したがって原理的に明らかなのは、満たされることを目的として生きているにもかかわらず、万が一にも満たされてしまったなら、生きる原動力を失ってしまうのです。

それはシンプルに死を意味することになるので、私たちは決して満たされることはないのです。まずはこの当たり前の原理から目を背けないこと。

その上でこうした悪ふざけのようなジレンマから脱出するにはどうしたらいいのかを検討する必要があるのです。

そこで発想の大転換をするのです。つまり、「完全なる自己喪失こそが、完全なる自己充足を発見する」唯一の方法だと気づくこと。

自分(自我)を失うとは、自分は思考による作り物だと見抜くことであり、そのためには思考に邪魔されて隠されてきた本当の自分に気づくこと。

自分の本当の姿を見ることで、頑固な自我もいずれはひとりでに消失して行くことになるはずです。

そのためにも自分の本性を見る継続的な練習が必要となるのですね。ただし練習方法は至ってシンプル。

外の世界を見てる時、見る方向を180度変えて見るのです。その時こちら側に見えているものとは何でしょう?

外側に向かって見ていたものとそっくり同じものがこちら側にあることがわかります。それこそがあなたの本当の姿なのです。

そこには何処を探しても個人としてのあなたを見つけ出すことができないはずですので、是非試して見てください。

自我から戻ってくる

誰でも今よりももっと幸せになりたいと願っているのですが、そもそもどうしたら幸せになれるのか、どうやったら満たされるのかは本当のところ曖昧なのです。

願いが叶ったら満たされる、好きな人と一緒にいられたら幸せになれる、この程度のことなら分かるのですが、そう言った類のことはどれも一過性のものでしかないのです。

私たちが本当に求めているものは、一過性のものなどではなくてずっと永続することが保証されている満足感なのです。

だとしたら、そんなものはこの世界では達成できるはずはありません。この世界そのものが一過性のもので作られているからです。

じゃあどうしたらいいのかということになるのですが、まずは一度諦めることです。自我として生きている限りは、永続的に満たされることは不可能だと認めることです。

そこでようやく、これまで見たことがなかった自我としての自分ではない、本当の自分を探究することが始まるのです。

自我は決して満たされることはないということ。満たされたら最後、自我は溶けて消えていくからです。

代わりにオリジナルの自分を探求するのです。本当のあなたは、如何なる時でもあなたの眼前に提示されています。

あなたが毎日生きている人生というのは、自我のものです。本当のあなたのものではありません。

本当のあなたは、ただそれを見ているだけ。そこには存在がないので、空間も時間も意味をなしません。

だとしたら、生まれることも消えることもなく、ただ永遠に存在を包含している唯一のものということになります。

自我を救うことはできないのですが、自我から戻ってくることは本当はいつでもできるということですね。

距離が消えたとき

小学生の頃、図工の時間があまり得意ではありませんでした。決められた時間内に粘土でお面を作ったり、外に出て写生したりが面倒だったのです。

もちろんそういった制作過程を楽しめる人にとっては、他の教科よりも嬉しい時間なのでしょうけれど、私は逆でした。

画用紙に絵の具を塗っていく作業をしているとき、この画用紙を全部絵の具で塗って、白い部分を無くさなければと思って、うんざりしてたことを覚えています。

そのことが若干のトラウマになっていたのか、大人になってぼーっと外の景色を眺めているときに、ふと思い出すのです。

あれ、どの景色を見ても塗り損ねた白い部分がないなと。随分と熱心にこの景色を塗り込んでいる誰かがいるんだなあと。

もちろん馬鹿馬鹿しい考えなので、ほとんど真に受けることはないのですが、それでもどこかで感心しているのです。

さらにそのままじーっと眺めていると、そのうちに距離感が壊れてきて、全てが本当に絵のように見えてくるのです。

眼球を動かしてしまうと、元の状態に戻ってしまうのですが、しばらくまた動かさずにいると、景色は一枚の絵になるのです。もちろん距離はなし。

ただ眺める自分にとって、距離というのは意味がないのだと分かるのです。そして外側の世界から距離が消えたとき、全体性がやってくるのです。

インナーチャイルドの仕業

心の癒しをするようになって、初めてインナーチャイルドと呼ばれる、不満を抱えた子供時代の自分が内側にいることを知ったのです。

それまでは大人の自分だけが自分として生きていると単純に思い込んでいたので、なるほどと思ったものです。

それで自分のことも他人のことも、腑に落ちることが沢山あるなあと分かるようになったのです。

例えば、夏の時期になると台所などに出没する黒い生き物がいますが、あれを異常に怖がる女性が沢山いますね。

黒い物の名前を直接書かないのも、この文章を読めなくなる人への配慮からです。ただ気持ち悪いくらいならまだしも、殺されるかもくらいの怯えた反応をしてしまうのです。

そうした異常な反応は、本人のインナーチャイルドが怖がっていると考えれば、納得することができるのです。

幼い頃に、親などの家族が怖がっていれば、その恐怖を丸ごと受け継いでしまうのです。逆にその経験が全くなければ、恐れないはずなのです。

北海道出身の人は、幼い頃にそうした経験がないので、大人になってから遭遇してもまず大丈夫なのです。インナーチャイルドが反応しないからですね。

誰であれ、理性では考えられないような言動をしてしまうときには、まず間違いなくインナーチャイルドの仕業だと思えばいいのです。

そのカラクリさえ理解してしまえば、無闇に自己否定することもなくなるし、他人を白い目で見て、安易に否定することもなくなるはずですね。

思い込みを外して素直に見る

自分以外の人がどのように感じているのかは分かりませんが、私の場合は自分は頭の中心あたりにいて、二つの目を通して外を見ていると感じるのです。

その感覚は自我のものですね。個人として生きている自我としては、それが一番都合の良い解釈だからです。

その一方で、自分本体が本当のところどこにいるのかは、やっぱり皆目分からないままなのです。

その自己矛盾をそのままにして生きているわけですが、それを解決してくれた本があったのです。

その本によると、私が頭の中心と思っていた場所を、どんな先入観もなしにしっかり見るようにと、促してくれたのです。

そこで見えたものとは、その場所には頭どころか私などの片鱗もない、全くの透明で形のない、いわゆる無が広がっていたのです。

しかもその何もなさの中には、自分の前方に広がっていると思い込んでいたものが、入っていたのです。

つまり、自我が自分の外側に広がっているように見ていたこの世界が、そのまますっぽりと頭の部分の中に包含されていたということです。

思い込みを全て一旦外した状態で、素直な気持ちでこの実験を繰り返してみれば、きっと誰もが同じような体験をするはずです。