信念はゴミ箱へ

この社会では信念も持っている人の方が立派とされています。確かに、何かコトを成そうとしたら、固い信念があったほうが有利な気がします。

けれども、信念と言うのは所詮は思考であって、それも正しさと頑なさに包まれた厄介なものです。

信念を持っていると、その裏側にはいつも不信の念があるのです。それは当然のことで、その信念に反するものに対しては全て不信の念が起こるのです。

信頼がどんな形の容器にもすぐに入っていける水のようだとすれば、信念はゴツゴツとした岩のようなもの。

当たると痛いし、近くにあると常に異物感があるのです。水のような柔軟性、従順さは微塵も感じられません。

不信に対して類似語としては疑いという言葉があるのですが、この二つは似て非なるものなのです。

信念の裏返しとしての不信感に対して、疑いというのはとても純粋なものです。幼児がなぜ?を連発するあれですね。

信じてしまうと疑いはやって来なくなってしまいます。素朴で純粋な疑いを持ち続けている人は瑞々しい感性を持っている人かもしれませんね。

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