ただ見ることの難しさ

私たちにとって、ただ見るということがとても難しい理由は、自我が見ていると思い込んでいるからなのです。

自我はただ見ることが出来ないのです。自我は思考(言葉)で出来ているので、見たものを好きなように変えてしまうのです。

例えば、向こうから身長170cmくらいの男性が歩いてくるのを見て、近づいて来るにつれてその姿は大きく見えるのです。

けれどもその人の身長は170cmであり続けるように補正するのです。逆に遠ざかって豆粒くらいになっても、170cmの人として見るのです。

こうした補正は自我が自動的にやっていることなのです。もしも自分の中心から、自分の本質から見るならどうなるか?

そこにはどんな思考も感情も何もないので、その人の姿が大きくなったり、小さくなっていくのをただ見ることになるのです。

本質から見ると、過去や未来が混入してくることもないし、そこに遠近法も介在することがありません。不思議な世界が展開されているのです。

もしもあなたが散歩をしているなら、あなたの自我は「私が歩いている」姿を見るでしょう。では本質はその時何を見るのか?

左右の足が忙しく動いていて、周囲の景色がゆっくりと後方へ向かって移動するのを見ることになるのです。

幼な子が飛び跳ねたり、クルクル回っていつまでもケラケラ笑い続けるのは、周囲の景色がとんでもない動きをするさまを純粋な目で見ているからです。

それを面白がれるのは、その子に自我がでっち上げられるまでの短い間だけのことなのですね、残念ながら。

もうお分かりのことと思いますが、自我に見たままをただそのままに見ることは不可能なことなのです。

そこを改善しようとするのではなく、自我が見る代わりに本質が見ていることに気づくこと。その結果は、ただあるがままを見ることになるのですね。

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