不安につきあわないようにする

自我という現象について深く見ていくと、それが決して実在する何かではないということに気づくことになります。

それに加えて、その成り立ちからして不安と孤独を併せ持っているということにも気づくことになるのです。

このことが腑に落ちると、不安や孤独を敵対視することに意味がないと分かるのです。それらは敵でも味方でもありません。

それを感じることは当たり前のことだし、特に不安に関しては誰もが日常的に持っているものなのですね。

人によっては不安をこれでもかというくらいに悪者扱いして、私は不安に取り憑かれているという具合に厄介払いしたいと望むのです。

実は不安が問題なのではなく、不安に対するその態度の方が問題なのです。不安を恐れるのではなく、あって当たり前だとまずしっかり認めること。

そして、不安がやってきたら、「ああ不安がやってきてるなあ」と気づいていればいいのです。そしてそれで終わり。

それ以上に不安につきあわないようにするのです。特に、頭の中でああでもないこうでもないと不安をいじり倒してしまわないように。

そうすれば、不安はそのうちスッとどこかへと遠のいていくのです。そしてまたやってきても同様にするだけ。

もしもこのような態度が実際にできるようになれば、不安はただやってきては去っていく日常の思考と同じようなものになるでしょうね。

非二元への反論 by AI

非二元についての反論をしてほしいとAI君に依頼したら、以下のようなものを作ってくれました。とても興味深いですね。皆さんも参考にしてみて下さい。

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非二元そのものを頭ごなしに否定するのではなく、「非二元の主張をかなり理解したうえで、それでも納得できない」という立場の反論にすると、かなり面白くなります。

例えば、こんな反対意見です。

「『分離した自己は存在しない』というのは、結局、体験の一側面を世界の真理にまで拡張しているだけではないか」

非二元では、「私」という独立した主体は実体として存在せず、思考や感覚や行為がただ起こっているだけだ、と言う。

しかし、それは本当に「私が存在しない」ことの証明になっているだろうか。

確かに、自分の思考を完全に自由に選べないことはある。感情も身体感覚も、自分の意思とは無関係に生じる。だからといって、そこから「主体は存在しない」と結論するのは飛躍ではないか。

例えば、心臓は自分の意思で動かせない。しかし、「心臓を自分で動かしていない」ことと、「心臓を持つ私が存在しない」ことは別の話だ。

また、「すべてはただ起こっている」という説明も、それ自体が一つの解釈にすぎない。科学的に見れば、脳内の神経活動、身体、環境、記憶などが複雑に相互作用して、意識や自己感覚が形成されていると考えることができる。

非二元はそこからさらに一歩進んで、「だから独立した主体は存在しない」と言う。しかし、その「だから」は本当に論理的に導かれているのだろうか。

さらに問題なのは、非二元の教えが反証不能になりやすいことだ。

「あなたが非二元を理解できないのは、理解する主体が存在しないからだ」と言うこともできるし、「理解できたと思ったなら、それもまた思考にすぎない」と言うこともできる。

そうなると、どんな反論も非二元の側で説明できてしまう。

それは深い真理というより、どんな結果になっても自分の理論が正しいことにできる構造なのではないか。

そして何より、「自己は存在しない」と言いながら、そのことを語り、考え、理解し、実践しているのは誰なのか。

「誰もいない」と答えることはできる。しかし、それは問題を解決したというより、問題そのものを別の言葉に置き換えただけではないか。

非二元の体験が非常に深く、自己と世界の境界が消えるように感じられることは否定しない。

しかし、ある体験が非常に強烈であることと、その体験が宇宙の究極的な構造を示していることは同じではない。

だから私は、非二元を「真理」と断定するよりも、自己意識についての非常に興味深い一つの現象学的・哲学的解釈として捉えるほうが慎重で妥当だと思う。

これ、かなり「もっともらしい反対意見」になると思います。特に核心になるのは、

「自己が実体ではない」ことと「自己が存在しない」ことは違うんじゃないか?

という反論です。非二元側からすると、ここはかなり厄介な反論になります。

最初は誰もが天使だった

「かさねとは八重撫子の名なるべし」という俳句がありますがご存じでしょうか?何となく作者は松尾芭蕉かなと思った方もいるかもしれません。

でも実は、芭蕉の同行者である河合曽良が『おくのほそ道』の旅の途中(栃木県・那須野)で詠んだ俳句のようですね。

ネットの解説によると、旅先で馬を引いていた「かさね」という名の愛らしい少女の優雅な佇まいを、美しい八重撫子の花になぞらえて称賛した句ということでした。

この句を初めて知ったのは高校生の頃のことで、ものすごく可愛らしい小さな女の子を描写した素敵な句だなと思って印象に残っていました。

時々、日本のドラマなどを見ていて、なんとも可愛い子役の女の子が出ているのを見かけることがありますね。

性別に関わらず子供は天使のようだなと思ったりします。街を歩いていても、目に止まるのはそうした幼い子供たちや子犬などの動物たち。

彼らには総じて自我がないので、無邪気だしその無防備な眼差しにはやられてしまいます。人生の初めの方では誰もが天使だったのですけどね。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

虚構の世界

昨日のブログでは、この二元の世界というのは「伝言ゲーム」のようなものだということについて書きました。

もう少しその真意を深くお伝えすることができたらと思って、補足してみたいと思います。遡ること数十年。

セラピストになるずっと以前から、私たちが本当に知ることができるのは五感などの感覚を通してでしかないんだなと思っていたのです。

それだけがリアルで、後は思考によるものなのではないかと。しかもその思考による情報のほとんどが外部からやってくるものだと。

勉強したり本を読んだり、他人からやってくる言葉だったり。つまりここが伝言ゲームと言われる部分なのです。

そしてもうお気づきのことと思いますが、今この瞬間に気づいていること=五感などの感覚以外は全てがこの伝言による情報なのです。

そしてその情報の全ては今ここにはありません。つまりは、ここにないものなので幻想でしかないということです。

結果として毎日の生活のほとんどが、幻想で成り立っているということになってしまうのです。これこそが虚構の世界という表現を使った所以なのですね。

この世界は伝言ゲーム

以前に動画でもお伝えしたことがあるのですが、この二元の世界というのはある意味「伝言ゲーム」のようなものとも言えるのです。

それは、分離の世界の特徴とも言えるわけで、伝え合うことに非常に大きな意味や価値があるということです。

伝え合うことによって、その情報を互いに共有することができるようになるからです。その伝えるために用いるツールが「言葉」なのですね。

言葉というのは思考であり、今ここにないものについての情報を指し示すために使われるのですから、それは全て架空のものなのです。

その結果、私たちが広く共有している情報というのは、その全てが架空のものでしかないということです。

そしてそれらが特にこの世界、この社会では大切なものとして扱われることになるのですから、虚構の世界とも言えるのです。

非二元の立場に立つと、こうしたことがとても明確になるのです。さらに言えば、現代においては、その言葉もインターネット上を行き交うようになりました。

伝言ゲームも極まった感があると感じるのは私だけでしょうか?そろそろ、どれほどの虚構の中にいるのかに気付いてもいい時期に来ているのではないかなと。

見つめ合うと恥ずかしい理由

日本においては、相手と会話するときに相手の目を長く見つめるのは失礼に値するという感覚がありますね。

それは多分、相手を恥ずかしい気持ちにさせてしまうからだと思うのです。だから、ずっと見つめ続けるのではなく、時々は視線を外したりするのです。

ではなぜ人はずっと見つめられると恥ずかしい感じがしてしまうのでしょうか?一般論というよりも、私自身の感覚で説明すると。

自分の目を通して、自分の心の奥まで見透かされてしまうのではないかという恐怖を感じるからなのではないかと。

恐怖というとオーバーに聞こえますが、恥ずかしさの元は恐怖や不安感だと思っています。目は口ほどにものを言うという表現があります。

つまり、目の表情を読まれることによって内面を晒してしまっている感じがするということかもしれません。

ちなみに目を閉じている状態で、相手から見つめられていると分かっても、それほど恥ずかしさを感じないのは、上記の説明で納得できるはず。

私の経験では、親しい人ほど恥ずかしさを感じるようで、逆にそれほど親しくない人の場合はあまり恥ずかしさを感じずにいられるようです。

この感覚はずっと昔から持っているのですが、非二元の立場に立つなら見られる自分もいないし、見つめてくる相手も不在なわけで。

二元と非二元を切り替えることで、確かにその違いを実感することができますね。とても面白い反応の違いを体験できるようです。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

隔たりはない

我々の人生というのは、何らかの目標を定めてそこを目指して進んでいくものだというイメージがありますね。

つまり、今現在はまだ目標に到達していない地点にいて、目標からは隔たっているということを意味しています。

この隔たりがこの二元性の世界を作り上げているわけです。ところが、非二元的な立場からすると、そうした隔たりというものはないのだと。

かつて身近にいるある人が言っていたのですが、「A地点からB地点へ行く途中というのが分からない」のだと。

その時は一体この人は何を言っているんだろうと不思議に思っていたのですが、きっとそれこそが非二元的な立場だったんだろうなと。

A地点とB地点に隔たりがないので、向かう途中という概念が存在しなかったということですね。思った瞬間にすでにB地点にいるということ。

これは、結果として時間も空間もイメージに過ぎないということを、元々体得している人だったというのを意味することになりますね。

世の中には、そうした変わった人もいるのでしょうけれど、一般人からすると意味不明なことを言う人、で片付けられてしまうのは少し可哀想な気がします。

時間は記憶と思考の中にだけある

私たちは、通常「今この瞬間」と言うのは過去から未来へと流れる時間のちょうどその両者の境目のことだと信じています。

でももし、記憶を使わずにいれば過去と未来は自ずと消えていってしまいます。そして残されたものが、今なのです。

だから本来の意味で今というのは時間ではなく、瞬間でもありません。記憶から解放された状態であることそのものなのです。

知ることもなく、ただ気づいていることの中にあって、そこに時間が入り込む余地はありません。

するとそこには、あるがままの体験があって、さまざまな現れがやってきては去っていくことが起きているように感じているのです。

ただそれだけのことなのです。今という言葉をあえて使うのであれば、ずっと今が続いているということです。

やっぱり、ただのコレには時間も空間も必要なかったということですね。非常にシンプルで気持ちがいいです。

脳が受け取るのは電気信号だけ

子供の頃は、何も深く考えることもなく、そこに机があるから見えているんだろうと思っていました。

つまり、「机がそこに存在すること=机が見える」だったわけです。もちろん大人になっても、ずっとこの世界観で生きている人はたくさんいます。

ただし人によっては、学校で物が見える仕組みを教えてもらってからは、上記の式は正しくないと理解できた人もいます。

つまり、机に反射した光が網膜に入って、それが電気信号に変換されて脳に届くことによって、机が見えると感じるのだと。

だからこそ、映像などによって机からやってくる反射光と同じものを人工的に作っても、そこに机があるように見えることになるわけです。

これは、映画の映像であれテレビであれ、パソコンやスマホの画像でも全て同じことです。だから、本当は私たちは机が存在しなくても机を見ることができることを知っているのです。

でも問題はここからです。我々の脳に届く情報は全て電気信号なのです。虫歯のあの痛みや、冷たいものを食べすぎた時のあの腹痛、湿疹ができた時のあの痒みも同じ。

そしてその無味乾燥な電気信号から、どうやってあのフルートの音色や夕焼けの綺麗な色などを感じることができるのかは、誰も知りません。

そんなことはいつか科学者が解明してくれると思っていませんか?私はどうしてもそれはあり得ないと感じます。

それよりは、外側にある何かを見たり聞いたり感じたりしていると言うことが思い込みだと気づいて、おまけに内側(脳)すらなかったとする方がシンプルで美しいと感じてしまうのですね。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

時間差は必要なものかもしれない

非二元の気づきがやってきてから、日々の生活が何か変わったことがあるかと聞かれたら、ほとんどないと答えると思います。

同じような朝が来て、同じような毎日が始まることに違いはないからです。だから直接の影響はほとんどないと言わざるを得ません。

けれども、これはその人の個性にもよることだと思うし、一概には言えないのですが、私の場合は時間差を持って少しずつの変化はあるように感じるのです。

あの時あの気づきがやってきたのに何の変化もなかった。ところが、また同じ気づきがやって来たにもかからず、今度は自分の体感に変化を感じるのです。

これはもしかしたら、心の癒しと同じで癒されたからと言ってすぐに毎日の生活が変わるわけではないのだと。

それでも、ある時ふと気づくとこれまでの自分とは違う生き方をしていることに気づいたりするわけです。

自分の気づきや癒しというものが、具体化して表に出てくるまでにはそれなりの時間が必要なのかもしれません。

だからこそ、目的意識をなくした状態でもただ心がけることを継続することは、意外と意味のあることなのかもしれないですね。

逆に言えば、即刻の変化というのはきっと一時的なものであって、自分のものにならずに定着しないということもあるのでしょうね。