どんな心の反応も楽しむ

私たちは、子供の頃からずっとどうやったら自分は安全で安心していられるのかということを気にかけています。勿論時には、それ以外の興味あることが重要視されることもあります。

たとえば行ったことのない遠くの街へ冒険しにいくとか、肝試しをしてみるとか、クルマのスピードを出してスリルを味わってみるなど、いろいろあるかもしれません。

けれども、それは一時のことであって、落ち着いた気持ちに戻ったときには、やはりどうやったら身の安全を確保できるのか、どうしたら心が傷つかずにいられるのかに意識が向かうのです。

実は、私たちが抱える苦しみのほとんどは、それが原因だと言ってもいいのです。なぜなら、そうした欲求は必ず満たされないときを迎えてしまうからです。

つまり、安全ではないと感じる環境に身を置かざるを得ない場面がやってきたり、誰かに否定されたり無視されたりして、惨めな思いと共に心を傷つけられることも起きるからです。

自分にとって好ましくないと感じることがやってくるのは、決して避けることのできないことだと認めることです。誰かが苦行の末に悟りを開いたとしても、その人にも同じように嫌なことはやってくるのです。

ただし、自分の心の反応を変えることはできるのです。例えば、自分が常々欲しいと願っているものを、もうすでに易々と手に入れている人が目の前にいるとします。

その時にどのような反応をするかは、本当に人によって様々でしょう。正直に羨望(あるいは嫉妬)の気持ちになるのか、あるいは見ないふりをするのか…。

それとも、どんな反応をするにしても、そうした自分を受け止める状態の心の部分を持っているのか。実は、これは反応そのものを変えるよりも画期的です。

なぜなら、自分の反応を楽しむ心の余裕ができるからです。そうなると、ごく自然にどんな反応をする自分のことも苦にならなくなるのです。

宇宙は壮大な物語

赤ちゃんの心は無防備で純粋ではあるのですが、意識が曖昧で混沌としていてまだ未熟なのです。それは、人間以外の動物と何ら違いがありません。

動物は、成長してそれなりに賢くなってはいきますが、基本的にはこの意識レベルのまま生きて、死んでいくのです。動物には、自我が生まれることはないと言ってもいいのです。

仮にあったとしても、非常に未熟な自我に過ぎません。それに比べて、人間だけが自分がここにいるという自覚を持つことができるように成長するのです。

周りの親などからの洗脳を毎日シャワーのように浴びることで、肉体を持った自分がここにいるということを思いつくのです。それが自我の始まりです。

自我の発達は言葉の発達と同じものであると言っても過言ではありません。言葉は思考であり、思考によって自分という自覚がより鮮明なものになっていくのです。

そうなると、もう赤ちゃんのような混沌とした意識の状態ではありません。立派な人間の出来上がりです。こうして成長した私たちは、大人への道を進んでいくのです。

さて、これで心の発達は終わりかというと、まだ先があるのです。自分がここにいるという思いつきは、ほとんど奇跡のようなものですが、その先はもっと奇跡的です。

それは、すべてを包み込む自分の本質への気づきです。この気づきを知らずに、人生を終えていく人も大勢いるのですが、それが未熟であるということではありません。

本質への気づきとは、実は成長ではないからです。世間でよく言われている「魂の成長」のようなものとは、まったく異なる次元の話しなのです。

自我のない赤ちゃんには気づけないことなので、脳の発達と自我の発達は必須なのですが、それはある程度で構わないのです。

よほど特別の障害などのあるケースを除けば、気づいていない人はいないのです。ただ、気づいていることに気づいていないだけ、なのです。

本質に気づいても人生はそのまま続くのですが、自分の人生やこの世界、宇宙自体が壮大な物語のように見えるようになるのは、興味深いことですね。

ルールからはずれる小気味よさ

今週末の東京は、何と今年二度目の大雪で、仕方なく朝から重い腰をあげて雪かきをしました。その後雨になって雪が解けてくれることを願っていたのですが、結局クルマは使えずにバスで事務所へ。

仕事が終わって吉祥寺の駅前からバスに乗ろうとしたら、待ち行列がヘビのようにとぐろを巻いているようで、どこに並べばいいのか分からず、イラッときてエ~イ徒歩で帰ってやれ!とばかりに決意したのでした。

我ながら、こんな大雪の歩きづらい日に自宅まで歩くなんて、きっとちょっと無謀なのだろうなとは思ったのですが、何とも行列に並ぶことの苦手さがそうさせたのでしょう。

結局、徒歩で帰る決意は正解でした。ちょうど魚河岸のおじさんのようなスタイルの昔懐かしいゴム長靴を履いていたので、足元は全く怖くなかったし。

雪のせいでクルマの通行量が少なくて、車道にできたタイヤのわだち部分を歩くのが気分よかったのです。たまにやってくるクルマの運転マナーも人によって違いがあるのですね。

あまり減速せずに多少のはねを飛ばしていくお行儀の悪い人もいるかと思えば、しっかり減速してくれる親切な人もいて、その場合は気持ちが温かくなりました。

毎日クルマで走っている道なのに、雪道だからということもあるかもしれませんが、歩きということもあって、いつもとは違う景色に感じられて、とても新鮮な体験でした。

私としては、夜の雪道を長靴で一時間を越えて歩くというのは、ある種の冒険の匂いもして、子供っぽい自分がルールからはずれる心地よさを味わっていたのだと思います。

ルールは悪者ではないのですが、それに縛られてしまう毎日が続くと、悪戯心も消えてつまらない大人になってしまうようで、悲しいですね。

無難でつつがない毎日も悪くはないですが、たまにはちょっとした冒険心も使って生きていけるといいですね。

何であれ味わいきること

小学生の頃、ある時期だけですが紙飛行機を折って飛ばすということが流行ったことがあったのです。といっても、全校レベルではなくて、クラスの自分の周りの友達だけ、しかも男子だけだったと思います。

休み時間になると、飛行機を作っては飛ばして、誰のが一番性能がいいかを競うのです。そのうち、折り方を工夫してみたりしているうちに、それなりに腕が上がって自分でも驚くほどによく飛ぶ飛行機を作れるようになりました。

そんなある日、あり得ないくらいにバランスのいい飛行機を作れたことがあったのです。前後左右のバランスが絶妙だったのでしょうね、風がなくても真っ直ぐに(記憶では)どこまでも飛んだのです。

嬉しくてうれしくて…。ところが、それを周りのみんなに披露する前に、知らない誰かに踏んづけられてしまったのです。慌てて、一生懸命手直ししたのですが、どうやってもそれまでのようには飛ばなくなってしまいました。

その後、何度も同じくらいよく飛ぶ飛行機を作りたくて熱心に作り続けたのですが、どうしてもあれほどの飛行機を折ることは二度とできなかったのです。

もう50年くらい前のことなのに、鮮明に覚えているのですから、きっとすごく残念で悲しかったのだろうと思います。どうも、自分の人生には有頂天になっていると、ドスンと落とされるということが起きるのです。

その落差のダメージはとてもきついと知っているので、嬉しいことがあってもそれほど手放しで喜ぶことを控えておこうというやり方が自然に備わってしまったようなのです。

これも一つの自己防衛の方法なのですね。みなさんにも似たような自己防衛の方法があるのではないでしょうか?自分を傷つけたくないという思いからのことなのですが、今考えると何ともったいない生き方だろうと思うのです。

嬉しいときには、徹底的に悦び、悲しいときには思い切り悲しめばいいのです。傷ついたら、その傷の痛みをしっかりと味わってあげればいいのです。

そうやって次第に防衛が緩んでくれば、その分だけ愛を感じる清々しい毎日を送ることができるようになるのです。是非、貪欲にたくさんのことを味わい感じるようにして欲しいと思います。

セラピストの言葉を鵜呑みにしない

先ほどある映画を観ていたら、ある登場人物が聞き覚えのある言葉を言ったのです。すぐにそれは、デビッドボウイの Space Oddity というヒット曲の歌詞だと思い出しました。

しばらくすると、その曲自体が流れてきて、本当に懐かしくてたまらなくなったのです。高校生の時に好きだった曲が、自分にとっては未だに魅力的なのですね。

デビッドボウイは、出で立ちはちょっと異色で、気持ち悪いのですが、そんなことはどうでもよくなってしまうくらいに、彼が作った曲やそのアレンジが秀逸で、いつも聞き惚れていました。

私にとっては、彼は間違いなく10年に一人出るかどうかの天才だったと思うのです。彼の作品のすばらしさに感動できた自分にとっては、彼がどんな格好をしようが、ゲイだろうが何だろうが一向に構わないのです。

私にとってはいつも作品がすべてで、作者がどんな人でどんな考え方を持っているかなどには、ほとんど興味が湧かないのでした。

ところが、最近それとは真逆のニュースがテレビ番組を賑わせています。クラシック音楽としては異例のヒットを飛ばしたある作曲家が、実はゴーストライターを使っていたというニュースです。

ベートーヴェンと同じ耳の不自由な作曲者という触れ込みで人気が出たらしいのですが、インチキが発覚したとしても、本来ならその作品がすばらしければいいわけです。

けれども、やはり作曲者のプロフィールに話題性があったということなのでしょうか、さまざまな賞などが剥奪されてしまうというのを聞きました。

芸術だけでなく、言葉にしてもそれを誰が言ったのかということに重点が置かれてしまう傾向があるのです。あの著名な人の言葉なら本物に違いないとか、あの名高い高僧の言葉だからありがたく聞こうとか…。

誰の言葉であろうと、それを決して鵜呑みにしないことです。セッションの時のセラピストの言葉であっても同じことが言えます。簡単には信じないことです。

その代わり、興味があると感じたなら、自分の身を使って実践することで、その真偽を確かめることがとても大切なのです。そうでなければ、本当には身に着かないからです。

そんな心づもりで、セッションに臨んでいただけたらとても嬉しいと思っています。

人生のパターンとは

幼いころに繰り返し体験した辛い出来事は、そのままにしておくとその後の人生に多大な影響を与えることになるというお話しです。

幼いころの経験には、嬉しいことや楽しいことがある反面、悲しかったり怖かったりと、つまり思い出したくもない体験というものもあるはずです。

そうした自分にとって都合の悪い体験を繰り返すと、その時の反応として顕われたネガティブな感情が心の中に蓄積されて残ってしまうのです。

その感情のエネルギーが、その後の人生のいたるところで悪さをして、幼いころに似たような体験を引き寄せてしまうのです。それが、人生のパターンと呼ばれるものなのです。

例えば、幼いころに厳しい親の元で育ち、親の正しさの中で規制されながら育ってしまうと、大人になっても抑圧的な環境で過ごすことになってしまうのです。

あるいは、気持ちを分かってもらえずにひどい言葉をかけられた経験があると、学校でイジメにあったりするようになるのです。

何らかの理由によって、自己表現を抑えてしまった場合にも、イジメに合うことが多くなるはずです。裏切られたと感じた体験は、その後の人生で幾度となく裏切られる体験を引っ張り込みます。

見捨てられた感が強く残ってしまうと、必ず見捨てられたと感じる経験を大人になってからも繰り返すことになるということです。

要するに、幼いころに経験したことによって溜め込まれたネガティブな感情が心の中に残っていると、それが未来の人生のいたるところで、同様の感情を味わう経験を引き寄せることになるということです。

もしも、今あなたの環境にそうした何等かの都合の悪い事態が起きているとしたら、幼いころを思い出して似たような経験をしていないか、じっくりと感じてみることです。

人生の初めのころを癒さない限り、パターンはずっと繰り返すことになってしまうからです。もしも、一人では難しいと感じるなら、セラピストの力を借りることも有効だと思います。

思考を観照する側に立つ

ある友人と食事をしている時に、私たちの本質について話しをしたのですが、その時に彼はそれは一つの考え方でしょ?というように応答してきたのです。

それは勿論正しい考え方です。なぜなら、言葉で説明できることは、それが何であれ一つの考え方、つまり思考であることに間違いないからです。

確かに、言葉で伝えようとすれば、それは相手にとっては一つの思考の中身であると判断されてしまうのです。どれほどすばらしい経典であれ、言葉で書かれたものは、それを読む者にとっては、思考と判断できるのです。

それが言葉の限界なのです。元々、私たちの本質について、言葉で説明することは不可能なことです。それは真実であり、真実は思考を超越しているからです。

それでも言葉によって、何らかのものが伝わったらいいのにと思うのです。それは、言葉の受けての感受性に完全に依拠せざるを得ないのですが…。

もしもあなたが、何物にも捉われない空虚なときを過ごすクセがあるのでしたら、自分の本質についての何かを体得しているに違いありません。

勿論それを誰かに伝えたいと思うのかどうかは別のことです。ただ、言葉には決して表現できないこととして、暗黙のうちに自分の中で了解しているに留まることもあるのでしょう。

ただしそれは、崇高なことでも高尚なことでもなく、ただただそれを直に感じている瞬間があるということです。別の表現をすれば、個人としての自分を本質に明け渡しているとも言えるのです。

そこに一体どれほどのメリットがあるというのでしょうか?実は、どんなメリットもないとも言えるし、計り知れない効果が潜んでいるとも言えるのです。

頑張ったから一等賞を取れたというような直接的な効果は皆無ですが、この世界を物語として見る目ができることは、間接的ではあってもその人の人生に多大な影響を与えることになるのです。

思考を越えたところを見ようとする意欲は、思考を見るという態度から発展するのです。思考を観照すれば、思考に巻き込まれることが激減するからです。

思考の中で暮らすのか、その思考を観照する側に立つのかは、神の恩寵によって決まることなのかもしれませんね。

個人とは思考の産物

自分て一体何だろう?そう質問しているこの自分とは?このように、この肉体と結び付けてここに自分がいるということを明確に意識するには、生まれてから何年かかかっています。

けれども、一たびそうした自覚が出来上がってしまえば、もう死ぬまで自分がい続けるわけです。朝目が覚めれば、必ず肉体と共に自分がここにいるところから人生が再開されるのです。

肉体がある限りは、「私」は生きているはずです。しかし、こうした想いのすべてが、単なる思考によってでっち上げられたものであるということは、このブログで何度もお伝えしてきました。

それなら、肉体が死によって消滅した直後、その思考は一体どうなるのでしょうか?思考という現象が、すべての源泉から流れ出てきたものだとすれば、肉体が亡くなった後も残る可能性はあります。

その思考は、「自分という存在はここにいる」という内容を含んでいるため、死後も自分がいるという自覚が残るということになります。

その時、肉体という縛りがなくなってしまうので、思考はそれが望むものを知覚するかもしれません。肉体がないので、空間の移動には時間がかからなくなるでしょう。

もっと言えば、思考の中でイメージ可能なあらゆる体験をすることができるはずです。会いたい人にあったり、過去や未来に瞬時に移動することすらできるはずです。

これは想像すると、なかなか楽しいことかもしれません。けれども、元々肉体と自分を同一視することから始まった「私」感覚ですから、そういつまでも続くはずもないのです。

よほどの強い執着や執念などがない限りは、その思考はいずれ消えていく運命にありそうです。その時、二つの選択肢があるように思います。

一つは、思考が新たな肉体を求めて、それと繋がろうとするのです。これが成功すると、いわゆる輪廻転生が起きることになるのでしょう。

もう一つの選択肢は、ただ思考が消滅するということ。こちらを選択するのは、きっと肉体が生きているうちに自分の本質に気づいていて、思考よりも本質に意識が向いている人の場合かもしれません。

勿論どちらでもいいのです。所詮、個人というものは思考の産物であるからです。

透明なキャンパスを見る

私たちが普通に絵を見るとき、例えば有名な「モナリザの微笑み」を見ているとイメージして、そのすばらしさを味わうことはあっても、バックに隠れている真っ白なキャンパスをイメージすることはありませんね。

絵の場合は二次元ですが、それを三次元にしてみると、その真っ白なキャンパスも三次元ですし、その上に描かれた絵も三次元となります。

それが、私たちのこの宇宙だと思えばいいのです。つまり、私たちのこの世界には、ベースとなる真っ白な三次元のキャンパスがあり、その上にあなたやあなたの住む街が描かれているということです。

モナリザの絵とそのキャンパスは密着していますが、私たちの世界とそのキャンパスも密着しています。モナリザの絵のどの部分を削っても、必ず白いキャンパスが出てくるはずですね。

この世界でも同じことが言えるのです。誰の心でも、思考という表層から垂直に深く深く掘り下げていくと、そこには必ずキャンパスが出てくるのです。

あなたの心を削って出てきたキャンパスと、私の心を削って出てきたキャンパスは同じ一つのものだということは明白ですね。なぜなら、キャンパスは元々一つしかないからです。

心を削るとは、勿論この場合には思考から離れた状態を指します。思考を止めるということを言っているのではありません。あくまでも思考から注意を離すということ。

肉体の眼を使っているだけでは、この世界という三次元の絵を見ることしかできません。肉体の眼は、思考と密接につながってしまっているからです。

今、キャンパスに例えた私たちの本質を見るためには、思考を止める必要も、目を閉じる必要もありません。ただ、注意を今に向けていればいいだけです。

それだけで、いかにそれが優しくて、懐の広い、慈愛に満ちたものであるかを直接体験することができるのです。それこそが、私たちの本質なのです。

観念すれば無敵になる

人生は、何となくうまく行っている時と、そうでないときがあるものです。どうにかやりくりして、すり抜けられるうちはいいですが、どうやっても出口が見つからないような場合だってあるものです。

もっとも一般的な例では、いやな職場に行きたくないのに、生活がかかっているので辞められないというものです。私もサラリーマンの時代はそうでした。

辞めたいという気持ちと辞められないという気持ちが葛藤を生むのですが、辞めたいが強くなってくればくるほど、葛藤は心を引き裂く力を強めるのです。

そうなると、人は出口のない迷路を右往左往するばかりで、もう解決することは不可能だと思い込んでしまうのです。けれども、本当はそういう時にこそ大切な気づきを得るチャンスなのです。

困れば困るほど、大きな気づきがやってくるチャンスが広がります。たとえば、人は出来る限り頑張ったうえで、もう万策尽きたという状態になったとき、とうとう観念することになるのです。

観念することを知った人は、本当の意味で強者になれるのです。なぜなら、観念するとは、自分の人生を自分の力ではコントロールできないと悟ることであり、その結果もう戦わなくなるからです。

戦わなくなった心は、負けを認めることで自己防衛を小さくしていけるので、敵がいなくなってしまうのです。つまり、文字通り無敵になるので、それこそが強者なのですね。

出口を見つけようとする努力を一度やめてみるのです。そして、自分を迷路の中へと迷いこませた張本人は、実は自分のエネルギーだったと知ればいいのです。

癒しによって、その過去のエネルギーを小さくしていくことができれば、自然と問題は消えてしまうか軽減されていくものです。迷路から何とかして出ようとする原動力こそが、問題を作っていたということに気づいてしまうからです。

やるべきことをやり、あとはただ静かに自分の本質に意識を向けていることです。「何とかして…」という思考を見て、それに巻き込まれないようにしていることができれば、あとは目に見えない力がやってくれるのです。

その見えない力こそ、あなたの本質なのです。