事実と真実の違い

事実と真実の違いは何だと思いますか?私なりに思うのは、事実とは客観的な事象のことであり、みんなでシェアできるものなのです。

学生の頃、大嫌いだった歴史の授業、「いい国作ろう鎌倉幕府」くらいしか憶えていないのには、まったく自分でも笑えるくらいです。

歴史とは、事実を追っていくものですよね。だからきっと興味がなかったのだと思うのです。様々な調査をして歴史上の事実を解明していくことに生きがいを持っている人もいることでしょうね。

一方で、真実というのは決して個人個人がシェアできるようなものではなく、主観的なものだともいえるのです。つまり、事実が外的なものであるなら、真実は内的なものだということ。

そういう意味からすると、歴史の教科書などよりも、神話のほうが興味深いのは、神話は真実を表しているからなのでしょうね。

神話は事実ではありませんが、何か途方もなく深い、私たちの存在に根差した何かの真実を表現していると感じることができるのです。

クライアントさんとのセッションで、クライアントさんの人生に過去どんなことが起きたかをお聞きするのは、事実を知りたいからではなく、クライアントさんの内面の真実に気付きたいからなのです。

表面的な物語という事実に目を向ける代わりに、その奥に潜む真実を見ようとすることによってのみ、本当の救いの可能性があるのです。

探し物は外側では見つからない

誰もがまったく同じ問題を抱えているとしたら、それは自分の本質に気づかぬままに生きているということです。そして、もう一つは、そのことにも気づいていない人がほとんどだということ。

そんなことには興味を示さずに、ひたすら外側の世界に救いを求めて生きているのです。言ってみれば、あり得ないユートピアを求めて生きるようなものです。

そんな天国のような場所などないとは思うものの、外側に期待し続ける限りは大して変わりはないのです。いずれにしても、探す場所を間違えているのですね。

少しでも良い暮らしができるように、もっともっと満ち足りた毎日になるようにと頑張るのです。頼みの綱は外側の世界、自分が接する世界が変わること。

けれども、最も基本である自分が何なのかを知らずに、どうやって救われることができるのかを考えてみるのです。正直に、できるだけ自分に正直になれば、分かるはずなのです。

探しものは外側の世界には決してありません。誰かから高い評価をもらおうと、多くの人から愛されようと、好きな人に囲まれていようと、所詮は一過性の安心を得ることができるだけなのです。

永遠の心の平安を手に入れたいのなら、探す場所を外側から内側へと変えることです。このことを信じるのではなく、実践し続けることで知ろうとすればいいだけです。

早くそのことに気づいて、探す向きを変えることができた人は、実りある人生へと歩みを進めて行くことができるでしょうね。

見る対象によって人生は変わる

私たちは、自分が見ているものから、いいにつけ悪いにつけ影響を受けてしまいます。場合によっては、見ているものに同化することもあるかもしれません。

ということは、日頃何を見ているのかということで、人生は大きく変わってしまうこともあるということです。目に見えるものばかりを見るなら、自分のことも目に見える存在と考えるようになるのです。

一方、目には見えないものをいつも見るようになるなら、自分の存在は決して目で見ることなどできないということに気づくようになるということです。

決して目で見ることのできないもの、世界中の誰からも見られることのないもの、それが自分の内面なのです。内面といっても、性格とか人格の部分ではありません。

それは、肉体を使って他人の眼から見えるからです。明るい性格なら、その明るさが笑顔となって他人の眼に映るかもしれません。

誠実な人格であれば、何等かの行動となってやはり他人の眼に見えるはずなのです。そのような内面ではなく、真の内面とは意識そのものだということ。

自分の意識を常に見るようにするなら、自分の本質が意識なのだということに気づくようになるということです。意識だけは、どのようにしても人の目に映るものではないのです。

自分の意識に意識を向けるということ。そうすれば、あらゆる同化が外れていき、意識そのものを直接見ることができるのだろうと思うのです。

しあわせに条件はない

以前このブログで、真の感謝にはどんな理由もないということを書いたのですが、それと同じようにして本当のしあわせには、何の条件もないのです。

私たちは、しあわせを求めて外側へと進んでいくのです。あれが実現したら、これが手に入ったら、きっとしあわせになるとして頑張るのです。

つまり、自分がしあわせになるための条件を自分自身で作っておいて、それを目標として外側へと出かけていくのです。ところが、残念なことにその条件をクリアしてしばらくすると、次の条件を作り出すのです。

クリアしてしまった条件では、大したしあわせは手に入らないことを悟ってしまうからですね。そして今度こそはという条件を作って、新たな船出をするのです。

そして、この生き方を延々と続けることになるのです。つまり、しあわせになるための条件を設定して、それをクリアするや否や、更なる条件設定とそれに向けての人生。

なぜそんなことになるのかと言えば、冒頭書いたとおり、真のしあわせ、永遠に続くしあわせにはどんな条件もありはしないからです。

真のしあわせは、外側にあるわけではなく、自分の内側にこそあるからです。私たちは初めからそのしあわせを内側に携えてやってくるのです。

それなのに、内側には目もくれずにひたすら外側へ外側へと進んでいくので、それだけ内側にのみあるしあわせから遠ざかる一方になってしまうのです。

内側にあるので、どんな条件も設定するわけにはいかないのは当然のことです。こうしたことは、どこかで気付いているはずなのに、まだまだ外側に対する魅力が根強いのですね。

内側に向かうのは、いつどこでもできることです。あなたのしあわせは、あなたの肉体よりももっとあなたに近いところにひっそりと隠れているのです。

全身全霊は中道に通じる

昨日のブログで、極端な生き方をやめて、ちょうど真ん中の生き方、中道とか中庸と呼ばれる生き方が理想的なのだということを書きました。

その一方で、このブログで何度も書いたことに、全身全霊で事に当たるというのがありました。全身全霊ということと、極端を避けるというのは矛盾するのではないかと思いがちです。

なぜなら、全身全霊というのはできる限り、自分の力の限りにという意味が込められているため、それは極端に値するのではないかとイメージされてしまうからです。

ここのところをはっきりさせておく必要があるかもしれませんね。実は、中道というのは自分の力を出し惜しみするということではありません。

中道というのは、どちらの極端でもなく、偏りがないという意味なのです。それは言葉を変えれば、全一でということなのです。極端とはどちらか一方だけを使うということ。

ここのところをしっかり理解することができれば、全身全霊こそ中道の生き方そのものだということに気付くことができるはずなのです。

マインドが一つになって事に当たるなら、それは必ず中道を生きることになるのです。

マインドは極端が好き

私たちのマインドは、大なり小なり分裂しています。分裂した内面をマインドと呼んでいるといってもいいくらいなのです。そうした分裂が大きくなれば、極端な生き方をするようにならざるを得ません。

例えば、耽溺と禁欲は互いにペアとなる両極端ですね。ペアというのは、コインの表と裏の関係と同じであり、両方を同時に見ることはできません。

どちらか一方を続けてしまうと、マインドはバランスを取ろうとして、コインをひっくり返してしまうのです。甘いものが大好きなのにダイエットのためにそれを食べずにいれば、いつかはひっくり返されるのです。

そして、今度は甘いものを爆食いすることになるか、あるいはまったく異なる何かに耽ることで代用するかもしれません。いずれにしても、どちらも百害あって一利なしです。

男性の修行僧が性的な禁欲を続けていけば、かならず彼らが見る夢は性的なものになるのです。そうやってバランスをとるので、そうした修行は何の役にも立たないのです。

仏陀は、極端な生き方をやめて、ちょうど真ん中で生きるようにと教えたのです。それを中道と呼んだのです。耽溺も禁欲もマインド(エゴ)を強くするだけだからです。

働きすぎもダメ、怠惰なのもダメ。社会にのめり込んで、そこで活躍するのもダメ、かといって山の中で独り瞑想するばかりでもダメなのです。

社会の中にいて瞑想するということ。ちょうどいいバランス、ちょうどいい「加減」の生き方は、エゴを弱めていくことにもなるのです。

何からも逃げず、かといって戦わず、ただあるがまま、何かになろうとせず、我のままでいること。過去を悔やむでもなく、未来を憂うでもなく、ちょうど今この瞬間に在ること。それが中道という生き方なのですね。

SMAPの解散で思うこと…

国民的アイドルと言われたSMAPが解散を発表しましたね。聞くところによると、とても有能だったマネージャが退職してしまったとか。

こうしたことは今までにもあった話しであって、個性の強いメンバーを上手にまとめていた人物がいなくなって、急にメンバー同士の間に軋轢が生まれてしまうということ。

真実はどうだか分かりませんが、もしもそうだとしたらグループのメンバー自身が、互いに自分の言葉で直接メンバーとコミュニケーションをとっていなかったということかもしれません。

もしくはそれが不十分であったという可能性もあります。誰かが間にいて緩衝のような役割を果たしてくれると、そこに依存が発生してしまうのです。

任せてしまえば楽ですからね。そして、コミュニケーションをとる努力を怠ってしまったということが言えるのかもしれません。

それともう一つ、こういったアイドルグループというのは、個人の生の声、彼ら自身が考えていることを直接発信することがないのです。

所属事務所からの様々な制約のために、言いたいことが言えないという状態に置かれているのでしょうけれど、そうした風習にも問題があると思います。

古い伝統にもそれなりの良さがあるのは分かるのですが、もっと個人を尊重して自由に気持ちを表現できるようなオープンな芸能界になってくれたらいいのにと思います。

いつかメンバーの誰かが、事の真相を自らの言葉で正直に語ってくれるのを待ちたいですね!

存在価値の真の意味は?

クライアントさんへの問いかけとして、常々使っている言葉に次のようなものがあります。「あなたは、自分に自信がありますか?」というものです。

多くのクライアントさんは、「自信はない。」と答えるのですが、では、「自分の何に自信がないのですか?」とお聞きすると、困ってしまうのです。

実は、究極的には自分の「存在」に自信がないのですね。存在に自信がないというのでは分かりにくいために、一般的には後付けで、能力とか性格などに自信がないということにするのです。

存在とは、ただ自分のまま、あるがままのことです。その存在に自信がないのですから、自分のままではダメだという感覚を持っているということです。

それを無価値感などと呼びますが、つまり自分の存在価値に気付いていない状態のままでいるということです。存在価値に気付かぬうちは、安心することはほとんど不可能なことなのです。

ところで、自分の存在価値と言われると、何だか客観的な価値というものが、自分という存在にあたかも備わっているというイメージを持たれるかもしれませんね。

けれども、本当はそのような客観的価値などというものはありません。存在価値とは、敢えて表現すれば、自分の存在、自分のあるがままでいいという気付きのことなのです。

その気づき事態に価値があるということです。他人がどう評価しようが、自分自身がどんな自分であれ、それ自体にOKを出すことこそが、存在価値になるということです。

たとえ無価値感を持っていたとしても、それも含めてOKを出すことができるなら、それこそが真の存在価値になるということです。

自己防衛の二つの方法

私たち人間が、他のあらゆる動物と違うのは意識があるということ。自分のことを自分であると認識できる、つまり自覚することができるのです。

ただし、それと同時に自我を作ってしまったことも他の動物と異なる点なのですね。自我は、自分を肉体やマインドと同一化するために、自己防衛せざるを得なくなったのです。

その自己防衛の方法は、まさに千差万別であって、それぞれの人が自分の得意なやり方を幼いころからマスターし出すのです。

その自己防衛の方法を大きく二種類に分類するとしたら、一つ目は他人の評価を積極的に利用する方法であり、二つ目は他人の評価をシャットアウトする方法です。

一つ目の方法というのは、人からの肯定的な評価を得て、不安を安心に変えようとするため、常に自己犠牲をもたらすことになり、怒りを溜める結果となるのです。

そして二つ目の方法というのは、自閉することによって都合の悪い外部からの評価などを全く感じないようにしてしまうやり方なのです。

どちらの方法であれ、それが強力であればあるほど人生を棒に振る結果となってしまうのですが、セラピストの立場からすると、一つ目の方法を使って防衛している人の方が癒しにとっては都合がいいのです。

なぜなら、二つ目の方法で防衛する人の場合には、大切なことに気づくチャンスが非常に少なくなってしまうからです。セラピストの言葉は、このような人には届かないことが多いのです。

どれほど辛い人生を生きてきたとしても、一つ目の方法で防衛してきた人は、外側からの情報に耳を傾ける能力が残っているのです。

両者が話し合ったとしても、決して分かり合えることはありませんが、二つ目の人たちにとっては、そうしたことも気づくことができないはずなのです。

人は誰でも必ず自己防衛しています。あなたは、どちらの方法を主に使って生きてきたでしょうか?きっとこのブログを読んでいるのですから、一つ目の方法をメインにしてきたのでしょうね。

だから多くの気づきのチャンスがあるということです。

意識だけが真の変化を生む

乞食同然の賢者が貧しい掘っ立て小屋で寝ていると、そこに泥棒が忍び込んできたのです。盗んで行くものが何も無いので、泥棒を可哀想に思って、唯一の持ち物である托鉢用の鉢を渡したのです。

泥棒はびっくりして、実は泥棒家業を辞めたいと思っているのに、どうしても辞めることができないということをその賢者に打ち明けたのです。

すると賢者は、「泥棒を辞めることはない。その代り、泥棒をするなら、全身全霊で泥棒をしなさい。そして、盗むところをしっかりと意識して見ていることだ!」そう言ったのです。

泥棒は、そんなことを言われたことはこれまで一度もなかったので、不思議に思って、それを実行してみたのです。つまり、泥棒をするときは、泥棒をしている自分にいつも意識を向けているということ。

するとどうでしょう?不思議なことに、盗みを働こうとしてみても、どうにもこうにもする気になれないのです。結局、その泥棒は、泥棒家業から足を洗うことができたのです。

これは、聴いた話しなので実話かどうかは定かではありませんが、この話しにはとても大切なことが含まれているのです。それは、意識だけが真の変化を生み出すということ。

何とかして悪癖を治したいと思って、意志の力でそれを治そうと思えば思うほど、うまく行かないものなのです。それは、思考(エゴ)を使うからなのです。

例えば、何とかしてタバコを辞めたいと思って、禁煙の誓いを立てても、すぐにまたタバコに手を出してしまうという経験を多くの人がしているのです。

そんなとき、タバコを辞めようと努力する代わりに、タバコを吸っている自分に常に意識を向け続けることによって、ごく自然とタバコから気持ちが遠ざかっていくのです。

もしもあなたが、何か辞めたいと思っているのに、辞められずにいることがあるなら、是非意識的でいることを試してみることです。

我慢など必要なく、ごく自然と辞めることができて、その効果にびっくりするはずですよ!