興味を持つだけでは真理の探究は続かない

一般論かも知れませんが、生き生きと生きている人というのは、何かにつけて興味を持って毎日を暮らしているんだろうなと思うのです。

だから、「興味津々」という言葉には、とても魅力的な響きを感じてしまいます。興味を持つということは、その対象となることに並々ならぬ関心を抱くということです。

好きな人ができると、人生が輝きだすのもそういうことなのでしょうね。子犬や子猫のエネルギーが生き生きしているように感じるのも、見るものすべてが新鮮だからなのでしょう。

けれども、単に何かに興味を持つだけであれば、ごく当たり前のことです。それだけではなくて、その興味がどれほど長く続くかということが鍵であり、それは人によって大きく違いが出てくるものです。

例えば、何かの楽器に興味を持って練習し出すことがあっても、いずれは必ず壁のようなものにぶち当たることになります。

初めのうちは練習すればするほど、上達していくことに気をよくして、益々興味が涌いてきたりするのですが、ある程度まで上達すると、それ以上上手にならなくなってしまうといったことが起こってきます。

必ずやってくるそうした壁を、ものともせずに突き進んでいく気概というのか、そういうエネルギーというのはやはり興味の深さによるところが大きいのではないかと思うのです。

「真理の探究」というジャンルがあるのであれば、そうしたことへの興味を継続させるためには、単なる興味を越えた自由への渇望とも言うべきものが、是非とも必要なんだろうと感じます。

なぜなら、普通は興味を失わずに突き進み、あらゆる壁を乗り越えた先には、越えることができた人だけが宝物を手に入れることができると分かっています。それは、言わば一芸に秀でた人になれるわけです。

けれども、真理の探究だけは話しが違うのです。なぜなら、真理の探求が行き着くところ、そこには真理を手に入れられる誰もいないというオチが待っているからです。

興味を持って続けた先には、何の報酬も待っていてはくれないわけです。それが本当に分かったときに、真理への渇望が続くのかは疑問です。

だからこそ、真理を探究している自分がいなくなるという、その恐怖を徹底的に見つめ続けることが必要になるのでしょうね。それはもう、神の恩寵に頼るしかありません。