言葉の有用性と限界

本当は黙して語らずという状態が、最もウソ偽りが少ないわけで、たとえ一言でも口から出してしまえば、それだけ真実から遠ざかってしまうのです。

自己探求に関する本を何冊か読んでみて、そのことがイヤと言うほど分かった気がしています。まったく、伝えるということは常に新たな不満を生み出すことになりますね。

なぜなら、伝えている正にその瞬間瞬間ごとに、ああ真実とは違うことを一生懸命表現しているよ、と感じてしまうからです。

個人セッションのときに、お伝えしているそばから、ずっとノートにその言葉を書き留めてしまう方がごくたまにいらっしゃいました。

過去形で言ったのは、今現在はそんなに極端な方はいらしていないからです。そういった、何から何まで言葉を丸ごと書き留めることをやめられない人というのは、残念ながら一生懸命な分だけ、意味を心に浸透させることができないのです。

それは当然のことで、ある種速記のようなことをやっているわけですから、そのことに意識が集中してしまっているために、内容は少しも理解できなくなってしまうのです。

「この表現は面白いので、忘れないようにメモっておこう」というのならいいのですが、書き留め魔さんの目的は違うところにあるのです。

それは実は、心に浸透させないようにするための作戦であるのです。本人としては、懸命に聞き漏らさないようにと、ノートを取るのですが、深い部分では聞かないようにする戦略なのです。

極端な例をあげましたが、ごく普通にノートをとる場合でも、聞いた言葉をそのまま受け入れようとすると、伝わることはかなり歪められてしまう可能性が高くなります。

たとえば、「物事には善いも悪いもない」ということをお伝えしたとして、その言葉そのものを自分のものにして、その教えに沿った生き方を実践しようとしても、いずれは無理が来ます。

なぜなら、善いも悪いもない、という言葉そのものを理解し、それを受け取るのは思考なのです。けれども、善いも悪いもないということの本質とは、思考が停止したらということが言外に込められているのです。

従って、善いも悪いもない、という意味を思考で理解し、正しいことを教わったと思考してしまうと、もうそこには矛盾が生じてしまうのです。

言葉を発する側も、その言葉を聞く側も、言葉の有用性と共にある言葉の限界をいつも意識しておく必要があるということですね。

幻想を幻想と見抜く

アインシュタインの残した言葉に、次のようなものがあります。「現実は幻想に過ぎない。非常にしつこいものではあるが…。」

しつこいという意味は、とても幻想とは思えないし、どうやって幻想であるということを証明すればいいのか難しいということかもしれません。

幻想を幻想だと見抜く方法は、たった一つしかありません。それは、じっくりとそして正直に、誠実にそれを徹底的に見ることです。

残念ながら、しつこいモノにしているのは他でもない私たち自身であるということです。なぜなら、幻想は幻想そのものによって作られるものではないからです。

幻想とは、単に幻想ではないと信じ込むことであると言えますね。ただ、しつこいのはその信じ込む心がしつこいところから来るのです。

一度信じてしまったモノを、私たちはそれほど面と向かって見ようとはしません。なぜなら、それが真実かどうかを見極める理由がもうなくなってしまうからです。

というよりも、真実でなくなってしまったら、信じた自分を否定することになってしまうため、それはとても都合の悪いことでもあるわけです。

だからしつこいモノとなってしまうのです。現実を幻想だと見抜くことができたとしても、本当は何も都合が悪くなるようなことはありません。

その幻想の中で、肉体が消滅するまで喜んだり悲しんだりして、生を満喫すればいいだけだからです。ただそれだけのことです。

焦らずとも、いずれはこの現実は終わりを迎えます。なぜなら、幻想とは間違いなく一過性のものだからです。

そして幻想を信じてしまった自分も、幻想を幻想と見抜いた自分も、どちらにしてもその自分の本質は一過性のものではありません。だから、どちらでもいいのですね。

滑稽な自分をただ観る

私たちは、誰もが一つの人格を持っています。持っているというよりも、その人物のことを自分だと信じ込んでいるわけです。

でもちょっと待って下さい。そこをもう少しじっくり見てみると、その人物が自分なのか、その人物を自分だと信じているのが自分なのか、どっちでしょうか?

私は断言できますが、その人物そのものは私自身ではありません。それを自分だと信じている方が本当の自分なのです。

長いこと生きてきて、それぞれの年齢のときの人物としての自分というものが、確かにいました。彼は何とかこの人生を生き抜いてきました。

けれども、どの年齢の人物であろうと、それをずっと自分だと信じ込んで、それを観続けていた自分も確かにいました。

そして、人物としての自分を観ている側の自分は、人生のあらゆる時期においても、何も変化をしていないのです。

人物としての自分は、幼くて無邪気な頃から始まって、成長するに連れて徐々に大人へと変遷していったのを知っています。

そしてその変化を知っているまさにその自分は、いつもいつも意識があると自覚したころから何も変化していないということが分かります。

もしも、自分を一人の人物だと信じている自分が、その信じ込みを一旦脇へ置いて、あるがままの自分、対象としての自分ではなくて、ただこうして気づいている自分だけを観るなら、それこそが本当の自分なのだろうと思うのです。

この自分とは、「今」を見ている自分であり、「今」に耳を澄ましている自分、そして人物としての自分のことを見続けてきた、その自分なのです。

それは、怒ったり泣いたり、笑ったり感動したり、絶望したり不安にさいなまれたりして、人生に翻弄され続けてきた人物としての自分のことを、ただただ淡々と観続けている自己なのです。

誰であろうと、この自分に気づいているはずです。この自分は何ものなのかを決して説明することなどできないし、謎だらけなのですが、それでもそれはそれ自身を信頼しているようです。

信頼などできない、間抜けな自分を自分だと信じると、滑稽なことになってしまいます。けれども、それはいくら滑稽でも大丈夫、だってそれを観ているのが本来の自分そのものなのですから。

問題を排除しようとするのをやめる

私たちは、誰でも問題を見つけてしまったら、それを何とかして取り除こうとします。例えば、こうして文章を書いていても、書き間違いや表現の不備などを発見したら、それを修正しますね。

それは勿論、何も悪いことはないですし、必要なことです。逆に、その間違いを見て見ぬフリをしてしまったら、間違いを訂正せずにいることになってしまいます。

けれども、単に訂正するのではなくて、間違いを排除しよう、根絶しようとしてしまうと、どんなことになってしまうでしょうか?

それは、元々不可能なことなのに、それに挑めば挑むほど心が強迫的になってしまうはずです。私たちは、気づかぬうちにこうした文字通り間違いを繰り返しているのです。

自分という一人の人物の問題を見つけては、それを見て見ぬフリをするか、あるいは排除しようと頑張ってしまうということです。

例えば、怒りや憎しみを抱く心を問題視することから始まって、それを見て見ぬフリをして抑圧してしまうかもしれませんし、あるいは排除しようとして怒りを我慢したりするのです。

場合によっては、厳しい修行の道を選ぶ人もいるかもしれません。もうすでに、それを問題だと認識するところからして、間違っていると言わざるをえませんね。

心の癒しを始める多くの人たちが、間違ってイメージしてしまうのもこのことです。つまり、感情を開放しようとする根っこに、不要なものを排除してクリーンな心になろうとする間違った思い込みを持ってしまうのです。

いわゆるネガティブな感情それ自体には、何の問題もありません。唯一の問題とは、それを問題視して、何とかして見ないようにするか、排除しようとすることなのです。

どんなものであれ、それ自体には何の問題もないのだということに、しっかりと気づくことです。その上で、問題とはそれを見ないようにしてしまったという一点だったと理解することです。

このことに気づくとき、あらゆるからくりが見えてきます。問題とは、自分の生き方、それは自分が作り出した正しさというルールによって、作り出されていたものだったということです。

腹で何かを感じてる

そろそろ終盤に差し掛かって来たのかなと、何となく感じるときがあります。何がかって言うと、それは勿論人生です。

端的に言えば、死ぬということであるかもしれませんし、他の言い方もできるのかもしれませんが、理由は分からないのですが、何だかそんな気がします。

いくつか思い当たることがあるのですが、それは最近、昔好きだった音楽を思い出して聞いてみたり、瞑想中に子供の頃住んでいた家を外側から見てるイメージが浮かんできたりするのです。

あるいは、どことなく薄っすらと感じるのですが、「胸がいっぱい」という感覚が常時あるような気がしています。

日本人の平均年齢からすれば、あと20年くらいは生きていてもいいのですが、それは全く当てにはならないという感じがします。

この、「胸がいっぱい」というのは、表現を変えて言えば、何かを思い出しそうな感じと言えなくもありません。

あるいは、突然巨大な感謝に圧倒されてしまうかもしれないという、微かな予感のような感じとも言えるかもしれません。

数年前に少しだけ、そんな経験をしたこともあるので、単にそれをまた期待してしまっているだけなのかもしれないのですが…。

沢山の人たちの人生と、この自分の人生を比べても、誇れる部分は何もないのですが、そんなことはもうどうでもいいのかなとも思うのです。

私の場合、本当は「胸がいっぱい」というよりも、お腹で何かを感じているらしいのですが、それを言葉で表現することができません。

今日のブログは一体何を書きたかったのか、自分でもよく分からないのですが、とにかく今って貴重だなというところでしょうか。

欲望との葛藤

セッションルームから歩いて数分のところに、井の頭公園と動物園があるのですが、最近その動物園から何かの動物の鳴き声が聞こえるようになりました。

と言っても、朝と夜にたまに聞こえる程度なのですが、それがちょっと普段その辺では聞くことのできないような、鳴き声なので気になるのです。

最初は、象のはな子の鳴き声かなとも思ったのですが、今は少し大き目の鳥の声かもしれないと感じていますが、いずれにしてもあまり幸せそうな声ではありません。

動物はしゃべれないので、何かを訴えているように聞こえると、こちらが悲しい気持ちになりますね。思い違いならいいのですが…。

そのことからちょっと飛躍し過ぎるかもしれませんが、最近なぜか狼男とか、ヴァンパイアの映画を観たのですが、彼らも悲しい運命なのですね。

彼らに共通しているのは、怒りを覚えたり、性的興奮を感じたりすると、普段は人間の格好でいられるのに、それから変身してしまいそうになるのです。

狼男はケモノのように、人を襲って食ってしまいたい欲望が出てくるし、ヴァンパイアは人の血を吸いたくなってしまうということです。

それをなるべく理性で食い止めているところは、どうも人間とあまり変わらないのかもしれないと思うのです。

私たち普通の人間も、怒りや性的興奮をそのまま他人にぶつけることはいけないことだとして、理性をもって抑制するのが当たり前なわけですから。

もしかすると、人間のそうした「悪」とされている欲望との葛藤を描いたものが、狼男やヴァンパイアといった物語になったのかもしれません。

欲望そのものが悪いということはありませんが、それが自分の主人になってしまうと苦悩することになってしまうということです。

欲望は、大抵過去の体験を忘れずにいて、その中の都合のいいものをもう一度手に入れたいと思うことからやってきます。

いつもできるだけ、今に耳を傾け続けるようにしていれば、過去が追いかけてきてもそれに巻き込まれずに済むようになるはずです。

そうなったら、きっと欲望と自分の関係が逆転して、自分が欲望の主人の座でいられるようになるのでしょうね。

捏造された自己否定感を見る

みなさんは、自分が持っている自己否定感について、人に話したら、そんなことで自分を責める必要などまったくないよ、と言われた経験はありますか?

そして、それとは真逆の場合、つまりあなた以外の誰かが、何かでその人自身のことを責めていると聞いたときに、そんなこと別にいいじゃないと思った経験はあるでしょうか?

きっと、一度や二度、どちらの経験もあるのではないかと思います。私は、クライアントさんに後者の経験をしてもらうために、セッションのときに時々試すことがあります。

それは、クライアントさんが現在の自分に駄目出ししている場合に、仮にそれと全く同じことで自分を責めている人が目の前にいると想像してみて下さい、と言うのです。

あなたは、その人のことを責める気持ちになるでしょうか?それとも、そんなことで責める必要はないと言ってあげたくなるでしょうか?と質問します。

すると、大抵の人が責める必要はないと答えてくれます。つまり、他人のことは受容することができるのに、全く同じネタであるのに、自分のこととなると許すことができないということに気づくのです。

ではなぜ、このようなことが起きるのでしょうか?なぜ他人は許せて、自分の場合には、そうした駄目出しをやめることができないのでしょうか?

その理由は、分かってしまえばとてもシンプルなことなのです。実は、現在の自己否定というのは後付けで作ったものだということです。

本当の駄目出し、言わば自己否定の根っこにあるものは、ほとんどの人が意識していないような幼児期に作ってしまったものなのです。

その駄目出しを認め続けるために、後付けで何々の自分は駄目だというものをでっち上げるわけです。他人の場合には、その根っこの部分が本人からしか見えないので、本人が主張している理由だけでは、責めることができないということです。

それが、自分だけは特別に、何々の理由によって自己否定することができるという結果を生み出すことになってしまうというわけです。

現在の自分から遡って、それぞれの年齢の時の自分を本当に否定できるかどうか、よくよく見てあげることです。きっと、責めることが難しくなってくるはずです。

その結果、何だか分からないけれど、自分を責めてしまうという心の部分があるのだということに気づくことができるようになります。

そうなったらしめたものです。元々、理に叶った自己否定などあるはずもなく、その捏造した否定感をただただ握り締めていただけだったと気づくことになるからです。

そのことをしっかり見ることができたら、もう自分の存在価値が分からないなどということを考えることもなくなってしまうはずです。

というより、自己価値という観念自体から、遠ざかってしまうようになるはずです。そうなると、もう何かに価値を見出すという人生からも離れていくことになります。それはとても清々しい感覚ですね。

自己否定と自己肯定

一般的に言って、誰の心の中にも、二つの相反する部分があります。一つは、自己否定であり、もう一つは自己肯定の部分です。

どちらか片方だけしか持っていないという人はいないはずです。どちらが先に出来上がるかというと、それは間違いなく自己否定の方です。

生まれたばかりの時には、否定も肯定も両方ともありませんでした。ところが、2~3歳になる頃までには、自己否定感の根っこのようなものがもうすでに出来上がるのです。

その理由はいろいろあるかもしれません。直接的に大人から否定されるということもあるでしょうし、生きづらくて、苦しい環境を自分のせいにしてしまうということもあるでしょう。

どんな理由にしても、本質的には理不尽としか言いようがないのですが、とにかく幼い子供というのは、自分に対して駄目出しをしてしまうのです。

けれども、そのままの状態で生きていくのはとてもシンドイために、その逆の自分は駄目じゃないというものを、何とかして作ろうと頑張るのです。

それが向上心と言われるものの原動力になるわけです。もっと頑張ることで、今よりもより価値ある自分になろうとするのです。

目指すは、自己肯定感です。それをなるべく多く手に入れたいばっかりに、努力や我慢を惜しまなくなるのです。

そのことが悪いということはありません。問題は、自己否定があまりに強烈過ぎると、その反発としての自己肯定感を求めるパワーが強大となり、そこに激しい葛藤が発生してしまうことです。

そうなると、自己肯定を欲する側がある程度頑張ると、自己否定側がそれを撃ち落してしまうのです。そして、その人はしばらく低迷を続けることになります。

そしてまた、力が復活すると、あくなき頑張りが続くことになり、それがある程度続くと、再び撃ち落されるということが、人生において延々と繰り返されることになります。

もしも、これを読んで心当たりがあると思われるのでしたら、まず自分はなぜそれほどまでに一生懸命になるのかを、よく見ることです。

そしてその原動力となる自己否定感を勇気を持って、これまた見ることです。それを何とかしようとせずに、ただただ観続けることです。

そうやって、少しずつ葛藤の元が小さくなっていくことによって、のこぎりの歯のようなアップダウンの繰り返しのような人生が、穏やかなものとなっていくはずです。

親しさの、その奥に隠しているもの

みなさんは、家族や友人、そして恋人のように親しい人と一緒にいるときに、突然何の脈絡もなく、「あれ、この人誰だか分からない。」という違和感のようなものに襲われたことはありませんか?

私は実はそれほど頻繁ではないにせよ、たまにこうした不思議な感覚になることがあります。喧嘩をしたわけでも、何でもないごく普通の状態で、それはやってきます。

それほど長い時間続くわけではないにせよ、何度か経験しているうちに、これはやっぱり何か変だぞと思うようになりました。

もしかしたら、それほど親しい人でなくても、それは起こる現象なのかもしれませんが、私の記憶ではやはり親しい相手の場合に限られているようです。

私はそれがやってきたときには、その感覚を逃さないように、なるべく静かにそれと向き合うようにしています。

そうすると、心の底から相手のことを知らない!というものがやってくるのです。そこで、ああ本当に自分は親しいと思っていたこの人のことを何も知らないんだと分かるのです。

どちらかと言うと、それはあまりいい気持ちの体験ではありません。相手に対する暖かな気持ちとは反対に、見ず知らずの他人を見ているような、冷たさがあるからです。

こうした現象が起こる原因は、きっとすべて自分の心にあるのだろうと分かります。つまり、親しいはずだと信じているその奥で、相手に対して閉ざしている心の部分があるということです。

それが、相手のことを知らないよ、と言い張るのだと思うのです。このことを感じていると、何だか悲しくなってきますが、事実なので受け止めるしかありません。

けれども、逆にこれまた不思議なことなのですが、こうしたことを含めて、相手のことを心の中に静かに置いていると、何だか暖かな気持ちがやってくるのです。

それで分かったのですが、自分と相手は親しいに違いないという思いを一旦脇に退けたうえで、相手をもう一度正直な気持ちで見ることが、大切なのではないかということです。

親しいということの奥に隠し持っている、閉ざしたハートを見つけることができたときに、その分だけハートを開くことができるようになるのだろうと思うのです。

閉ざしたハートはいつか必ず開く

幼くて無防備であった頃は、その子のハートは開いていたはずです。それだけに、そのときに負った痛手というものは、計り知れない傷を残してしまうのですね。

そうすると、一瞬一瞬を犠牲にしてまでも、生き抜いて行こうとすることが起きてきます。つまり、知らず知らずのうちに自己犠牲を強いる生き方を選ぶようになってしまうということです。

幼いころの決意というのは、本当に強烈なものであり、一度こうと決めたものはてこでも変えることができないくらい、頑なになってしまうのです。

なぜなら、その決意は生き抜くためのものであって、自分の命が懸かっているからです。それに比べて、大人になってからする決意の何と弱いことか…。

ハートが開いた状態では、通常は無邪気に、そして臆せずに自己表現をするものです。その心には、これっぽっちの邪心もありません。

けれども、それが親などの周りの大人たちからいつも受け入れてもらえるとは限らないのです。むしろ、根底から否定されてしまったと感じてしまう場合が多いのです。

その否定の中には、存在の否定とも受け取れるようなひどいものもあるかもしれませんし、肉体的な痛みを伴うための恐怖を感じることもあるかもしれません。

いずれにしても、開いていたハートは、間違いなく閉ざしてしまうことになるはずです。そして、そのことが度重なると、もう自分の力では開くことができなくなってしまうのです。

誰でも心を閉ざした経験を持っているはずですし、完全に開いた状態で生きている人の方が珍しいくらいです。

しかし、強い力で閉ざしてしまった人であっても、時間をかけて丁寧に、自分と向き合っていくことを繰り返していくことで、ゆっくりとではあっても、徐々に心を開いていくことができると信頼しています。

私たちには、そうした力が最初から備わっていると思うのです。諦めることはありませんし、必ず神の恩寵はやってくるのです。