神への信頼を取り戻す

私たちの苦しみのほとんどは、自分には自分固有の自由意志があり、自分の力で自分の人生をコントロールできるはずだという思い込みから来ています。

それを思い込みだなどと言われるだけでも、場合によっては怒りが出てくるくらいに、我々はそのことを固く信じて疑うということを知らないでいる、とも言えるのです。

そのために、敢えてこういう言い方をしてみたいのですが、私たちは神の意志に対して従順ではいられなくなってしまっているということです。

私たちは、自分自身の環境に表現されている神の意志に反対して、もがき続けているのです。勿論、自分の思い通りになることもないわけではありません。

けれども、長期的に見れば、それは不毛な努力でしかなかったと分かるはずです。残念ながら、そこには目をつぶり、気づかないふりをしてしまうのです。

この瞬間、自分に起ることすべての中に雲隠れしている神の目的こそ、私たちは信頼しなければならないのです。

喜びに満ち溢れた瞬間であれ、苦悩に打ちひしがれた絶望の時であれ、どんな状態においても、そこに表れている神の仕業を受け入れることです。

そのためには、何であれ、自分が「何かである」というあらゆる「ふり」を、本当に終わらせなければなりません。

いついかなる瞬間にでも、「何ものでもない」自分をただ観ること、それだけが完全なる明け渡しを意味しています。

それは起きたり起きなかったり、やって来たり去っていったりすることのない、永続的なものなのですね。

私の愛しい10本の指

私たちの手には、左右それぞれ5本の指があります。5本の指には、一つひとつにユニークな名前がついています。

親指(お父さん指)は、背丈は低いけれど太くて力強いという特徴があり、何かを握るときには一番大切な役目を果たしますし、指圧するときには、この指が必要です。

人差し指(お母さん指)は、少し細くてしなやかで、何かを指し示すときには重宝されますし、お父さん指と一緒にOKサインを出すこともできます。

中指(お兄さん指)は一番背が高くて、指全体のバランスを取っているようにも感じられます。お洒落な人は、この指に指輪をはめていることもあります。

薬指(お姉さん指)は、名前が示すとおり、患部に薬を塗るときに重宝します。これは、きっと普段はあまり使われない指なので、比較的清潔さが保たれているからかもしれません。

最後に、小指(赤ちゃん指)は、一番小さくて可愛い指ですが、野球のバッターがバットを握るときには、この指が微妙で大切な役目を果たすらしいです。

このように、それぞれの指には固有の役割だとか、姿かたちの特徴があって、どの指がどの指よりも優れているとか劣っているということはありません。

そして、どの指もこの私が自由にコントロールすることができます。5本の指すべてを同時に使って、比較的大きなものを持つことができますし、両手の10本の指を協力させれば、もっと大きなものにも対処することができます。

けれども、もしもこの私が、これらの指1本1本と自分のことを同一視してしまったとしたら、そこには両手を合わせて10人の私が仮想的に出来上がります。

そして、互いに自分と他の指とを比較して、優劣をつけたりして、仲たがいを起こすようになってしまうかもしれません。

自分は指であるという錯覚から無理やり目覚めようとするよりも、指としての自分の源泉は本来一つであるということに、意識を向け続けることができればいいのかもしれません。

今この文章を書いているときにも、キーボードの上を10本の指がタイミングよく駆使されているのを見るのが心地いいのです。

指それぞれの視点からだけではなくて、同時に私のこの視点から指を見ることができれば、指それぞれの苦悩を受容することができるのですね。

徹底的に自分に誠実であること その4

ついでのついでにもう一つ、続きになるようなことを書いてみます。

自分に誠実に向き合う、自分にとことん正直になるためには、自分が日頃理性に対して与えていた最大級の権限を奪うことです。

勿論そのためには、まずそうしていることに気づく必要があります。理性とはすばらしいツールではあるのですが、ただそれだけのものだと気づくことです。

そのことを、理性によって認めることです。理性に埋没してしまっていると、理性が巧みに自分を騙す作戦を駆使していることに気づきにくくなってしまいます。

自分に正直でいるためには、理性というツールをなるべく使わないようにするか、あるいは理性の使い手としての気づきを持ち続けることです。

それは具体的に言えば、あらゆる言い訳を脇に置くということかもしれません。そのためには、言い訳をしていることから目を背けないことです。

自分とは、どんな人物なのかといった、通常私たちが最も大切にしている自己イメージは、実際理性によって保たれているものです。

したがって、理性の権限を剥奪し、単なるツールとしてみることができると、自己イメージそのものが、霧のように実体のないものだということも分かるのです。

そのときにこそ、ようやく自己欺瞞という重く垂れ下がっていたカーテンのような霧が晴れて、裸の自分の姿が見えてくるのでしょう。もう言い訳をする必要もなくなってしまうかもしれません。

その姿は、一つにまとまった個人としての自己イメージとは違った、その時々にやってくる張りぼての断片のようなものに過ぎないのです。

そうなると、それに対して懺悔する気持ちも、逆に誇るような気持ちも、なくなってしまうはずです。それはそういう対象ではないからです。

しかし、何度でも理性が主導権を握ろうとしてやってきます。そのときにも、そのことに対して正直でいることによって、看破することができるのです。

徹底的に自分に誠実であること その3

ついでにもう一つ、昨日一昨日の続きとなりそうなことを書きます。

自分に対して誠実に向き合う、自分の心を騙さずにとことん正直になるということは、何も今まで言えなかったことを言えるようにするということではありません。

立場上逆らうことができなかったり、見捨てられたくないばっかりに相手の都合に合わせるばかりで、本音を言えないでいる人は実に沢山います。

勿論、そのような場合に、自己表現を抑えてきたということに気づいて、少しずつ表現していけるようにするのは、癒しの第一歩としてとても大切なことです。

けれども、今ここで言っている自分に正直になるというのは、それとは違うことです。相手に言えずにいた文句を、正直に伝えるということではありません。

自己主張できるということは、とても大切なことですが、そこには実は自分の正しさや信念への寄りかかりがあるのです。

ここで言わんとしている、自分に正直になるというのは、自分の正しさに寄りかからない、自分の信念に頼らないということ。

敢えて同じ言葉を使うとすれば、正しさで自分を守りたい、信念にしがみついたままでいたいという、自分の本音を観るということです。

どうやって、自分は自分のことを守ろうとしているのかということについて、詳細に観るということも含まれるでしょう。

そうすることによって、ストレートな気持ちで自分と向き合うことができるのです。本音を言うということにも、二種類のものがあるのです。

一つは、隠していた不満や自分が信じること、考え方、主義主張を伝えるということ。もう一つは、告白的な色合いの強い伝え方です。

自分に正直になるというのは、ここでは後者のことを意味しています。前者は防衛的であり、後者は無防備な感じになるはずです。

私は以前、パートナーと腹を割って話し合おうと思って、いざ自分に正直になろうとして、前者をやってしまい、失敗した苦い思い出があります。

やはり、正直さというのは、無防備さからしかやってこないものなのかもしれません。

徹底的に自分に誠実であること その2

昨日のブログの補足です。

私たちは、自分が培ってきた自分の正しさや、その基盤となっている信念、あるいは信条といったものにしがみつく傾向を持っています。

どれほど現状が厳しく、生き辛い状態になっていると分かっていても、その原因が今まで自分がしがみついてきたものにこそあるとは気づかないのです。

しがみつく理由は、それがなくなってしまうと生きる指標を奪われてしまう恐れを感じているからですね。だから、必死にしがみつくのですが、その中味を正直に観ようとはしません。

もしも、丁寧に、そして自分に対して誠実に観てしまったら、それこそが今の自分を貶めている元凶だと気づいてしまうことになるからです。

そして、懲りずに次なる正しさを追い求めるのです。それは、場合によっては探求の結果発見した、これこそ真実だというものに摩り替わることもあるかもしれません。

そうすると、今度は神聖なる真実にしがみつくことになるのですが、本当の真実とはそういう対象には成りえないはずです。

結局、それも思考の範疇でしかないということです。しがみつきは、必ず硬直した生き方しかできなくさせるのです。

真実とは、しがみつく対象でも、主張するものでも、正しいというものでもありません。真実はただ真実であって、いかなる思考をも超越しています。

私たちに真に必要なことは、やはり自分に対して正直になることなのです。思考の上での信念でも真実でもないということです。

そして、正直に、できるだけ誠実に自分に耳を澄ますと、その時々に必要なことがやってくるという経験をすることができるのですね。

それは常にリアルタイム性を持ったものであって、あらかじめ分かっているようなものではないのです。それこそが、「今」という真理なのだと思うのです。

奇跡のコースでは、やってくる「それ」のことを、「聖霊からの声」というように表現しているのです。どう表現しようが、私たちにとって唯一信頼に足るものだと言えると思います。

徹底的に自分に誠実であること

自分の思考について、それを信じないという態度を続けていると、次第にあらゆることに対しても今までとは違う見方をするようになるようです。

それは、最も単純化して表現すると、例えばこれはAだということが正しいと思えば、それと同じ分だけそれはAではないがやってくるということです。

この現実は幻想だということを突き詰めていくと、この現実は単に幻想とは言えないということがやってくるのです。

何かを正しいと断定すればするほど、それは正しくないというのが付きまとうということです。このことに気づくと、物事を断定することにそれほど興味がなくなってきます。

私たちの本質は決して身体ではないということを探求すると、私たちは身体だと信じていることにも抵抗を感じなくなるのです。

私たちには自由意志などないので、努力する必要はないと思えば、必ず努力する必要があると思えるときもやってくると感じます。

こうした感覚というのは、とにかく自分に徹底的に正直に、誠実になることによって、何が真実かということとは別にやってくるものなのかもしれません。

なぜなら、私たちがこれが真実に違いないとすることは、思考の中でのことだからです。どれほど有名な経典に書かれていることであれ、それらはあくまでも観念の世界のものです。

一体本当の真実とはどういうものか?という問いそのものが、思考からやってくるのだとしたら、そこには思考が分かる答えだけが待っているわけです。

それは必ず、別の思考によって覆される運命を伴っているとも言えます。科学も、覆されてきた歴史を持っていますし、それはスピリチャルな世界でも同じかもしれません。

とにかく、思考によって言葉を発してしまえば、そこには必ず覆される運命が待っているということを忘れないことです。

それなら、沈黙することが最善ですね。そうすると、途端に沈黙することが最善であるとは限らない、が心の奥からやってくるのを感じます。

まったくきりがありません。結論としては、真実だと自分が思うことに対しても、それはそれという態度でいること、そしてとにかく一瞬一瞬を自分に対して誠実であり続ける、これしかないようです。

理不尽さとの闘い

最近、ipad を購入してからというもの、パソコンと向き合っている時間が減った代わりに、ipad と共にいることが多くなってしまったようです。

昨日も暇に任せて、無料で観ることのできる映画を ipad でずっと観ていました。その中で、何とも一言では表現できないものがあったので、ご紹介させてください。

その映画は、「ファニーゲーム U.S.A」という題名の洋画なのですが、内容はいたってシンプル、避暑地で休暇を楽しむ家族のところへ、犯人たちが侵入してきて、最終的には殺されてしまうという、悲惨な物語。

観ていて、とてもいい気持ちのする映画ではないので、決してお勧めするつもりはありません。けれども、観ながらちょっと気づいたことがありました。

この映画、実に理不尽さの塊のような内容なのです。最初から最後まで、やっぱりそうだろうと納得することがほとんどありませんでした。

ようやく一つだけ、納得できることを見つけたのは、その犯人のうちの一人の生い立ちが、酷いものだったことを知らせる場面があるのです。

でもそれ以外は、どんな原因も提示されないままに、悲惨きわまりない結果だけが起こっていくという映画なのです。

自分の中の正しさが、ずっと不正と闘っていたのを、観ながら何度も感じていました。恐怖映画でもあるのですが、さすがに作り物なので恐怖はほとんど感じることができませんでした。

それは製作側の狙いでもあるんでしょうね。そのせいもあるのか、恐怖が邪魔しない分だけ、理不尽さと闘わねばならないということを思い知らされたわけです。

もしも、自分が殺される家族のうちの一人だとしたら、犯人たちに対して怨念を残さずに死んでいくことができるだろうかと、気づいたら真剣に考えていましたね。

これは単なる映画ですが、こうした理不尽きわまりないことは、人類の歴史上いくらでもあったはずだろうし、今でも、地球上のどこかで起きているかもしれません。

人がカルマを背負ってしまう理由がよく分かりました。でも死ぬときには、一つの物語が終わったくらいの気持ちになれるようにと祈るばかりです。

分からないことを認め、信じることを止めてみる

先日初めての方からお電話がかかってきて、過去世退行催眠を試してみたいのですがということでした。

通常ですと、すぐにそこで予約の日時についてお聞きするのですが、その方は私自身が過去世というものに対してどんな信念を持っているのかということについて、聞いてきたのです。

私はそれについて、正直に答えるしかできないので、普段どおり、輪廻転生というものが本当なのかどうか、私にはわからないし、こうだという信念も持っていないとお伝えしたのです。

ところが、その方は仕事としてやっているのに、そんないい加減な考えでは問題があるということで、繰り返し不満をぶつけてきたのでした。

私の本音は、その人の何らかの問題がそれなりに解決すればそれでいいので、それ以上の思い入れはないときっぱりお伝えしたのですが、何度も食い下がられて結局40分近くも電話を切らせてはもらえませんでした。

久しぶりに珍しい経験をさせてもらったのですが、人は自分が知らないことについて、誰かに確証を与えてもらいたいという気持ちがあるものなのですね。

その方だって、本当のことを言えば、見ず知らずの私が何も真実について、分かるはずもないと知っているはずなのに、それならそれを仕事にするなということなのでした。

私たちが本当に分かっていることは、自分は何も分からないという一点だけなのです。分かっていたい、できるだけ知っていたいと思うのは、人間の持っている欲望なのかもしれません。

それは、自己防衛本能から来ているものとも言えます。でも残念ながら、本当に何一つ私たちには分からないというのが真実なのです。

だからこそ、この世界のあらゆることは信じるか信じないかということで出来上がっているのです。

何も分からないことをしっかりと認めたうえで、信じることと信じないことの両方から離れていること、それこそが生きる極意なのかもしれません。

自分の人格を信じることを、一時的にでもやめてみることによって、見えてくるものがあるのではないかと思います。

思考ワールド内でのお話し

この広大な宇宙の外側がもしもあるとしたら、そこはどうなっているのだろうかという考えを持つことは可能です。

そして思考の中でその答えを見出そうとしても不可能であることも明らかです。なぜなら、その思考は宇宙の中にあるからです。

あるいは宇宙の一員だとしてもいいかもしれません。宇宙そのものが、宇宙の外に出ることは決してできません。

それと同じようにして、私たち自身が私から出ていくということも不可能なことです。私たちが思っている私というのも、単なる思考だからです。

ところが、その私という存在が、心を静かにして、つまり思考をなるべく追わないようにした状態で、今に耳を澄ますことを続けていると、私という思考と思考の隙間に、この私ではない別の自己を感じることができるときが確かにあります。

それは自分の中では、特別な経験ではなくて、不連続なびっくりするような何かでもなく、ごく平凡な体験として感じるものです。

そういう意味からすると、本当の自己とこの私という感覚は、それほどかけ離れたものでもなくて、ある程度連続しているようにも思います。

ただし、こうやって文章にしてしまうと、その途端に違うことを伝えているのに気づきます。なぜなら、思考の中で思考の外側を表現できないからですね。

次から次へと思考がやってきます。そしてそれは別に何も悪いことでもいいことでもありません。その思考をむやみに信じないということだけです。

思考の中で遊んでもいいし、思考から作られる感情に一時翻弄されるのも別に悪いことではありません。でも、そういったすべてが思考ワールド内での話だということです。

私という思考が、本当の自己を捉えようとすることを、完全にあきらめることが一番です。思考は思考を超越できないのですから。

痛みと共にいてみる

久しぶりに左下の奥歯の歯茎が腫れてしまいました。この数日の間、ズキズキと脈打つし、夜はゆっくり眠りたいので痛み止めの薬を飲んでいます。

若い頃は、今よりももっと不摂生をしていたためか、たまに歯茎が腫れて、辛い思いをしたことがあったのですが、この20年間くらいはこれほどの腫れはなかったのです。

左の頬がぷっくりと膨らんで、熱をもっているようです。手のひらを当てて、自己ヒーリングしてみると、ものすごくジンジンします。

腫れる痛みというのも、なかなか鬱陶しいものですね。暇なので、実験をしてみようと思い立って、以下の三つのケースで痛みの感覚が変化するのか、試してみました。

一つ目は、ゲームなどに集中してみるのを試してみたところ、やはりその瞬間はある程度痛みのことを忘れていられるようですが、集中が途切れたときに、前よりももっと痛みが強くなることを発見。

きっと、若干興奮するために、歯茎の血流が盛んになるのでしょう。この方法は、集中がほどけたときに疲れも感じるため、お勧めできないと判断しました。

二つ目は、ごく普通に本を読んだり、メールをチェックしたりという状態。痛みには、波があってそれほどでもないと感じるときと、ああ~またやってきたと感じる辛い時とがあります。

そして三つ目は、他のことは何もせずに、ただひたすらその痛みと共にいるようにしました。そうすると、痛みはなくならないのですが、その質に変化を感じることができました。

何と言うか、苦しみが減って純粋な痛みだけが裸で感じられるというのか。そうすると、不思議なことに、なぜ人は痛みを嫌うんだろうという昔からの疑問がやってきました。

つまり、そんなことを思うくらいに余裕ができるということです。この痛みを自分にはどうすることもできないと観念するとなおいいです。

何とか冷やして痛みを小さくしようとか、気を紛らそうとしないほうが楽になれるということです。楽といっても痛みと一緒にいる楽さというのか。

この際、徹底的にこの痛みと共にいるようにしてみようと思います。でも、寝るときには、痛み止めを飲みま~す。