何もなさに満ちている

子供の頃と大人になって歳を重ねて来た今との一番の違いは何かというと、色々な言葉を使えるようになったことかもしれません。

自分という存在は、昔も今も何も変わっていないと分かるのですが、それでも表現方法が豊富になったおかげで、それが自分へのヒントともなるのです。

たとえば、このブログでは「全体性」という表現を時々しますが、子供の頃にはそんな言葉を知りませんでした。

この言葉のおかげで、今ではその感覚は般若心経で言うところの「空」だったり、「無」と言うことと同じだと分かるのです。

そしてその感覚はきっと子供の頃からどこかしらにあったものだったはずですが、表現ができなかったばっかりに自分の中で注目されずにきたのでしょうね。

言葉にできると、それは決して真実ではないのですが、この言葉を介することでそれへの感覚が明確になるという利点があるのです。

子供の頃に「空」と言われても、それは単に空っぽなこと、空虚なものを連想するだけだったと思います。

けれども今ならそれは決して空っぽではなく、無で満ち満ちているという感覚があるのです。

無から全ての現象が起きてきて、またそこに戻るというとすぐには理解できない感じがしますが、無はとにかく満ちていると気づけば容易に納得できるのです。

この何もなさに満ちていると言うことが、いつも自分のバックグラウンドにあるなら、安心して全てを見ていられるように感じますね。