本質に気づけば悩みは消える

私たちの苦悩の原因は、本当の自分ではないものを自分だと間違って信じ込んでしまったことにあるのです。

人は自分が少しも困っておらず、心に余裕とゆとりがあって気持ちいい状態でいられるときには、驚く程他人に対して寛大で親切なのです。

これは誰でもある程度は気付いていることですね。自分がハッピーでいられるときには、他人に対して思いやり深くいられるのです。

困っている人がいたら、自然と手を差し伸べようとしてしまうのです。それは決して良い人間になろうという思いからではありません。

私たちはそもそもがそういう存在としてできているからです。私たちの本質が表面化しているときには、誰もが慈悲深いのです。

ところが、自我が表に出ているときは完全に変わってしまうのです。自我には愛というものが分からないからです。

残念なことに、それこそが自分なんだと思い込んでいるわけです。なんで自分はこんなふうに汚い人間なんだろうとか、ダメな奴だと思って苦しむわけです。

自我というのは、良いも悪いもなくただ不安と孤独で成り立っているのですから、それをなんとかしようと踏ん張ってるあまりに、防衛だらけとなるのです。

それはそういうものだとしっかり見極めることです。その上で、自分の本質は誰かでいようとする自我ではなく、純粋な覚醒した意識だと気づけばいいのですね。

永遠の謎

まだ若い頃、哲学って面白いなあと思っていたことを覚えています。何が魅力かって、頭の中だけでずっと解き続けることができることです。

マインドというのは、難解なものを好む習性があるようで、ほとんど何の役に立つわけでもないけれども、謎解きは楽しいのです。

ただ間違いを起こしやすいのは、哲学的思索を追求していくことで真理に近づいていくことができるのではないかと感じることです。

誰にとっても真理というのは謎なわけで、その謎に挑戦することで興奮もするし、真理にいずれは到達するかもしれないという期待を持つのです。

けれども、そこにハマってしまう前に気づけて本当に良かったのですが、真理は哲学からはとてつもなく離れたところにあるのです。

というよりも、哲学を追求すればするほど真理からは遠のくのです。なぜなら哲学は思索であり、それは一つの思考の形に過ぎないからです。

どんな形の思考であれ、それが消えていった先に見えてくるものがあるのです。真理は思考が及ばないもの、永遠に謎である何かなのですね。

だから探究が無意味だと気付いたときに、探究するずっと前から目の前にあったもの、それが真理なのです。

褒められたい願望がある?

自分のことを「褒められて伸びるタイプだ」と言っている人がいますね。確かにけなされるよりは、誰だって褒められた方が嬉しいものです。

ところで、褒められるというのは、具体的にはどういうことなのでしょうか?単に肯定するというのともちょっと違うし。

例えば、ただ思ったことを言っただけで、相手が褒められたと感じることがあるとしたら、褒める褒められるというのは主観的なものなのかも。

100メートルを10秒で走る人に「足速いですね」って言ったって、言われた方は当たり前過ぎて褒められたとは感じないでしょうし。

ということは、褒められたと感じるのは本人が思っている以上のことを言われた時のことなのかもしれませんね。

こうして見てみると、褒めるとか褒められるというのはどちらにしてもかなり曖昧なもののようです。

クライアントさんの中には、幼い頃に親に褒められた記憶がないので、大人になった今でも褒めて欲しいという気持ちが強くあると言う人がいます。

意外とそういう人は多いかもしれません。実は褒められたいと願っている人は、幼い頃にしっかりと受け止めてもらえなかったはずなのです。

なぜそんなことが言えるかというと、受け止められた感がしっかりあると、別に褒めて欲しいとは思わないのです。

褒められたら一緒にけなされるがくっついてくるのを感じるからです。だからどちらもいらないということになるのです。

もしもあなたが褒められたい願望が強いのなら、自分のことをしっかり受け止める練習をすることです。

インナーチャイルドが受け止められて安心すると、それだけで褒めて欲しい気持ちが薄らいでくるはずですよ。

後悔とコンプレックス

私たちの人生には、後悔というのが付き物ですね。あれやこれやと過去のことを思いだすと、必ず悔やんでしまうことがあるものです。

たとえば私の場合だと、大学受験のときにしっかり勉強をしなかったという後悔と、その結果受験に失敗したことによる学歴コンプレックスもあるのです。

後悔とコンプレックスがリンクしているので、これはなかなか手強いわけですが、ではこうした後悔とかコンプレックスというのは今後もずっと変化せずにあるのでしょうか?

過去を変えることはできないのですから、失敗に対する後悔とその結果からやってくるコンプレックス(劣等感)も変えようがない気がしますね。

けれども実は過去を変えることはできないけれども、今この瞬間に生きている感覚が変わることはあり得るのです。

つまり昨日まで後悔していたことを、今日思い出してももう何とも感じなくなることが実際にあるのです。コンプレックスにしても同じ。

それは何が影響しているのかというと、今この瞬間の満たされ具合なのです。今あなたが満たされているなら、実はどんな後悔もコンプレックスも消えてなくなるのです。

出来事は過去であったとしても、今のあなたの気持ちに影響するのは今のあなたのマインドの状態だからです。

これが理解できるなら、コンプレックスをなくそうとしたり、後悔を無くそうとする必要はないと分かるはずです。

大切なのは、過去ではなく今あなたが満たされているかどうかに尽きるということなのですね。

マインドの目的

普段セッションやこのブログなどで「マインド」という言葉を当たり前のように使っているのですが、日本語では「心」というしかないのでしょうか?

ただ「心」と言ってしまうと、ハートのことも表現できる言葉なので、きっと日本語にはマインドに該当するちょうど良い言葉がないのでしょうね。

私なりにマインドという言葉を定義するとしたら、以下のようになると思います。『ひとまとまりの個人として存続するための仕組み』という感じです。

マインドという仕組みが活動することによって、私たちは自分という個人が生きているという錯覚をし続けることができるのです。

実際マインドはどのようにしてそれを実現しているのかというと、第一に挙げられるのが、「満たされない」という状態を維持するということ。

満たされないでいる限り、自分を満たそうとしてその目的に向かって「ひとまとまり」になっていることができるのです。

満たされないでいれば、未来に意味ができるのです。未来を利用して満たされようとする欲望を持つことで、個人は生き続けることができるのです。

つまりは、私たちが個人(マインド)として生きている限りは、決して満たされることはないということです。残念ですが…。

逆に言えば、欲望を捨てて、未来を無意味なものにし、現在に完全に満たされるなら、自動的にマインド(自我)は不要となってしまうということです。

それが仏陀になるということですね。

疑うマインドと信頼する意識

私のマインドの中に、二つの大きな部分があるのですが、それはきっと私以外の誰のマインドでも同じなのだろうと思うのです。

その二つの部分とは、一つは生を疑ってかかる部分。一寸先には何が待っているか分からない不安なマインドです。

いつ嫌なことが起こるかもしれないとビクビクしているのです。 体の具合が悪くなると、それが自分の中ですぐに優勢になるのを感じます。

そしてもう一つの部分とは、生を信頼している方です。生そのものを信頼するということは、たとえ何が起きようとも最終的には大丈夫と感じる部分。

この二つの部分は、まったくもって真逆でありながらも、いつも一つのマインドの中で共存しているのですから不思議です。

ときどき、どちらかが優勢になってもう一方を圧倒することはあっても、いずれはまた両方が同時にある状態に戻るのです。

ただ、私の中での変化としては若い頃は「疑う側」が比較的優勢だった気がして、最近は「信頼する側」がかなり優勢なままでいてくれるのです。

実は、マインドの中にあるのは疑う側だけであり、信頼する側はマインドの外にあるのです。なぜなら信頼は無思考だからですね。

思考が小さくなってより意識的であることが増えれば、それだけ信頼が大きくなっていくのですから、そっちに舵を切らない手はありませんね。

「するべき」から「したい」へ

長い間セラピストとしてセッションを続けてきながら、クライアントさんのはまり込んでいる症状のようなものに出会いました。

たとえば、私が「やらなきゃ病」と呼んでいるものがあります。とにかく、朝起きなければ、ご飯を食べなきゃ、出かけなきゃ、宿題をしなければ等々。

自分の行動をすべて「やらなきゃ」の仲間に入れてしまうもんだから、その逆の「嫌だ!」も出来てしまうのです。

そうなると、悪化すれば何もしたくないに乗っ取られる羽目に陥るのです。これはこれでかなり面倒なものですね。

あるいは、「役に立ちたい症候群」と呼んでいるものもあります。自分の気持ちを優先するのではなく、何かの役に立つことを最優先する生き方をするのです。

結局は奴隷のような人生が待っているわけですが、これもなかなかすんなりとは抜け出せないもののようです。

あと、「改善病」と名付けたものもあります。自分のダメなところを沢山挙げつらって、それを全部改善しようと日夜戦ってしまう人。

自分の存在を見ないことから発生するのですが、自分を認めることができないのですから、散々な人生になっても不思議ではないのです。

今すぐには思い出せないのですが、他にもいくつか勝手に名付けた病名があったと思うのですが、これらに共通するのはどれも愛がないということ。

不安(防衛)のエネルギーが原動力となっているので、それを止めるのは難しいのです。

「するべき」から「したい」の人生に転換できるといいのにといつも思っています。

最初から救われている

いつの頃からだったのかはっきりは覚えていないのですが、神は自分の外側にはいないということを分かっていました。

どうしてそう思えるのか、その頃はまったく自分でも理解できなかったのですが、どう考えても外側に特定の神なる存在がいるとは思えなかったのです。

そして今となっては神という言葉はもうすでに死語となってしまいました。それは神を否定するという意味とはまったく違うのです。

意識以外には何もないという感覚がやってくるようになってから、自分の中ではそれが神の代わりになったのだろうと。

意識だけがこの現象界に気づいていて、かつそれとはまったく異なる次元に在る唯一のものなんですね。

街を歩いているとき、クルマを運転しているとき、このブログを書いているとき、いつだって気づくことができるんです。

意識を内側に向け続けると、すぐに内側も外側もなくなって一つの全体性になっていくんです。少しだけ練習が必要なだけ。

すると、今あなたがこれが自分だと信じているものは幻想に過ぎないと気づくかもしれません。だから、みんな本当は最初から救われているってことですね。

どちらのチャレンジャー?

クライアントさんのなかには、チャレンジャーだなと感じるような人が結構います。戦っている人もその中には含まれます。

けれども、戦っている人はとりあえず脇に置いて、単にチャレンジャーだなと思える人に着目してみると、大切なことに気づかされます。

チャレンジャーを大きく二つに分類すると、一つは純粋にチャレンジしていることを楽しんでいる人。

そのエネルギー源は好奇心、あるいは純粋な興味といったものですね。面白そうだから挑戦してみるという人です。

億劫がらずに、怖がることもなく潔くただやってみたくて仕方ないのでついやってみるという人。

そしてもう一つの方は、チャレンジした結果、それができるようになる自分に至ることを目的とするタイプ。

つまりチャレンジそのものが目的なのではなく、◯◯な自分になることが目的なのです。ちょっと見、一つ目の人たちと見分けがつかないかもしれません。

けれども両者のエネルギー源はまるで正反対なのです。なぜなら、二つ目の方のエネルギー源は防衛、つまり不安や恐れだからです。

好奇心や興味で始めたものが、気がついたら防衛に取って代わられるということも多々あるかもしれません。

自分の人生を顧みて、確かにチャレンジャーだと思えるのなら、どちらのチャレンジャーなのかを見極めることです。

なぜなら、後者の場合は満たされることがなく、いずれは疲弊していくことになるからですね。

ただあるがままでOK

自分にふさわしい生き方をすることです。それが一番自然でいられるからですね。自我はそれでは退屈だと言ってくるかもしれません。

それじゃあ自分が求めている魅力的な人生にならない気がすると。特に若い頃は自我は欲望に満ちているので、もっともっとと求めるのです。

自分にふさわしい生き方とは、必ずしも自我にとっては満足のいくものではないのです。自我というのは不自然なものだから。

どうやってふさわしい生き方を見つければいいかというと、自分ができるだけ素直な状態のときに、穏やかな心持ちのときがチャンスなのです。

その時には、おのずとそれが見つかるものです。人と自分を比べないでいられるとき、不要な自我の成分が入ってこないときに気づくのです。

そこに信頼を置くのです。自我の欲望をできるだけ傍に置いて、たった一人でいるときにこそそれを感じることができるのです。

余分なものが削ぎ落とされて、より身近なもの、よりシンプルなものに意識が向くようになるかもしれません。

世界一になろうとか、ひとかどの人物になろうとか、尊敬される人になろうとかも一切なく、ただあるがままでOKだと気づけばいいのですね。