気づくだけ、ただそれだけだった

昨日のブログでは、目的意識を持つこと自体があるがままを認められていないことを意味するので、覚醒を目標にすることほどバカバカしいことはないんだと。

全てはOK、全てはうまく行っていると気づくことだと。そんなことを前提にしつつ瞑想していたら、ちょっと気づいたことがありました。

それは、例えば生まれた時からずっとある一定の音が聞こえていたとします。決して途切れることがなく、それはずっと自分と共にあったとします。

その時、自分はその音が鳴っていることに気づくことができるのかと。変化せずにずっと在るものに気づくためには、一度でもそれがなくなったり変化する必要があるのです。

一定のスピードで運動している乗り物に乗っていて、それが動いているとは決して気づくことができないのと同じです。

なんらかのスピードの変化、つまりは加速度を感じた時に動いていたんだと気づくわけです。それと同じ原理。

どんな音であれ、どんな匂いであれ、どんな感覚であれ、それが生まれた瞬間からずっとこれまで変化せずにあれば、どうやっても気づけないということです。

なるほど、それと同じなのかもしれない。つまり、私とずっと一緒にあるもの、それこそが私の本質であるのです。

なんとかして、それに気づくことこそが覚醒するということなのかもしれませんね。そして気づいた瞬間に、そちら側へとシフトしてしまうのです。

これまで生きてきたつもりの私という自我の立場が希薄になってしまうのも予想がつきます。とはいえ、自我のことはどうなろうと気にならない感じもします。

あまりにも自分と共にあり続けているからこそ、気づけないでいるということ。こうしたことは知識としては知っていたのですが、このように言葉にするとより明確になりますね。