「自我病」について その2

前々回のブログでは、自我病について書きました。それは、特別大きな問題もないのだけれど、これと言ってやりたいこともないという状態で起きるのだと。

要するに、贅沢病とも言えるし、怠け病と言われても仕方のないものかもしれないということ。そして、その状態にはまると決してハッピーではないのです。

解決策として、何でもいいので自分が楽しくなるもの、心がワクワクできるようなものに意識を向けるようにすること。そして、それを行動に移すことができればなお良いという話しをしたのです。

私自身が、これといって不自由のない暮らしを淡々としているのに、何かしら毎日をそれほど楽しめてないなあという反省の元に、その状態に自我病という名前をつけたのです。

確かにこの記事に書いたことはそれで正解だと思うのですが、ただ正直にいえばちょっと引っかかるものがあるのです。

自我病の本当の問題ってそこじゃないんじゃないの?という声がします。楽しくワクワクすることで毎日を埋められてしまえばそれはそれでOKだと思います。

けれども、それでは自我病の本当の根っこにあるものに、光を当てていないような気がするのです。それは一体何なのでしょうか?

確か osho が言っていた言葉で、「人間は鈍感過ぎる」というのがありました。もちろん人間というのは私たち自我のことですね。

もしもこの鈍感さが取れたなら、生きているという一瞬一瞬の煌めきを感じざるを得ないということなのかもしれません。

何でもないもの、何でもないことに物凄く感動できるようになるということ。例えば、当たり前に呼吸ができる、ものが綺麗に見える、歩くときの足の裏の感触の心地よさ等々。

究極的な表現を使えば、この瞬間がただただ抱きしめたくなるくらいに愛おしく感じられる。そうなったら、自我病なんてもう存在できないはずなのです。

本当は内面が喜びに溢れるのに理由なんていらないのです。あえていえば、この地球にやって来れたことでもう完結しているのですから。

きっと多くのみなさんが、こういった感覚を体験したことがあるのではないかと思うのですが、それを毎日の生活の中に定着させることができたら素晴らしいですね。

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