人生は一本道

かれこれ50年くらい前、学生だった頃に好んで聞いていた楽曲を思い出して、ネット上で捜したら見つかったので、懐かしい思いで聴くことができました。

いい時代になったものですね。あの頃のように、なけなしの小遣いをはたいてアルバムを買う必要もなく、気軽にテレビでもスマホでも聴けるのですから。

その時に何とも言えないかつての感覚も一緒に蘇ってきました。自分が青年であることを一応喜んで、自由に生きていたのだと思います。

今よりも不安は大きかったような気もしますが、それでもそれなりに毎日を楽しんでいたようです。

あの若き青年に何かを伝えてあげられるとしたら、何を言ってあげようか?と考えて、色々なアドバイス的な言葉が頭をよぎったのです。

けれども、しばらくしたらそんなことはどうでも良くなってしまって、たった一つだけ伝えたいことが残りました。

それは、今の君には思いもよらない何かを知るようになるから、それを楽しみにしていてね!というものです。

もしも今それを言葉で伝えようとしても、彼はどれほど頭を絞ったところで、意味を理解することはできないでしょうから。

それ以外は、何をしろとか、何をするなとか、そう言ったものは全くなく、そのままに生きていればいいよだけになりました。

10年後にまだ自分が生きているとしたら、今の自分にどんなことを言ってくれるのかな?と想像すると、結局そのまま生きればいいよって言われそうな気がします。

要するに、人生という一本道を歩むのに、正しい歩き方や間違った歩き方などあるはずがないということですね。

思考と思考の間に気づく

もしもあなたが、いつもいつも何かを考え続けて、頭が休まる暇もないとしたら、簡単に言えば正気を失っているということです。

そんなことはない、自分は正気でまともな頭で正しく考えを巡らせているだけだと反論するかもしれません。

確かに寝る暇も惜しんで、研究に没頭している科学者がいるとしたら、その人は正気に違いありません。

ここでいう頭が休む暇もない状態とは、過去や未来のことで頭がいっぱいの状態のことを言っているのです。

過去はもう過ぎ去ってしまったもの、未来はまだ来ないものであり、どちらも実在するものではありません。

現実ではないところに思考をどれほど巡らしたところで、肝心の現実を生きていることにはならないのです。

それは思考の世界に逃避してしまっているのです。正気を取り戻したければ、思考と思考の間があることに気づくこと。

一つの思考が終わって、次の思考がやってくるまでの一瞬を捉えるのです。その間は無思考状態であり、瞑想状態と同じです。

だから瞑想が苦手という人にとっては、その思考と思考の間の無思考を感じるようにすることで瞑想の代替えとなるのです。

思考と思考の間があることに気づくためには、やってきている思考に気づいているようにすることです。

それによって、その思考が過ぎ去っていくタイミングにも気づけるようになるはず。その瞬間が幕間を感じる大チャンスなのです。

存在としての単純な自分に気づく

この社会の通説として、人は誰かに必要とされて何ぼだ、というのがありますね。要するに、人に必要とされなければ価値がないと言っているのです。

確かに、例えば大人になって職場であなたは必要のない人間だと言われたら、誰だって相当な心の痛手を負うことになるでしょう。

だから人から必要だと認識されることは、心の平安のためにはとても重要なことだというのは理解できるのです。

けれども、それは社会というシステムの中でのことでしかありません。この社会は必要なものではありますが、本質的なものではないのです。

私たちは社会の中で生きるのですが、社会に迎合したり社会に染まるべきではないのです。さもなければ、あるがままのあなたが台無しにされてしまいます。

私たちは自分に対して、二つの見方を持っています。一つは存在としての単純な自分、もう一つは社会の中で機能する自分。

幼い頃に自分の存在に目が行かないままで大人になってしまうと、後者である社会の中で機能する自分の価値にしか目が行かなくなるのです。

社会の中で、人よりも抜きん出た成果を出すこと、人に嫌われないこと、要するに人に必要とされることこそが自分の価値だと勘違いしてしまうのです。

そうなると、最も邪魔なのは無邪気な自分になるのです。だから、無邪気さを地下室に閉じ込めて、一生陽の目を見られなくするのです。

こうなってしまったら最後、いずれこの人生は破綻してしまうでしょう。大切なことは、存在としての単純な自分に気づくことです。

人から必要とされるか必要とされないかは、存在とは全く縁のない話しであることを理解しなければなりません。

自分は人に必要とされるために生きているのではないという、腹の底からの深い理解が絶対的に必要なのですね。

理想を掲げない

もしもあなたが生まれたままの無邪気さを見失うことなく生きていれば、あるがままの自分でいられることになるのです。

一方で、自分に対してある種の理想を作ってしまったとしたら、常に自分をその理想に向けて矯正し続けなければならなくなるのです。

それは途方もなく困難な人生を生きねばならないのは明らかですね。そのままのあなたが、あなたが作った理想とはかけ離れているに違いないからです。

どれほど頑張ったところでその溝が埋まることはありません。その無意味で絶望的な頑張りには、それこそたくさんのやり方があるのです。

ある人は、どこからどう突いたところで正しい人と思われるように頑張るのです。清廉潔白を目指し、それによって罪悪感から逃れようとするわけです。

またある人は、誰よりも抜きん出た才能や実績を残すことに命をかけようとするのです。そうして特別な自分であろうとするのです。

どんな努力であれ、作り上げた理想とやらに向けた虚しい気違いじみた努力が延々と続いていくことになるのです。

なんて哀れで、悲しい人生でしょう。自分に対して理想を掲げてしまうとそうした人生が待っているのです。

寸分違わぬあなたのままで全体性は充分に満足しているのです。そのことに少しでも早く気づくことが清々しい毎日を生きるカギとなるでしょうね。

ただ見守ること

このブログでお伝えしてきたことは沢山あるようにも見えるのですが、究極的にはたった一つだけだとも言えるのです。

それはただ見守ること。これですね。自分のマインドの中にやってくる煙幕のような思考、あるいは襲いかかってくる感情を見守ることです。

すると、思考や感情といったお決まりのものではない新たな要因、つまりは見守る者としての自己を理解できるようになるのです。

この理解があなたを根本から変革してしまうことになるのです。これまでのあなたの毎日は、見られる者としての人生ばかりでした。

それが、見守る者としての毎日が大きくなってくるので、それまでとは全く異なる人生になってしまうのです。

自我の辛さは見られる側としての自分がいるからです。見られるとは判断される、裁かれる、否定されるということにつながるのです。

一方でただ見守るということは、そこにはどんな思考も入らないし、だからこそそこには自我の要素も入り込めないのです。

見守ることは意識的であることと同値です。常に気づいていることとも同じ。この練習を繰り返すことで、一人でに自我は力を失っていくことにもなるのですね。

自己否定は親二世の仕業

誰であれ大なり小なり自分を否定しているマインドの部分を持っているものですね。今日は、事柄を単純化するために、自己否定は親二世の仕業であるとします。

親二世というのは、これまた誰のマインドの中にもあるのです。5、6歳くらいまでの間に怒りと共に自分を否定してくる親の代役が作られるのです。

その理由は否定される側だけの辛さを対処するために、親とそっくりな親二世を作ってそれが自分自身を否定するようになるのです。

親二世は否定する側になるので、その分トータルで見れば辛さが回避されるわけですね。もちろん、否定される側は辛いままですが。

なぜ親が子供に対して怒りと共に子供を否定するかといえば、その親のマインドの中にも親二世がいるからです。

そうやって、親二世は防衛の仕組みを利用して代々伝搬していくことになるのです。親二世はなかなか強いエネルギーを持っています。

というのも、親二世のバックには本物の親が控えているので、否定される側としてもなかなか太刀打ちできないのです。

成長して自己否定というバカバカしい仕組みをやめたいと思うのであれば、親二世の存在に気づく必要があるのです。

そもそも防衛のために親二世をこしらえただけなので、それが向けてくる自己否定には何の根拠もありません。そこをしっかり見ることです。

否定される側の自分と自分を否定する親二世の両方を均等に見守ること。それを繰り返すことで、マインドの中は静かになっていくはずです。

そうやって自己否定の何ともバカバカしい様に気づくことができると、生き方が自ずとシンプルになっていくでしょうね。

自分のこと90%、外側の世界10%

あなたが自我と同化しているのであれば、つまり自分のことを一人の個人として見ているのであれば、とことん自分を救うことに労力を費やすことです。

良い人ぶって、他人の人生に干渉して、何とかして助けようとすることが、どれほどバカバカしいことかを見ることです。

なぜなら、自分の人生すらロクに救うことができずにいるのに、一体何様のつもりで他人の人生に足を踏み入れようとするのか?

他人の仕事を取ろうとしないこと。他人の人生の問題を解決することなど土台無理なことなのです。

それよりは全力で自分本位な生き方をすることです。誰のことよりも自分の思いや気持ちを優先すること。その際やってくる罪悪感に負けないこと。

自分をしっかり守り、自分を救うことができたときに初めて、余力を外に向けることに意味が出てくるのです。

それまでは、徹底的に自分を見るのです。自分が90%で、残りの10%で外側の世界を見るくらいがちょうどいいのです。

自分に対して正直になること。極端なことを言えば、人を騙しても絶対に自分を騙さないこと。さもなければ、人生は悲惨なことになってしまいます。

いつも自分の気持ちや想いを見つつ、それを尊重してあげることです。最上級のおもてなしの気持ちで見守ることですね。

あなたは何ものにも縛られなくていい

父親の実家に、代々伝わる家系図があって、始まりは武田信玄の家臣だった人だと聞いたことがあります。

武田信玄は生誕1521年12月1日の人らしいので、今から500年前に生まれたのですね。(ちなみに私と誕生日が同じです、関係ないか…)

つまりその家系図には500年くらいの長きに渡って、代々の人物の名前が記されているのです。何だか貴重な情報のような気がしないでもありません。

けれども、実際には家系などというものには全く興味もなく、いわゆるご先祖様への供養みたいなことにも興味がないのです。

500年続いた家系であろうと、それが滅びたところで何とも感じないし、お墓を守る的な感覚も全くありません。

家とか家柄、家系といったものへの執着が皆無なのです。そういうものを大事にする人もたくさんいることは知っています。

それが悪いということではないのですが、もしもそこに特別感や執着といったものが付着するのであれば、それは醜悪なものになってしまいます。

家族といえども別に特別なものではないのです。家族と共に暮らせばいいと思いますが、それでも一人でいるように生きることです。

自分が何かに縛られるようなことがあったら、それこそ不自然で不自由な人生になってしまうからです。

あなたの周りに、あなたの自由や無邪気さを奪うようなことを働きかけてくる人がいても、一切気にせずに自分のままで生き切ることです。

少しの勇気が必要かもしれませんが、その恩恵は計り知れません。せっかくの人生をできる限り清々しいものにしたいものですね。

5000個目の投稿

さあ今日もブログを書こうと思って管理画面に入ったところ、ふとブログの投稿数が4999個になっていることに気づきました。

キリ番というのがありますが、特に気になることもなかったのですが、これが5000個目かぁと思うと、ちょっとした感慨深いものがありますね。

毎日書くってすごいですねぇと言う人もいますが、続けるためには毎日の方が都合がいいのは明白です。

当初は、書きたい時だけ書けばいいくらいに思っていたのですが、それをやっていたら絶対に続いていなかったはず。

毎日は面倒だから1日おきでいいやとやっていたら、それはもっと難しいはずなのです。習慣化するためには、毎日以外にありません。

そしてそれが最も無理のないやり方なのでしょうね。これは決して意図してこうなったわけではなく、気が付いたら毎日書いていたと言うだけです。

きっとサラリーマンの時のような生活スタイルであったら、不可能だったはずです。私の毎日は基本的にはフリータイムが続いているようなもの。

クルマの充電に30分ほどかかるのですが、それもまったく苦にならないのは、やるべきことがほぼない毎日だからです。

若い時のようにやるべきことが沢山あるなら、続けるのは相当に難しいはずです。私の場合、書くことが浮かんでこないときには、来るまでが瞑想タイムのようなもの。

それもいいように後押ししてくれていると思っています。自我の習慣が全て悪いもの、と言うわけではないのですね。

深刻さを撲滅する

当然のことながら、人生はさながらゲームのようなものだと気楽に思っている人は、決してセッションにはいらっしゃらないはずです。

ここで言うゲームというのは、深刻なゲームではなくて戯れのことです。幼い子供の遊びのようなものです。

そのような遊びは、それ自体を楽しむのが目的であって、それ以外のどんな目的もありません。だからこそ、深刻さとは無縁なのです。

けれども、最近のゲームはたとえ子供向けであるにせよ、そこに戦いの要素があったり、強い刺激があったりして、深刻さが入り込んできているのです。

なぜなら、その方が自我の戦闘意識を刺激して、より深刻にのめり込む要素が盛り込まれているからですね。

私がよくこのブログでもお伝えしているように、人生を物語として見るという姿勢こそ、深刻さからの解放でもあるのです。

長いこと癒しの世界に携わっていて思うことは、深刻さほど癒しを邪魔するものはないということです。

物事に対して真剣に向き合うことは素晴らしいことですが、深刻になってしまうとそこからあらゆる苦悩が生み出されるのです。

生きて、死ぬだけなのに一体なぜそれほどまでに深刻にならなければならないのか、それをじっくり見つめてみることです。

もしもあなたのマインドの中にある深刻さが、半分になってしまうなら、それだけで人生を楽しむことが容易にできるようになるはずです。

このことを忘れないことです。そして、深刻さがどこからやってくるのかを解明して、そこから離れている練習をすることですね。

ぜひ試してみて下さい。