真ん中は空けておく

私たちのマインドというのは、非常に多くの思考が凝縮されていて、それらがたくさんの人格の小片のようなものを作り上げています。

天使のように純粋な奴もいれば、反対に悪魔のような奴もいるのです。善人がいれば、悪人もいる。男性がいれば女性もいるのです。

大人もいれば、幼い子供もいる、といった具合に一人のマインドの中にはありとあらゆる人格の小片がギュウギュウ詰めになっているのです。

誰のマインドも基本的にはそのような状態で活動しているわけです。そのごった煮のようなマインドを綺麗にしようなどと考えないこと。

マインドとはそういうものだからです。自己否定をやめようとか、人種差別をやめようとか、嫉妬をやめよう等々。

そういった改善マンも、マインドの中にいる沢山の人格の一つに過ぎません。最も賢いやり方は、それらには一切手を触れないこと。

そしてどの小片にもマインドを乗っ取られないように注意深くあることです。そのためには、マインドの中心を空っぽにしておくのです。

そうして空っぽの中心から、周辺に散らばっている人格の小片を見守ることです。見守ることだけに徹することです。

それが可能になれば、マインドの中にどんな奴がいようと何の問題もないことに気づくはずですね。

自我が自分を束縛する

人は本来自由であるべき存在なのですが、残念ながら程度の差こそあれ誰もが何らかの不自由さを抱えながら生きているのです。

そして私たちはその不自由さの原因は外側にあると思い込んでいるのです。なぜなら、自分は自由を標榜しているのに、結果は不自由だと感じるからです。

あの人がそばにいるだけで、何だか自由でいられなくなってしまうとか、社会や家庭のルールに縛られて不自由になってしまうのだとか。

とにかくより自由でありたいと願っているのに、外側からのあらゆる妨害にあって不自由な人生にさせられていると信じているのです。

けれども、幼い子供の頃ならまだしも、大人になって成人として認めてもらえるようになったなら、あなたの不自由さを外側にある何かのせいにしてはいけないのです。

不自由さの原因はあなた自身にあるからです。あなたのマインド、あなたの自我があなたを束縛しているのです。

あなたの自我が元気なかぎり、あなたは束縛され不自由さから逃れることはできないと知ることです。

自我はいつも取引しているのです。あなたの自由を差し出す代わりに、安心を手に入れようとすることをやめられないのです。

この防衛から手を引いて、できるだけ無防備に生きることができるなら、不自由さはその分だけ小さくなり、自由で清々しい毎日を手に入れることも可能なのですね。

生死とは無縁の意識

小学3年生の頃、何のきっかけだったかは定かではないのですが、ふと死んだらどうなるんだろうと思ったのです。

そうしたら、急に怖くなって顔面が引きつったようになって、母親に助けを求めたところ、そんなことは考えなくていいと言われたのです。

自分もそうだ考えなければ大丈夫と無理やり自分をなだめて、その場は落ち着きを取り戻したのを覚えています。

その経験があってからは、死について考えることをタブーにしてきたのだと思います。あの恐ろしい感覚はその後一度も味わってないのですから。

けれども、今になって死を見つめることでしか、自分のビジョンを変容することはできないということに気づきました。

神を求めて神に救われるというのは間違いだと気付いたのです。代わりに死をどのように受け止めるか、ここが大切なのです。

というのも、死に際してどのようにそれを見守るのか、自分が死んで行く様を見つめていられるならば、死は通り過ぎていくはずだと。

なぜなら、死ぬのは肉体と自我だと理解できたからです。本当の自己は肉体でも自我(マインド)でもないという理解。

そうした理解が深くなればなるほど、それが単なる知識ではなく自分の気づきとして定着すれば、人生最後のビッグイベントを悠々と見守ることができる。

その時のための練習は、日々できるだけ意識的であり続けることなのです。あなたの意識も人生における生死とは無縁なのですから。

ちょうど真ん中

自我は自分の存在を明確にしたいと常に思っています。群衆の中に埋もれてしまって、いるのかどうか分からなくなってしまいたくないのです。

私はここにいるよ、みんな見てね!と訴えているようなものです。要するに、自分自身で自分の存在を確定できないのです。

だから自我は他者が絶対的に必要なのです。他者に見られることで、他者に認めてもらうことで生き延びられるのです。

だから、ふつうであるよりも特別でありたいのです。何でもない者でいるよりも人かどの者でありたいわけです。

こうした傾向が私たちを真理から遠ざけてしまっているとも知らずに。真理にフタがされて忘れ去られてしまったのです。

真理は極端から離れて、ちょうど真ん中であることでしか体感できません。特別であろうとすればするほど、真ん中から遠ざかることになるのです。

どれほど特別だと言われたところで、喜んでいるのはあなたの偽物の部分だけで、あなたの本質からはほど遠いのです。

こうしたことを見抜くこと。ちょうど真ん中である時だけ、あなたの本質に気づくことができるのですから。

思考と感情は関連し合っている

昨日のブログでは、感情を解放することが癒しの基本中の基本であるということを書きました。感情が出てこないという人にとっては耳の痛い内容かもしれません。

けれども、感情を味わわなければとムキになるとかえって抑圧が強くなってしまうこともあるので、自然に任せておくことです。

感情が大量に蓄積してしまうと、思考に影響が強く出てくることも知っておく必要があるでしょうね。

思考がいつまでもグルグル動き続けてしまって、頭の中が静かにならないと訴えてくる人がいますが、その原因は感情です。

大量の感情は膨大なエネルギーを溜めていて、その力が思考に活力を与え続けるのです。そのため、瞑想は難しく感じるでしょう。

思考が感情を生み、また感情が新たな思考を巡らすことになるのです。こうした思考と感情の関係を知っておくことです。

思考と感情はそのように互いに関連し合っているので、どちらか片方だけが静かになるということはありません。

少しずつ思考が緩めばその分だけ感情の抑圧が小さくなるし、感情が解放されてくるとその分だけ思考の活動が小さくなるという具合です。

ですので癒しを進めるにあたって、できるところから無理せずに継続させていくことが大切だと思いますね。

感情の解放と思いもよらぬ効果

癒しを進めていく上で、どうしても避けて通れないものとして感情を味わうということがあります。

癒しの基本中の基本ですね。もちろん、それ以外にも沢山の癒しの方法があるのですが、感情が蓄積したままでは越えられない境地があるのです。

感情の種類は色々あるでしょうけれど、きっとどんな感情であれ真に味わうことができれば、大きな変化が訪れてくれます。

訪れるという言葉を使ったのには意味があるのです。それは、あの時のあの感情を味わったので、効果はこうなるだろうという予想ができないからです。

変化は思いもよらぬ所に起きたりするのです。要するに直接的ではなく、間接的に起きるということです。

私自身が経験したことですが、幼い頃のものと思われる悔しいという感情を味わった時のこと。「僕は悪くない!」と言葉にすると、物凄い大きなエネルギーが腹の奥から上がってくるのです。

自動的に腹筋に思い切り力が入る感じで味わっていたと記憶しています。悔しいというのは怒りの感情ということです。

それを何度か繰り返してクタクタになった次の日、二つのことが起きました。一つは、人との間に無意識に作っていた対立が取れたのです。

そしてもう一つは、人に助けてもらってもいいという許しがやってきました。この二つだけでもすごく楽になって、優しい気持ちになることができたのです。

このことと、前日の怒りの解放が関連していることは確かですが、あくまでも間接的な効果ではありますね。

懐疑的な目で見る

日々の生活の中で、自分には二つの状態があるということに気づきます。その一つは、人生物語の中にどっぷり浸かっている状態。

そしてもう一つが、その物語からしばし離れて、これは一体何なのだろう?と懐疑的な目で全てを見ている状態。

前者の場合は、基本的には無意識的になっているはずなのです。ちょうど睡眠中にやってくる夢の中と同じです。

あるいは大好きなゲームに没入している状態とも同じです。頭もフル回転しているし、人格の全てを使っているのです。

けれども、意識だけが眠ってしまっている状態なのです。充分に集中しているのですが、とにかく物語の中に組み込まれてしまっているのですね。

一方後者の状態では、まず立ち止まっているという感覚があるはずです。外側では様々なことが現在進行中ですが、そこからは切り離されているのです。

そしてこれ、これは何なのか?この全てを疑ってかかっているのかもしれません。この現実は夢と何が違うのかを疑っているのです。

この状態は意識的であるということが言えます。一点集中ではなく、全方位への集中です。この達観している状態がないのであれば、それは動物と同じです。

意識的でいられる時間が少しずつでも増えていくように、そう心がけて生活したいものですね。

深刻さは自我の餌

自分自身のことや自分の身に起きることを、とかく深刻に捉えてしまう人がいるものです。それは一体どこからやってくるのか?

もちろんのこと、それは本人の不安が大きくてそれを何とかしようとして余裕のない状態になることが原因なのです。

余裕がなくなると、視野が狭くなって自分の思い込みの世界へと没入して、そこから抜け出せなくなってしまうのです。

そうなると深刻さは当然の帰結としてやってくるのですね。同じことが起きてもそれほど深刻にならずに済ませることができる人もいます。

深刻になったところで、何も利点がないことに気づいていれば、深刻になることが馬鹿馬鹿しくなるのです。

その最も極端な例は達観するということです。問題らしきものが起きて、そこから距離ゼロのところであたふたしている自分から距離を取れるということです。

達観することができると、物事を物語として見れるようになるのです。そこには深刻さは微塵もありません。

昨日のブログでも書いたように、海面でのドタバタ劇を深海で見守る境地、これが達観するということです。

深刻にならずにいられるようになると、自我は困ってそのエネルギー(活力)が奪われていくことにも気付けるといいですね。

マインドは多重人格

もしもあなたのマインドが一枚岩で出来ているのであれば、セラピストなんて職業はすぐに必要なくなるはずです。

ところが実際にはマインドというのは、多くの断片に内部分裂しているのです。お互いが足を引っ張りあって、瞬間瞬間に力の強いものに飲み込まれるのです。

もしもあなたのマインドの100%が癒しを進めたいと願っているのであれば、すぐにでも癒しは進んでいくはずです。

実際にそうならない理由は、癒しに全く興味を持っていない人格がいるし、癒しを怖がっている人格もいるのです。

そして、癒しに真っ向から反対の立場にある人格もいて、それはあらゆる方法を駆使して癒しにブレーキをかけ、妨害してくるのです。

まさかそんなことがあるはずがない、わざわざ時間と労力とお金をかけてセッションに赴くのだから、全面的に癒しが進むことを期待しているはずだと。

けれども本当はそうした表面的な人格は、マインド全体の1割もいない可能性だってあるのです。そこを理解することです。

マインドは自分自身の思いの戦場だと思って欲しいのです。それぞれが展転バラバラに活動して、自分の思いを優先しようと躍起になっているのですから。

そうした海面近くのバタバタ劇こそがマインドの姿であり、本当のあなたはそれを深海から静かに見守っているのだと気づくことができるといいですね。

死ぬのは自我と身体

誰もが平等に背負っているもの、それが死ぬということです。生まれたからには必ず死ぬことが決定しているわけです。

そこにはどんな例外も認められないのです。その絶対的な平等さの中で一体何が死ぬのか?死ぬのは自我と身体です。

いつかは身体が朽ち果てていくことに疑問を持っている人はいないでしょうが、自我が死ぬことは認めたくない人もいるのです。

それで永遠の命というものが手に入らないかと考え出すわけです。不老長寿を願うのもその一つかもしれません。

どれほど永遠の命を望んだところで、いずれあなたは死ぬのです。あなたという自我が死ぬことになるのです。

けれども、あなたの本質である純粋な意識にとって、死は決して訪れることはありません。死ぬための何もそこにはないからです。

生き死にというのは、この時空の次元内で起こることなので、意識はその範疇ではないのです。

繰り返しますが、残念ながら個人としてのあなたは必ず死ぬことになるのですが、本当のあなたは死なないということです。

もしもあなたが意識としての自己を深く理解して、その永遠性を見抜くことができれば、人生の半ばにして自我の死を興味を持って待つことができるようになるかもしれませんね。