常に「ここ」だけがある

自分が今どこにいるのか分からないという人はいないはずですね。今椅子に腰掛けてこのブログを読んでいるとか、お風呂に入っているとか、ベッドで横になっている等々。

つまりこのことは、自分の肉体がどこにいるのかということを知っているということに過ぎません。では、自分の本質はこの肉体ではないと気づいている人にとってはどうでしょう?

肉体ではない自分は一体どこにいるのでしょうか?肉体以外は見ることができないので、結局ここにいるという感覚だけが頼りになるのです。

もちろん誰だって肉体と共にいると思っているのですが、本当は肉体と自分を繋いでいるナニモノもないということも分かっているのです。

肉体ではない何かが、肉体に結び付けられるというのも、どうも納得し難い感じがするからです。

目を閉じて深く瞑想に入っていくと、最後には自分はどこにもいないと気づくか、あるいは全体だというのがやってきます。

肉体がなければ、どこかの空間を局所的に占有することはできなくなってしまうからです。結局、今この瞬間にただここにいるということだけが残るのです。

この場合の「ここ」とは場所を指すのではありません。「ここ」だけが実在だからです。「ここ」以外のどこも存在しないということ。

そう、本当のあなたはどこかへ行くこともできないし、移動することもできません。常に、「ここ」だけがあるのですから。

覚者たちの大いなる秘密

それに心を乱されてはならない。よく考えなさい。よく見つめなさい。それは大いなる秘密、覚者たちの大いなる秘密のひとつだ。すべては取るに足りない、つかの間の真夏の夢だということに、ただ油断なく醒めていることだ。それは過ぎてゆく。それはすでに過ぎてゆこうとしている。

by osho

実在は生まれることもないし、だからこそ消えることもない。ただ生まれたものだけが消えていくことができる。

生まれたのだからいつかは消えていく。そのことの深い理解を持ってこの世界を見つめてみれば、この一切合切が過ぎていくものだと分かる。

永遠以外はすべて実在するものではない。人類の歴史上、地球で生まれたあらゆる人々は、例外なく消えて行ったのです。

今生きている誰もがそのうちには死んで消えていくのです。だから、人生でなにが起ころうが、どんなに惨めで孤独で不安であっても消滅するだけなのです。

後には、一過性のものは何も残らない。所詮は取るに足りないもの、儚い真夏の夜の夢だということです。

であるなら、もっともっと気楽に何があっても巻き込まれることなく、されとて逃げるのでもなく、そこにいて淡々と見ていること。

過ぎ行くものを見ることは、真実である自己に気づくことにつながるのですね。

意識は光、思考は闇

闇に対しては直接何をすることもできないということ–
もし闇をどうにかしたければ
あなたは光について何かしなければ駄目だ
闇についてじゃない
光を消せば闇がそこにある
光をつければ
そこに闇はない
しかし闇をつけたり消したりすることはできない

by osho

↑これは一見当たり前のことのように見えて、実はとても深いことを言っているのです。私たちは、人生という闇の中でそれをこねくり回して光を灯そうとしているのです。

光とは意識のことだと思えばいいのです。光をつけるとは、意識を覚醒させるということに該当します。

一方、光を消すとは、意識が眠っている状態を言うのです。つまり、一般的には無意識と言われる状態を指します。

無意識状態で活躍するのが思考、つまり物語なのです。それは私たちの人生であり、あるいは睡眠中に見る夢でもあります。

意識という光を消して無意識状態になると、思考という闇が現れて、そこで物語が起きているように見えるのです。

そして私たちが日々戦っているのは、その闇である物語の中で不可能な光を灯そうとしているということ。だからそれは決して実現しないのです。

光である意識は、思考という実在しない闇のはるか外側にのみ実在するからです。人生という物語の中で、光をこしらえることはできません。

そこに意識という光を灯すことで、物語である闇が自然と消滅してしまうということに気づく必要があるということですね。

あなたが満たされたいのなら、意識という光を持ち込むこと以外にはないということです。

マインドという歪んだ鏡

どんな判定もなしに
ただあなた自身の内に坐り
そして眺める
何を見ることもなしに眺めること
眺めれば眺めるほど
見出すものは少なくなるものだ
深く目をやればやるほど
思考は姿を消す
ひとたびこれを知ったなら
鍵はもうあなたの手中にある

by osho

なにかを見ようとせずに眺めるとはどういうことか?私たちは、視覚から入ってきた情報を解釈するクセがついてしまっているのです。

そのクセに気づいて、視覚情報を解釈せずにただ見るようにするということです。だから、眺めれば眺めるほど、見出すものは少なくなるのです。

つまり、どんな解釈、判断もせずにただ見る、眺めるなら、そこに物語性を見出すことがなくなっていくと言っているのです。

私たちの判断、解釈こそが物語性を生み出す張本人だからです。自分の周りには元々どんな物語も存在していません。

ただ眺めていることができるようになると、このことに気づけるようになるのです。それはすなわち、思考が姿を消していくことになると言っているのですね。

このことを深いレベルで理解することができるようになれば、すべてを投影するマインドがなくなっていくのです。

投影することがなくなれば、私たちの内面はピカピカの鏡のように、ただ周りにあるものをあるがままに映し出すようになるということです。

マインドという歪んだ鏡によって、自分に都合のいい物語を日夜映し出しているのが、私たちの人生だということです。

思考を止めようとせずに見守ること

自分自身を
ひとつの思考がほかの思考と戦う戦場にしてしまわないこと
それよりむしろ観照者でいるのだ
あなたはただ
たくさんの思考が漂っているのを見守るだけでいい
彼らは必ず止まる
ただし、あなたのストップによってじゃない
それが止まるのは
あなたがもっと醒めることによってである

by osho

瞑想しようとすると、どうしても思考を止めなければと思ってしまうのですが、そうではないということを言っているのです。

なぜなら、止めようとするその意欲がエゴのエネルギーを含んでいるからです。だから、それも一つの思考としてエネルギーを貰えることになるのです。

そうなれば、思考が止まることはありません。勢いのある思考が小さくなっていくことはあっても、思考は継続してしまうことになるのです。

エゴが思考を止めることは不可能だと理解することです。それよりも、ただ見守る訓練をすることです。

見守ることに徹することで、思考に余分なエネルギーを注ぐことがなくなって、勝手に思考は力を失っていくのです。

それと同時に、見守る(意識を向ける)ことを継続することで、あなたはより醒めることになるのですね。

 

マインドをからっぽにする

からっぽで
自由で
そして自然でありなさい
それをあなたの生の最も根本的な原理にするといい

by osho

からっぽというのは一体何を意味しているのでしょう?それは、欲望がないということ。希望や期待、夢や望みなどがないということ。

だからとても難しいのです。あるいは、固有の主義主張のようなものがない、善悪や正不正などを判断するどんな基準もないということ。

そして、どんな制限や制約、ルールなどもない。〜べき、あるいは、〜ねばならないなどの決め事、義務も責任もないということも含まれるかもしれません。

要するに、私たちが親や社会などから授かったあらゆる教えでいっぱいになってしまったマインドをからっぽにしなさいと言っているのです。

そうしたら、おのずと自由になりそれが自然な生き方になるということなのでしょうね。そして、そのことを生きる上での根本原理にするといいと言っているのです。

からっぽなマインドこそ、生をシンプルにするのです。そしてそれこそがマインドを消滅させてくれるのですね。

絡み合った思考群をほぐしていく

寄り集まった思考
何百万という思考の群があなたに
あたかも<心>というものが存在しているかのような幻覚を与える
それはちょうど<群衆>のようなものなのだ
何百万という人たちが群れ集まって立っている
だが、いったい<群衆>などというものはあるのだろうか?

by osho

この写真はイトミミズですが、見たことありますよね?金魚の餌などとして売られていたりします。

いつもこんな感じで、何千何万匹というイトミミズが集まって、何やらそこそこの大きさの一匹の生物の体をなしているのです。

もちろんこれは、一匹ずつ単独だとあまりに小さくてか弱い存在なので、互いに身を寄せ合うことで大きな生物に見せかけて身を守ろうとしているのです。

私たちの心(マインド)もこれと全く同じものだと思えばいいのです。一つひとつは、小さな思考なのですが、それらが無数に寄り集まることであたかもマインドがあるかのように見せかけるのです。

けれども osho が言うように、それは幻想なのです。マインドというものが実在するわけでは決してありません。

ただ2〜3歳の頃から、少しずつ思考が集まってきて、それらが複雑に絡み合って簡単にはほぐれないようになっているのです。

絡まった思考を一つひとつ丁寧にほぐして行くためには、思考の中で揉みくちゃになっている自分に気づいて、思考を見てあげることです。

思考は意識されるとそのエネルギーを失い、自らはずれていくのです。それを繰り返して、全ての思考がバラバラになったとき、マインドとエゴが同時に消えていくのですね。

 

自分が作った現実を生きている

最近、平日の午後に母親を連れて自宅からクルマで30分程度のところにある、神代植物公園というところに散歩に行くのです。

母親は、数年前に転んで股関節を骨折したせいで、障害者手帳を取得している身分なのですが、その手帳のおかげで本人と付き添い一人までは入場無料なのです。

通常だと入場料大人500円と駐車場代も払う必要があるのに、そのどちらもが無料となるとあって、これはいかない手はないということになったのです。

家の周りを散歩するのと比べれば、それはもう比較にならないくらいに気持ちのいい場所なのです。

広大な敷地の中に、それこそ無数の植物が綺麗に管理されているし、ほとんど人影もないくらいに感じられるくらい、とにかく広くて気持ちいいのです。

ところが何度も繰り返し行くうちに、次第にあの広大な感じが少しずつなくなってきたのです。きっと、園内の地理が頭に入るようになったからなのでしょうね。

園内を頭の中で把握できるようになると、あの初めての時に感じた広大さというのは減ってきてしまいました。もちろん、物理的な広さに変わりはないのですが。

つまり自分が感じていた広大さというのは、事実ではなくて、自分がこしらえた感覚に過ぎなかったということですね。

初めてのところに行くときには、遠く感じたはずなのに、帰り道は意外に近く感じたという経験は、誰にもあるはずですが、あれと同じこと。

私たちは、事実としての現実の中を生きているように見えて、実は自分がこしらえた感覚の中で生活しているのだということがよく分かりますね。

物語の中で生きているというのも、これと同じようなものだと理解することです。

あなたの人格と実存の違い

自分のまわりに人格という衣を着て歩かないこと
ひとつの固定化された態度を持って歩かないこと
水のように自由でいるのだ
自然が導いて行くところならどこへでも動き
そして漂い続けるのだ
抵抗しないこと
あなたの上に
あなたの実存の上に
いかなるものといえども押しつけようとしないこと

by osho

↑これを読んで、しっくりこないとしたら、きっとあなたの人格とあなたの実存の違いが分からないからだと思って間違いありません。

私たちは、自分のことを人格だと思っているからです。人格とは生後作り上げたはりぼてのようなものなのです。なぜなら、中身は空っぽだから。

経験とその記憶、そして押し付けられた考え方や規則などによって、作り上げられたもの、社会に適合するための着ぐるみ、それが人格なのです。

だから人格という衣を着て歩くなと言っているのです。あなたがまとっている人格という衣を脱ぎ捨てることができれば、水のように自由でいられると言っているのです。

本当の自由とは、人格からの自由をいうのです。その人格を使って自分を守ろうとしているのがエゴなのです。

そしてすべてを脱ぎ捨てた後に残るもの、それこそがあなたの実存だということですね。

癒しはタマネギの皮剥きに似てる

癒しというのは、タマネギの皮を剥いていくのに似ています。というのも、癒しは何か新しいことを学んで、身に付けていくのと反対だからです。

生後せっせと身にまとった皮を、一枚ずつ剥いて行くのです。もちろんその皮とは家族や社会から押し付けられたルールや考え方、あるいは常識のようなもの。

そういったものを表面から丁寧に剥ぎ取っていって、最後には幼い頃に作り込まれた自己イメージを脱ぎ捨てていくことになるのです。

タマネギを最後まで剥いても、その後に何も残らないというのも癒しと全く同じなのです。まとってしまったものをすべて脱ぎ捨てるとき、そこには何も残りません。

私自身、癒しの途中であることに気づいたことがありました。それは、昨日までの「私」(←ここには私のフルネームが入ります。)はもういないと…。

深いところで、自分の名前をつぶやいても何となくそぐわない感じがしたことがあったのです。それは不思議でしたが、気持ちのいいものでした。

自分の名前を何度か心の中でつぶやいてみて下さい。それがしっくりくるうちは、まだまだ癒していく必要があるということです。

ただし、気をつけなければいけないのは、自分の存在を否定しているような人の場合にも、自分の名前がそぐわないという感覚になる場合があるからです。

自分のアイデンティティが消えていくとき、誰もが全体性へとシフトしていくのです。それでも普通に社会の中で生きていくことができますよ。