生の体験のままに

普段私たちは、「自分」と言う主体が体験をコントロールしていると感じているのですが、実際には正直に観察してみると、音や感覚などの「体験」がただ先に起きていると分かります。

そしてそのすぐ後に、「それは私の体験だ」というラベルが貼られていると言うことに気づくことができるのです。

この順番をいつも意識しておくことで、生の体験だけをそのままにしておくことができるようになるかもしれません。

これが直接の体験に留まるということです。体験者と体験対象というのは、いつも思考によって後付けされた物に過ぎないのです。

「私」と言う中心的な存在が実在しないのであれば、「私と他人」、「自分と世界」と言う分離もまた、思考が作り出した景色に過ぎないのだと。

「私はいない」と言う見方と「全ては私」と言う見方は、結局のところ「分離のない一つの現れ」と言う同じ真理を指しているのです。

これを思考で理解しただけでは、とても満足できるモノではありませんね。実感を伴うことでしか、自分のものにならないからです。

そのためには、日々の物語に呑み込まれないようにして、思考からの答えに惑わされないように心がけることが大切ですね。

現実とは?

結論から言うと、現実とは解釈や概念が乗る前の「起きていることそのもの」と言うことになります。

ただし、それは固定した「何か」ではなく、絶えず変化しているプロセスなのです。私たちが普通に思っている「現実」と言うのは、

外の世界があって、それを自分が見ている。それが現実であると。つまりは客観的に存在するものとして捉えています。

ところが、しつこく正直に観察を進めていくと、実際に直接わかるのは、色や形、音、身体の感覚、思考や感情だけだと気づくのです。

つまり、全ては体験としてしか現れていない。外の世界があるかどうかは別として、外の世界そのものにはまったくノータッチなのです。

普通の見方では、現実は「物」でできているとするのですが、観察が深まると現実は主体も客体も見つからず、現れだけがあるのだと。

これを非二元と呼ぼうが、他の呼び方で表現しようが構わないのです。ただ、あらゆる構造が消えた後に残るシンプルな現れのみがあるのですね。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

雲の形に失敗作はない

誰かの言葉で、「雲の形に失敗作はない」というのがあります。初めて聞いた時に、ああなるほどなと思ったのです。

もちろんその逆で成功作もありません。つまり、雲の形については成功/失敗というジャンルで見ていないということです。

同じようにして、夜空に散りばめられている星をみて、そこに優劣をつけることは普通はないはずです。

その星々がただそうあるように、そのままを見ているわけです。つまり自然界のものに対しては分別をつけずに観ることができるのです。

ところが、人工物と思われるものについては、例えばクルマや飛行機のような乗り物を対象にすると、そのフォルムに好き嫌いが起きてきたりします。

対象が人物であればなおさらです。かなり強い仕分けを行なってしまうはずですが、実は自然界であれ人工物であれ、全てが現れであること。

その非二元の立場に立った時には、あらゆるものを仕分けすることができなくなるのです。これは朗報ですね。

なぜなら、仕分けが少なくなればなるほど、自ずと苦しみから解放されていくことになるからですね。 

非二元がマイナーである理由

地上波のテレビ番組を観る代わりに、YouTubeの動画やNetflixの動画を観て過ごすことが殆どになったように思います。

とは言っても、YouTubeにしてもNetflixであれ、おすすめに上がってきたものを、ただ何となく観るだけで、何かの目的を持って観るわけではありません。

そんな中で、自分が非二元の動画を上げているせいなのかはわかりませんが、やはり似たような動画がおすすめに上がってくるのです。

先日は、昔本を読んだことのあるニサルガダッタ・マハラジの言葉を平易な表現で伝えている動画を観たのです。

それで驚いたのですが、丸々非二元のことを言ってると気付かされたのです。あるいは、今朝は老子の道徳経の解説動画を観たのです。

すると、その中の一部ですが非二元そのもののことを説明している部分があったのです。あれ、そういうことなの?

かつてマハラジの本を読んだ時には、非二元のことを言っているとは全く思わなかったし、老子にしても同じなのです。

それが、自分が非二元のことを伝えているというだけで、そこが目立ってきたということなのかなと。

非二元のことを知らずに、そうした偉人たちの話を聞いたとしても、その部分はスルーしてしまうということなのかもしれませんね。

なぜなら、非二元だけの説明だと日常の生活とかけ離れすぎていて、生きるヒントにならないように感じてしまうからかもしれないですね。

非二元の話が、世間でもう少し脚光を浴びてもいいのではないかと思っていたので、マイナーなままである理由が少し分かった気がしました。

不可能に気づく

最近、分別しないこと、仕分けをしないように心がけるということを実践しつつあるのですが、そこで注意すべきことがあるなと。

それは、分別しないことと、分別することを善悪のように仕分けしていると気づく必要があるということです。

分別しない生き方を目指すのであれば、そうでない生き方を否定してしまうという仕分けが起きているのです。

このことを一般的なことに広げてみると、何らかの目的を持って生きることは、すでにその目的とそうでないものとを分別しているということです。

ところが、それなら無目的で生きるという方を選ぶのであれば、それが善として仕分けしてしまっているということです。

もう薄々分かったと思いますが、どんなことであれこうしようああしようと思った瞬間に、そこに仕分けが発生してしまうのです。

ここで気づけることは、分別をしようがしまいが、どちらにしてもそういう現れが起きているだけだということです。

何も選ばないということを実践するなら、何も選ばないことを選んでいるということになるのです。どこまで行っても、自分が選んでいるということ、分別するということは不可能だと気づく以外にはないのですね。

4つのことを実践する

最近、自分で心掛けていることがいくつかあるのですが、それは非二元に関連したこととか、それ以外でもあるのです。

例えば、全ては現象として現れている、それを体験と呼んでもいいし、単にコレと言ってもいいのです。淡々と現象に気づいているようにする。

あるいは、全ては全自動で起きている、ということに意識を向けておく。単なる現れなのですから、それをコントロールすることができないのは当然です。

そして、放っておくということ。グルグル思考や感情などに巻き込まれないように、身体を動かし頭は放っておくのです。

最後に、分別をやめるということ。思考は何から何までふたつに分けてしまうのです。そして、都合のいい方を求めて、都合の悪い方を排除しようとする。

これが、苦しみとなることを忘れずにいると言うことです。上記の四つの事柄は、それぞれが互いに関連していることですね。

これらを同時に忘れずにいるということは、至難の業かもしれませんが、負荷にならない程度に実践していけたらなと思っています。

自我はどう生まれるのか?

「自我がどう生まれるのか」は、哲学・仏教・神経科学・心理学で少しずつ説明が違うようですね。でも共通しているのは、

「固定した“自我”が最初からある」というより、経験を整理する過程で“自分”という感覚が形成される、という見方。

たとえば赤ちゃんは、生まれた直後には、自分、外界、他人、時間、物体、を大人ほど明確に分けていないと考えられています。

そこから、この感覚は自分の身体、この声は母親、この動きは自分がやった、これは昨日と同じ世界、という区別を学習していくのです。

脳は膨大な情報を整理しないと生きていけないので、「この経験群をひとつの主体にまとめよう」という統合モデルを作るわけです。

それが「私」という感覚の核になっていくということです。神経科学的には、記憶、身体感覚、視覚、言語、予測、社会的役割、などが統合されるのです。

そして「連続した自己物語」が生成されると考えられているのです。つまり自我は、「脳内に存在する単一の司令塔」というより、統合された物語に近いのです。

仏教や非二元では、ここからさらに踏み込んで、「私がいる」という感覚自体が、後付けの認識ではないかと探求するのです。

例えば、音が聞こえる、思考が起こる、感情が起こる、行動が起こる、その後で、私が聞いた、私が考えた、私が決めた、という説明が付与されているのではないか、という見方。

自我は「機能」としては存在する、しかし「独立した実体」としては見つからないという方向に進んでいくわけですね。

AIは手に追えなくなりつつある

毎日話題に上がらない日がなくなってきた最近のAIですが、今のところそのほとんどがLLMという手法によるモノです。

超巨大なデータベースを学ばせて、そこに大量のパラメータを用いるのですが、その数は数十億〜数兆規模になっているらしいです。

このように我々がイメージしているよりも、根っこの原理はシンプルなのですが、ここで空恐ろしいことが起きつつあるのです。

それは、AIに問題を解かせたときに、内部でどのような動きを経て回答を出したのかが、当事者である開発者にも把握できなくなって来ているということ。

しかも、近い将来にはAI自身がより強力なAIを開発するようになってくるはずなので、そうなったらもう人間はお手上げです。

地球上の誰もその内部の動きを把握することができなくなってしまうのです。これは大変なことですね。

そうなる前に、世界中の知恵を総動員してでも、安全対策を考えていかなければならないのです。これは、陳腐な国境を超えて人類が力を合わせる必要があるということですね。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

「以上!」で終わらせる

昨日のブログでは、分別というのはこの世界を二つに分断してしまうということについてお話ししました。

分断することで、片方は好ましくて、もう片方は受け入れ難い。そうなると、必ず人は好ましい方にのみ執着をするようになるのです。

そしてもう片方に対しては都合の悪いこととして拒絶しようとする。これが、苦しみの根源であるということです。

ただ、二つに分けることをやめればいいと分かったとしても、そう簡単なことではありません。なぜなら、思考は分断することでしか働かないからです。

思考の申し子である言葉もまったく同じなのです。それならどうすればいいのか?仕分けはどうしても起きるのです。

そこはとりあえず仕方のないこととして置いて、実際に問題となるのはその仕分けを土台として、思考によってそれを強化してしまうことなのです。

あの人に失礼なことを言われた、これは都合の悪い側へと分断されてしまいます。つまり嫌なことを言われていないとの分断を引き起こすわけです。

けれども、その後に自分が悪かったのか?とか、なぜその人はそういう態度を取ったのか?などの思考を展開していくのです。

このような後に続く思考が、分断を強烈なものへと変えていくので、それを「以上!」の一言で打ち切るようにする。

あのクルマに強引に割り込まれた、以上!これで、仕分けを断ち切ることができるのです。これはとても大事な練習になると思いますね。

「分別」をどう見るか?

皆さんは、「分別」という言葉を聞いてどのようなことをイメージするでしょうか?一般的には、物事の善悪、道理を見分ける力と見るはずです。

例えば、分別のある人=常識的で判断がしっかりしている人だし、逆に分別のない人=軽率で無思慮の人だと。

つまりは、分別とは冷静に判断する知性や常識のことを指すわけです。ところが、仏教的な意味では違ってくるのです。

仏教では「分別」はむしろ注意すべきものとして扱われるのです。それは、対象を分けて捉える心の働きなのだと。

例としては、善悪、良い悪い、好き嫌い、自分と他人。つまりこれは世界を切り分けて理解しようとする思考なんだと。

なぜそれが問題になるのかというと、本来一つの現実をバラバラに見てしまうことで、執着を生むことになるからです。

理想に近い自分は素晴らしくて、現在の自分はまだダメだとして、自分のあるがままを断罪してしまうのです。

これが苦しみの原因であることは明らかですね。非二元でも、思考による二元化する前の現れだけがあると気づいているので、分別はあり得ないのですね。