知覚の届かないところ

私たちは、夢の中に出てくる自分とその夢を見ている自分自身が出会うことはないことを知っていますね。なぜなら、夢から醒めたときには夢の中の登場人物はすべて消えてしまうからです。

それと同じように、 この「私」はどれほど修行を積んだとしても、真実の自己に出会うことは不可能なのです。なぜなら、一方は単なる想念であり、もう片方は実在だからです。

一般的に、この「私」が単なる想念なのだということは、受け入れがたいことかもしれません。自分というものは、ここにこうして厳然としていると思っているからです。

今自分は、部屋の中に居る、外を歩いている、日本にいる、という具合に必ず、そして確実にどこかに立派に居るわけです。

確かにこの身体はどこかにあるわけですから、自分のことを身体と同一視している限りは自分はれっきとした一つの存在だと思えるのです。

そしてその同一視は、その上に瞬く間に心やそれ以外の沢山の体験を同一視し続けることによって、一人の人物としての自分が出来上がるのです。

その体験を根底で支えているのが知覚です。外的な知覚と内的な知覚の両方を休むことなく使い続けながら、体験を蓄積していくわけです。

しかし、真実の自己のレベルには、どんなに知覚を駆使したところで届くことはありません。なぜなら、それは知覚の手の届かないところに在るからです。

だからこそ、この「私」が知覚を使って生きている限りは、真の自己のことに気づくことはできないということなのです。

知覚の届かないところ、それは近すぎて知覚できないところに在るのです。知覚する対象のないところに、真実の自己は隠されています。

本当は隠されているのではなく、知覚を放棄したときに直接体験することができるのです。それはいつでも私たちにその実在が示されているのです。