理解力は無駄ではない

人間が持つ理性の働きというのは、とてもすばらしいものです。理性によって理解力というものが生み出され、人類は文明や科学を発展させてきたわけです。

この理性による理解力のベースとなっているものとは何でしょうか?それは知覚です。知覚によって、理解するための情報を取得することができるからです。

それでは、この知覚のベースとは何でしょうか?それは分離に違いありません。知覚が起こるときに、私たちの理解では、知覚する主体と知覚される対象とが存在することになるからです。

つまり、理解力の大元とはこの世界のベースとなっている、分離に帰結すると言うことが分かります。ところが皮肉なことに、この分離こそが我々のすべての苦悩の原因であるということもわかっています。

ということは、理性による理解力が活躍できる土壌には、分離というあらゆる苦悩の根本原因があるということになるのです。

このことを真正面から認める必要があります。私たちは、理性や理解力そのものを否定的に取り扱う必要は全くありません。

しかし、自分の幸せについてもその理性によって理解できると錯覚してしまうことが、大きな間違いであることに気づかなければなりません。

残念ながら、多くの人ができるだけ沢山のことを理解することで、自分の幸せを手に入れられる可能性が高くなると勘違いしてしまっているのです。

これは私の主観に過ぎないのですが、こうした傾向は特に男性の場合に強く現れているように見受けられます。

しかし、女性の場合においても、男性ほどあからさまではないというだけで、やはり「分かっている」ということを愛と切り離して考えることは難しいようです。

理性によって、真実あるいは本当の幸福を理解することはできません。自分の本質を理解することなど、到底不可能なことだということです。

逆に、自分の理性を真実である自分の本質に使ってもらうようにすればいいのです。これこそが、本当の明け渡しなのではないかと思うのです。