神の身体

奇跡のコースを読み出したときに、自分は身体ではないということを理解すると同時に、そもそも自分は身体だというのが単なる思い込みだったのだということが分かったのです。

しかし、そうはいっても、自分のモノであるということには違いないのではないかと勝手に思っていたふしがあります。

それはあたかも洋服や靴のように、勿論お金を出して購入したわけではないのですが、ともかく生まれたときからずっと一緒だし、自分の所有物だというように感じていたわけです。

人から何かを借りたら、気をつけて悪くしないように心持丁寧に扱うのが普通ですね。逆に自分のものであれば、ある程度は場合によってはそんなに気遣いせずともいられることも多いです。

私は、この身体は間違いなく自分のものだと信じていたので、かなり雑な扱いをしていることに気づいています。

最近ではめっきり運動をしなくなってしまい、筋肉が相当に退化してきているのが分かります。そして、食にもそんなに気を使ってないので、野菜が不足していることも分かっています。

だからなのか、腰痛になったり便秘になったりを繰り返していますが、自分のものなので誰に迷惑がかかるわけでもないし、ということでそのままの状態が続いています。

ところが最近、「この身体は自分ではない」というよりも、更に言えば「この身体は自分のものではない」とも言えるということに気づいたのです。

つまり、自分は身体ではないばかりか、その身体はそもそも自分のものでもなかったということです。一体誰のものかと言えば、きっと神のものだろうと。

神という言葉がそぐわない感じがするようなら、大いなる意識のものと言い換えてもいいのですが、とにかく個人的な私たちの所有物ではないという感覚に気づいたのです。

だとしたら、神が不自由なく使えるように、この身体のメンテナンスをなるべく怠らないようにしなければならないのではないかと思うのです。

自分の身体だから大切にしなければならないというよりも、神のものだからしっかり調整してあげて、いつでも完全な状態で使ってもらえるように管理しておく必要があるのかなと。

私たちは、一人ひとりが神の身体の維持・管理を任された一時的な存在なのだと思うと、この身体に対する愛情も何だか今まで以上に感じることができそうです。

ただし、いまさらですが、私はいかなる宗教とも一切係わりがありませんので、遅ればせながらお断りしておきます。

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