意識の全体性に注意を向け続ける

私たちは、自分がここに居るという感覚をほぼ一日中感じながら生活しています。というより、物心ついた頃からずっとそれが続いているわけです。

それはもう当たり前過ぎて、そのことに何の疑問を感じることもなく、疑問どころかそのことを意識にあげることすらないかもしれません。

しかし自己探求が始まると、そのことがごく普通のこととは思えなくなってきます。この自分がここにいるという感覚とは一体何だろう?という探求の可能性があるということに気づきます。

それは当たり前では決してなく、何かの作用がその感覚を作り続けているとしか思えなくなります。たゆまぬ努力というのか、つまり自然なことではないということに気づくのです。

そして、そのことにずっと意識を向け続けていくと、自分が誰なのかということの化けの皮が剥がれていくような感覚になるときがあります。

自分がここに居るという感覚は、自動的に起きてくるわけではなく、自分は身体だという一つの信じ込みが作っているのだとわかります。

そのことに気づいた途端、意識の広がりという突然の注意の転換が起こります。私の場合のそれは、とても穏やかなものでどこかしら馴染み深い感じすらします。

それは毎日何度も繰り返して、その広がりに注意を向けているうちに、自分が何をしていても感じることができるようになります。

それを感じるための如何なる努力も必要はありませんし、努力してそうなるというものでもありません。それこそ、元々の意識の自然な状態なのだろうとも感じます。

不思議なことに、自分という意識に徹底的に意識を向けていると、個としての自分はそのままに、自分の意識の全体性に気づいてしまう瞬間が必ず来るということです。

そのことによって、人生が何か変化するわけでも、何かいいことばかりが起きてくるようになるということでもありません。これまでと同じように痛みは来るのです。

ところが、全く目立たない奥深いところで、それまで自分が苦悩の上に立っていたはずが、どうやら至福の上に立つようになっていると感じます。

それは確固としたものではないのですが、自分の全体性に意識が向いているときに、そのような感覚になるようです。

そのためのどんな努力もいらないというのが、理性からしたら何だかしゃくな気もするのですが、それの何倍もの大きな感謝の気持ちがあるのです。

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