永久不滅を望む

自分が本当に本当に本当に望んでいるもの、心から求めているものとは一体なんだろうかと改めて見つめてみると、それがたった一つであるということが分かります。

それは当然のことながら、永久不滅のものであるということに気づくことができます。手に入ったと思ったら失ってしまうのでは満足することはできないからです。

だとすると、この世界の中にある、つまり自分の外側にあるようなものは、すべてが生まれては消えていくものばかりであるため、そこには本当に望むものはないということになります。

この地球だろうと太陽系であろうと、いずれは消滅することがはっきりしています。自分が知っているどんなものであろうと、間違いなく消えていくものばかりです。

ということは、本当に望むものは自分の内側にこそあるということになりますね。それは理性で認識できるものではなさそうですが…。

それならば、極端な環境の変化をイメージしてみて、それでも望むものを見い出すことができるのかどうかを検証して見る必要がありそうです。

例えば、何か途方もない罪を背負って、最果ての地の監獄に終身刑で入れられている身だとします。もう、決して親しい人や愛しい人と会うことはできないわけです。

自分の寿命が尽きるまでは、その境遇で日々を過ごさねばなりません。しかし、外側には本当に望むものを見い出すことができないのならば、そのような状態においても今と条件は同じだということになります。

そしてもし、そんな過酷な状態では望むものは見い出せないし、今自分がいる環境や境遇を手放したくないと思うなら、まだ本当には永久不滅のものだけを求めているわけではないということになりますね。

そんな極端なことをストイックに考えなくてもいいだろうと思われるかもしれませんが、自己探求するときに自分がどれだけストーリーの中で手に入れられるものにまだ執着があるかを見極めることは大切なことです。

私が今言えることは、勿論監獄の中で暮らしたいとは思わないものの、そこの生活においても充分に永久不滅のものに気づくことは可能だという気がします。

そう考えて見ると、私たちが普段人の人生とは不平等だなと感じているにも係わらず、最も本質的で大切なものに気づくためには、どんな人のどんな人生であろうとも全く平等にそのチャンスを与えられているのだということです。

自分の人生を人の人生と比較する必要もないし、自分の人生がもう少しよくなったらとか、今はまだそのときではないなどといった言い訳をすることもできなくなりますね。

今この瞬間に、世界中の誰であっても、その永久不滅のものを見い出すことができるはずだと思うのです。

生きるとは死ぬことと見つけたり

これは前にも書いたことなのですが…。最近よく瞑想をするようになったのはいいのですが、少しの時間静かにしていればほとんどの想念は治まってくるのに、一つだけしつこいのがあるのです。

それは、バックグラウンド的にずっとメロディを奏でている想念なのです。それはもう、絶えず流れていて、いろいろな曲をランダムに聞かせてくれるのです。

今朝聞いたメロディだったり、ちょっと前に口ずさんでいた曲だったり、一年前のヒット曲だったり、あるいは何十年も前に聞いたことのあるすっかり忘れていたものだったり。

ジャンルもクラシックだったり、ロックだったり、歌謡曲やそれこそ童謡などありとあらゆるものが含まれて、なんだか有線放送のような状態です。

しかし、そんなまともなものであるはずもなく、どこかのフレーズを延々とリピートしていたりとその内容は滅茶苦茶なのです。

それをストップしようとすれば、すぐに止まるのですが、またすぐにいつの間にやら気が付くとメロディが流れているといった状態なので、最近ではもう気にしないようにしていたのです。

ところが、今日瞑想中にあることをしてみたところ、それがピタッと止まったのです。それは、自分の死についてとことん見つめてみるということをしたのです。

これは無念無想とは全く違うので当然といえばそうなのですが、まったく自前有線放送は姿を消してしまいました。

そして、自分からすべてのものが奪われていく感覚、何一つ残るもののない完全なる喪失をずっと感じていたときに、恐怖と同時に一種の清々しさを感じたのです。

勿論最後の最後まで死を味わい尽くすまでには至ってないのですが、それでも完全なる静寂さの片りんを感じることができました。

そして、巾着のようにくっついて離れずにいた想念すら、そこでは生き延びることができないということがわかったのです。

私たちは、これほど確定していることは他にないと知っていながらも、自分や大切な人の死について目を逸らしてしまっているのですね。

私たちが不当に苦しむときには、常にこの死に対する恐怖から目を背け続けることが原因であると言ってもいいのです。

過去からやってくるあらゆる想念は、死から逃れるための様々な作戦を携えて今の自分に働きかけてくるものなのです。

充分に死と対峙することができたら、こうした想念に巻き込まれることがなくなるはずです。それが今に生きるということであるのです。

それこそが、過去が作ったストーリーの中でもがき苦しむことから、本当の人生を生きるということへの大きなシフトなのだと思うのです。

そこには、「私」が生まれる前から、そして「私」が生きて死んだ後も、ずっと変わらずに在り続ける本質の自己への意識のシフトがあるのです。

「私」の死をできるだけリアルに、正面から見据えることによって、誰もが急速にもっとも身近に在り続ける本当の自分を見ることができるかもしれません。

それこそは、「私」と「私」のストーリーの死であり、真実の生を生きるということになるのだろうと思うのです。

心を閉ざすという復讐

私たちは誰もが自分の本心を何でも話しているわけではありません。この程度であれば問題ないだろうという線引きをして、その範囲内のものについて言うだけです。

それを越えたものについては、口を閉ざして決して言おうとはしないものです。それには、さまざまな理由があるのですが、根っこの部分には自分を守りたいという欲望があるだけです。

相手にとって都合の悪いこと、気分を害するようなこと、そして相手が自分のことを否定的に見るだろうことを黙っているということです。

親に嫌われたら生きていけないと信じている幼い子供にとっては、このことは死活問題であるため、あまりにも危険だと感じる生活が続くと子供は心を閉ざしてしまいます。

そして、決して親に自分の本音を伝えることをしなくなってしまうのです。そしてそのままではあまりにも辛すぎるために、自分に対しても本音を隠すという作戦を使うようになるのです。

こうなってしまうと、もう誰も本人の本当の気持ち、本当の感情、訴えたい思いなどを知ることができなくなってしまいます。

しかし、この状態はそのままで済むはずもなく、いつかは何らかの形をもって表面化することになります。それは感情の爆発であったり、社会性への敵意となって現れたりもするかもしれません。

それでもそうした傾向は一過性のもので、またしばらくすると心を閉ざした状態に戻ることになり、そんなことを繰り返すことになっていきます。

そして、もっともやっかいなことは、当初は自己防衛のためにのみ心を閉ざしたはずが、いずれはそれを復讐として用いることになるということです。

つまり、親などの相手に対して、決して自分の本心を見せてはやらない、見せてなるものかという仕返しの気持ちが芽生えるということです。

もしも、心の中に何らかの復讐心がありそうだと感じるなら、自分は幸せになりたいのか、それともいつ終わるともしれない復讐に人生を費やすのか、どちらを選択するかを明確にするべきです。

曖昧にしていると、どちらも達成したいという不可能な夢を追いかけ続けることになるからです。幸せを願うなら、勇気を出して心を開くことです。

催眠にかけられたリンゴ

この仕事を始める一年くらい前に、つまりまだ会社員だったころに何を思い立ったか、とある催眠術師のところに催眠術を習いに行ったことがありました。

単なる興味だったとは思うのですが、予想外に簡単に催眠をかけることができると分かって、嬉しくなっていろいろな人にかけて自分の腕を試したりしていました。

後催眠といって、ある暗示を与えておいて一度催眠を解き、その後施術者の何らかの合図に従った言動をさせてしまうという効果を使って、お遊びとして楽しんでいました。

それがきっかけとなって、催眠療法を仕事にするようになったわけではないのですが、でもどこかで無意識的には繋がっているものがあったのかもしれません。

私自身は今だに催眠状態、つまり変性意識状態について、その実体を詳しく知らないのですが、とにかく一時的にであれ、与えられた暗示を本当に信じ込むことがあるのです。

仮に、丸くて赤くてジューシーでとてもおいしそうなリンゴに催眠をかけて、あなたはゴーヤ(にが瓜とも言いますね)になったと暗示を与えたとします。

すると、リンゴは自分がゴーヤであるということを信じ込むことになります。ゴーヤだと思い込むことになったリンゴは、自分のリンゴとしてのフルーティさやおいしさのことを忘れてしまいます。

そして、本気になってリンゴのようなすばらしい姿と味わいを持つことを望むようになります。ちなみに私はゴーヤが大好きですが、一つの例として読んで下さいね。

ゴーヤになったリンゴは、自分のゴツゴツした姿や苦味を何とかして、美しい丸い姿にしたいと考えるかもしれません。

自分をリンゴのような素敵なフルーツにするために、あらゆる努力をしようとするかもしれません。身体をつるつるにするためにエステに通ったり、香りをよくするために特別なフレグランスを手に入れようとするかもしれません。

どうやってもリンゴのような丸い形にはならないので、本当に絶望してしまうかもしれません。このゴーヤのすべての苦悩の元はたった一つ、自分をゴーヤだと信じてしまったことですね。

リンゴのようになりたいと望むすべての思いを一度やめて、ただゴーヤであることをそのまま見続けるという選択ができることに気づけたら、そのとき催眠が解けるかもしれません。

催眠さえ解けたら、心からの安堵がやってくることは間違いないですね。そして、今までの苦悩のすべては何だったのだろうと笑いだしてしまうかもしれません。

私たちもそのリンゴと同じように、ある暗示を与えられている状態だと思えばいいのです。ここから一歩も動かず、何もしようとせずにただ在ることだけに意識を向けるのです。

そのときにこそ、本当の自分の姿、永遠に安堵することになる本質の自己に気づくことができるということです。

努力と決心

私たちは幼い頃から、何らかの目標を設定して、それに向かって努力をして、それを達成することに価値があるという教育をずっと受けてきました。

それは些細なことからとても大きな目標に至るまで、どんなことにでも当てはめてしまう習慣がついてしまっているようです。

例えば、勉強せずにたまたま100点を取ってしまうよりも、勉強した成果として100点を取る方がいいというようなところがありますね。

小さな目標でもそれなりの努力が必要であり、もっと大きな目標にはもっと多くの努力とそれに見合うだけの時間が必要だという思い込みです。

クルマを購入するためには、これだけ働く必要があって、家を購入するためにはその何倍も頑張る必要があると信じています。

こうしたことは、もう信念のようになってしまっているため、その逆に楽をして欲しいものを手に入れたいという願望を生み出す結果にもなります。

そうして一攫千金を狙って宝くじを買って、はずれたときにやっぱり人生はうまいこといかないもんだなあと諦めたりするわけです。

しかし、よく考えて見ると本当に大切なものほど努力なしに手に入れた経験をしているはずです。例えば、生涯の友やパートナーとの出会いはきっと偶然が引き会わせたと知っています。

あるいは、とても大切なことに何の努力もなしに、あるとき突然気づいてしまうということだってあるわけです。

偶然手に入るという幸運も間違いなくありますし、そしてもっと明確に気づくべきことは、実は本当に大切なことほど難なく手に入るものだということです。

ただし、それには決心することを見逃してはなりません。私が、「何とかしなければ…」をやめて下さいというときに、必ず「今この瞬間に」と付け加えて言うのは努力して欲しくないからです。

一ヶ月かけて、あるいは半年かけて「何とかしなければ…」をやめられるようにしたいと考えた瞬間に、それは努力を要することだとの思い込みを使っているのです。

それは、何とかして、何とかしなければをやめようとするといった、笑い話のようなことになってしまっているのです。

必要なことは、たった一つの、たった一度の決心をすることです。だからこそ、それは今この瞬間にできることなのです。

私たちは、努力して眠りに入ることができないことはよく知っています。何とかして眠ろうという努力をすべてやめることができた時にこそ、寝入ることができるわけです。

それと全く同じことが本当の自己を知ることにも言えるのです。あらゆる「何とかしなければ…」をやめたときに、私たちがもっとも欲しがっていた本当の自由と出会うことができるのです。

もっとも手に入れるのが難しいと思っていたことは、何と全く心の中で何もしないということによってのみ、手に入れることができるということです。

真実というのは、どうもこうした逆説的なことがいつもつきまとうものなのですね。

共感する心と干渉する心

人は生まれながらにして、他人の気持ちを感じることができる能力を備えています。その証拠に、赤ちゃんは誰にも教えられずに、お母さんの心の状態を察知しています。

成長すると、気持ちを察知するというだけではなくて、能動的に相手の思いや気持ちに対して共感することもできるようになります。

共感してもらった人は、自分を受け入れてもらえたという安心感をもらうことができるために、相手と心が通じたという気持ちになるのです。

これが人と人との心の交流には欠かせない要素であることは間違いありませんね。お互いが自分の言いたいことを言い合うだけでは、決して心を交わすことはできません。

しかし、この共感することについては、その能力があるからといって、常にそうできるとは限りません。なぜなら、共感するには相手を思いやる優しさがなければならないからです。

つまり、相手に対する暖かな気持ち、相手を尊重する気持ちを持っていなければ、元々備えている共感するという能力を発揮できなくなってしまうということです。

例えば、親が子供を育て上げるのは一口では言い表せないくらいに大変なものです。ちゃんと育てなければならないし、危険から守らなければなりません。

そして、不安を持って子供に接する親の場合には、愛をもって子供に共感する心の余裕がなくなってしまうかもしれません。

その代わりに、あれこれと子供に対して干渉してしまうようになるのです。何でもできる大人の自分が子供を守り、子供に正しさを伝えたい気持ちが強ければそれだけ干渉する割合が増えてしまうのです。

過干渉の親はこうして、共感的ではなくなってしまうということです。つまり、共感するか干渉するかのどちらかになってしまうということです。

心の余裕のある親は必ず愛を使えるために、子供を見守りながらも余計な干渉をせずに共感的に接することができるのです。

子供にとっては、どちらのタイプの親に育ててもらうことができるかは、本当に大きな違いとなってしまうはずです。

沢山の干渉を受けて育ってしまうと、共感されずに育ってしまうということをも意味しますので、自己肯定感が育ちにくくなってしまうのです。

そこからあらゆる人生の苦悩が起きてくるのです。自分の心の奥に自己否定の塊を感じることができるなら、それを何とかしようとすることをやめて、ただその痛みを見ることです。

自己否定感を払拭して、自己肯定感を増やそうとする企てをすべて中止して、ただただその痛みに目を向けて見ることをお勧めします。

理性を超えたところに真実がある

私たちは誰もが幸せになりたいと願っています。幸せだと感じている人であっても、もっと幸せになりたいと願うものです。そして、いつまでも幸せでいたいとも願うのです。

幸せとは、満ち足りた心の状態であることですね。では、一体何を持って完全に満ち足りた心になることができるのかを考える必要があります。

この世界で手に入れられるものは、どんなものでも一過性のものです。それは来ては去っていくものであって、一つとしてあり続けるものはありません。

ということは、私たちが求めている本当に満ち足りるという状態には、何を手に入れたとしても到達することができないということになってしまいます。

そしてそれこそが本当のことなのです。どれほど望んでいたものが手に入ったとしても、いつかはそれを失う現実がやってきます。

それは必ず未来への不安を作り出すことになり、心からの満ち足りた平安ではなかったということに気づきます。であれば、永遠に変わらぬものを探さなくてはならないということになります。

ところが、残念ながらこの世界にあるどんなものでもいつかは滅びてしまうものだと分かっています。一体どこに永遠のものがあるのでしょうか?

永遠とは、真実であることの一つの特徴であるとも言えます。だとしたら、その真実というものを見い出さねばならないわけですが、ここに一つの関門があるのです。

それは理性という関門です。私たちは日々の生活の多くを理性に頼って生きていることは間違いありません。理性とは人間にだけ与えられたすばらしいものです。

ところが、この理性に頼りすぎてしまうばっかりに、もっとも大切な真実を見落とすことになってしまうことに気づけなくなったのです。

なぜなら、真実は理性の届かないところにあるからです。このことは、厳粛に受け止めなければならないことです。

しかしながら、理性はそれが届かないところにこそ真実があるのだということを理解することだけはできるのです。

それが分かったら、理性に頼ることを一時的にでもやめてみることです。理性によって、幸せの種を探してきたことを反省し、それを中止するのです。

理性にとっては、何とも屈辱的なことかもしれませんが、敢えてそれを勇気を持って受け入れるのです。そのときに、初めて今まで捕らえることができなかった真実が顔をのぞかせることになるのです。

そこにこそ、永遠の至福が在るのですね。

到達すべき場所はない

私たちは幼い頃から、少しでも改善できる余地があるなら、それをそのままにしておくのではなくて、なるべくより好ましいものにするべきだと教え込まれてきました。

改善するべき対象は、勿論自分自身の場合もあるでしょうし、人との関係や社会などの場合など多岐に渡ります。

そして、もしも現状のまま何も変化がないと、それこそ怠けているとか向上心が足りないなどと言われて、否定されてしまうかもしれません。

そうしたことが、日常的にありとあらゆることに向けられているため、それが当たり前になってしまっていることにすら気づかずにいるのです。

ほんの少しでもいいから変化させて、昨日と同じままでは駄目だというわけです。進歩がなければ、生きている意味すらないと言われかねません。

昨日よりもピアノが上達したとか、算数の苦手な問題を解けるようになったとか、後で考えてくだらないと思うようなことに怒りを感じなくなったなど…。

変化、進歩、改善というものをいつも求められているし、それが実現したときにはある程度の満足感を得ることもできます。

しかし、一旦冷静になってこのことについて突き詰めて考えてみると、なぜ常に進化し続けなければならないのかという疑問がでてきます。

私たちは一体どこへ行こうと必死になっているのでしょうか?歴史上の賢者たちの誰もが、どこにも行く場所などないということを伝えてきたのです。

何を躍起になって、変えようと努力し続けているのでしょうか?到達すべき場所など、どこにもありはしないということに気づくべきです。

心を静かにして自己探求すれば、実は自分が到達しようとしていたところとは、自分が探し求めているものとは、この自分自身だったと気づくことになるのです。

私たちは新たに何かを手に入れることはできません。なぜなら、今この瞬間の自分はすべてを含んでいるからです。

同様にして、私たちは何かを失うということも不可能です。何かが起きて、消えていくための舞台こそが本当の自分なのですから。

今この瞬間の意識に注意を向ける

内面を見つめるというと、誰しも自分の感情や思いなどに意識を向けることをイメージしますね。例えば、昨日友人になぜあんな嫌味なことを自分は言ってしまったんだろうとか…。

パートナーにもっと優しく接することができたはずなのに、気が付くとまた辛く当たってしまった。その理由はなんだろうかとか…。

自分の心の奥を覗き込んで、今まで気づけなかった部分、知らずに隠してきてしまったような部分を見い出そうとするわけです。

大抵、セラピストはそれを勧めるはずです。なぜなら、人は自分にとって都合の悪い自分というものを隠したがる習性があるからです。

隠したものは、必ず日々の生活の中に何らかの形をもって表出してきてしまいます。都合の悪いものが出てくるのですから、苦悩することとなるわけです。

だからこそ、勇気を持って心の闇の中に隠してきたものに光を当てるようにとお伝えするわけです。それはそれで、癒しの王道ですね。

しかし、この内面を見つめるというのは、言ってみれば過去に光を当てる作業を指しているのです。なぜなら、心の中味というのは100%過去で出来ているからです。

これとは対照的に、今の自分を見つめるというやり方もあります。これは、心の中を見るのではなくて、ただただ今この瞬間の自分を見つめるのです。

一体それにどんなメリットがあるのかと疑問に思われるかもしれませんが、実はこれが究極の自己探求になりえるのです。

具体的には、自分の意識そのものに意識を向け続けるのです。それは、今この瞬間に意識を固定しておくことになり、過去からやってくる想念に巻き込まれずにすみます。

そして、その意識を見つめているうちに、個人としての自分というものが単なるイメージに過ぎないということに気づいていきます。

個人がいて、そこに意識が起こるのではなく、事実は意識がまずあってそこに個人というイメージが作られたに過ぎないということがわかります。

個人が後付けであると分かれば、もちろん自分は身体ではないということもはっきりします。こうしたことを思考で捉えるのではなく、ただ気づくことが大切なことです。

一度気づいたことを次に再体験しようとすると、思考が働いてしまう可能性があるため、いつも今この瞬間の自分だけに意識を向けることです。

そしてこの感覚を普段の生活の中で、いつでも感じ続けることができるようになったらいいなと思います。自分の感情や思いを見つめることも必要なくなってしまうはずです。

泳ぎ続けるのをやめてみる

私たちの人生とは、大海原の上でそれぞれに異なった泳ぎ方で水泳をしているようなものです。誰もがみな水泳をし続けているのです。

泳ぐことをやめてしまったら、ブクブクと海の中に沈んでいってしまうと信じているからです。ある人は、平泳ぎしかできなかったのに、クロールができるようになったと喜んでいます。

またある人は、昨日よりも綺麗なフォームで泳げるようになったかもしれませんし、隣の友人よりも速く泳げるようになったということもあるでしょう。

様々な練習を重ねることによって、もっと巧みな泳ぎ方を学ぶ人もいるでしょうし、そうしたことを他人と競うことで勝ったり負けたりを繰り返しているのです。

海の波が静かなときには、ゆったりした穏やかな気持ちで悠々と泳ぐことができますが、嵐ともなると高波に揉まれて沈まないようにするだけでも一苦労です。

そして、熟達した結果、水泳の方法を他人に教える人が出てくるかもしれませんし、もっと上手になったら溺れそうになっている人を救うことができるようにさえなるかもしれません。

いずれにしても、誰もがそうやってそれぞれの泳ぎ方で泳ぎ続けているのです。一日中連続して泳ぐので、疲れて睡眠をとる必要があるのも当然です。

でも朝目が覚めたら、またすぐにいつもの水泳を続けることになるのです。そうやって、もしかしたら一度も泳ぐことをやめることを試して見たことがないのかもしれません。

本当に苦しくて、いくらもがいても頑張ってももうどうしようもないと崖っぷちまで追い詰められた人が、泳ぐのをやめることができるのかもしれません。

それでも生きている間に、それこそ神の恩寵によって、人は泳ぐのを全面的にやめてみようかと考えることがきっとあるはずなのです。

それは言い知れぬ恐怖が待っているように感じます。でもそれを何とかしようとするのをやめて、なるがままに身を任せてみることです。勿論身体は沈み出すでしょう。

どんどん沈んでいって、海の深いところへと落ちていくでしょう。呼吸もできずに苦しくなり、意識もぼんやりしてくるはずです。

でもそのときに、なぜか息苦しさを感じなくなっている自分に気づくのです。その不思議さを全身で受け止めているうちに、驚くべき視点の変換が起こるのです。

それは、ずっと今まで海面で泳ぎ続けてきた自分は本当の自分ではなく、この無限に広い海こそが自分そのものだったのだと…。

みなさん、泳ぐのを一分だけでも全面的にやめてみませんか?