体験を自己同化しない

昨日のブログでは、誰もがやり続けてきた同一視について書きました。同一視、あるいは自己同化という言葉でも同じです。今日はそれについての補足です。

私たちが日頃無意識にずっとやってきた自己同化、それは体験と自分という存在を同化してしまうことです。

自己同化は自我の得意技と言ってもいいと思います。期待していたことに対して、現実との落差が生まれた時に、私たちは惨めだと思うのです。

これが私たちの奥深くに根付いている自己同化です。期待が裏切られたと判断した時に、その体験と自分を同化してしまうのです。

だから自分は惨めだと思うのですね。親に愛されることを期待しているのに、実際には愛してもらえなかったとなると、その惨めな体験を自己同化してしまうのです。

なぜ自我はすぐに体験と自己を同化してしまうのか?それは察するに自我の身になったら自分は存在するという証拠をいっぱい集めておきたいのでしょう。

なぜなら自我(マインド)の奥深いところで、自分はいないということに薄々気づいているからだと思うのです。

だからあらゆる体験を張りぼてのように、一つ一つ張りつけていって、自分という存在を確固としたものに仕立て上げようとするわけです。

難しいように感じられるかもしれませんが、体験は体験としてただあるだけなのです。それを自分の存在と自己同化しないこと。

その技をマスターできたら、あなたはもう二度と傷つかなくなってしまうでしょうね。体験を自己同化せずにいることは、究極の生き方ですね。