観察と観照の違い

科学の基礎とは、人が対象を観察するということです。つまり、直接的であろうと間接的であろうと、人間の知覚による対象物への認識が基本なのです。

それに対して、観照というのは、非常に主観的なものであり、第三者からみた客観的な事実とは無関係であるということです。

したがって、観察と観照とはまったく似て非なるものであるということが言えます。科学で何かを証明するという場合には、観察による厳密な実験によって結果を導き出すのです。

この結果に対して、こう思うというような主観をできるだけ排除しなければなりません。一方で、観照は常に主観的なものであって、その正しさを証明することは不可能です。

観照には、観察のような主体と対象という関係はありません。つまり、観照している観照者はいないということです。

観照が起きているときには、観照される対象、つまりそれは現象ですが、その現象と観照とが一つになっているのです。

このような観照の感覚が分かれば、観照というときに、それが自分を客観的に見る、第三者的に観察する、ということとは全く違うということに気づくでしょう。

観照が起きているときには、自分と周囲の世界との境界というものが曖昧な感じがしてきます。これは、究極の主観は全体性と等しいということから説明できるのかもしれません。

観照とは、明け渡しでもあるのです。なぜなら、観照が起きるときには、過去や未来が消えてしまうからです。

今この瞬間にしか、観照は起きません。これは、過去や未来にのみ生きている「私」という名のエゴが消えている状態です。

言ってみれば、ありもしない過去や未来を、今この瞬間に明け渡しているということです。これこそが、本当の明け渡しです。

そして、この明け渡しは実際いつどんな場合にでも、一瞬の視点のシフトによって起こるのです。何とシンプルなことなのでしょう。

ニセモノを暴くには、ただ見ること

私たちは、大抵興味のないものは真面目に見ようとしないし、自分にとって都合の悪いようなものも、無視してしまう傾向を持っています。

そんなことは当然だし、どうということはないと誰もが思って、気にもかけていないというのが実情かもしれません。

誰だって、関心を寄せているものや人のことは、逆に言われなくてもじっと見つめてしまうものです。それでいいと思っているのです。

けれども、見ないで済まして来てしまったことによる影響というものが、過去から現在の自分に対して追ってくるのです。

なぜなら、無視してきたこと、見ないようにしてきたことというのは、いつまでもしっかりと見て欲しいという願いを込めて、見てもらうチャンスを狙っているからです。

自分は逃げているという自覚も、そんなつもりもないのですが、実は無視したということは間違いなくそこに恐怖があるのです。

自分に無視されたものというのは、ネガティブな感情だったり、ネガティブな感情を誘発されそうな外部の事象などです。

それらは、単にしっかり見てあげるだけで、追いかけてきて迷惑をかけるようなことはなくなります。見てあげれば、それは消滅してしまうからです。

それらはちょうど影のようなものだと思えばいいのです。見なかったばっかりに、ただつきまとって追ってくる影のようであり、見るために光を当てればすぐに消えてしまうのです。

それらに実体などあるはずもありません。つまりは、ニセモノだということです。ニセモノをニセモノだと見破るためには、ただ正面から見ることです。

それらから逃げようとしたり、闘って乗り越えようとしないことです。闘うと、ニセモノのくせに力をつけることになるのです。

あなたのすぐ背後にも、それは迫って来てませんか?ニセモノは所詮ニセモノであって、それには力などありません。しっかり見ることができた人にだけ、それは明白なのです。

いついかなるときでも、見ることはできます。ただ見るだけなのですから。それ以外の何もする必要もなく、しないほうがいいのです。

これが理解できれば、もっと気楽に生きれるはず!

セラピストの仕事をするようになって、それ以前よりもより一層強く感じるようになったことがあるのですが、それは私たちは誰もがみな無意識の操り人形だということでした。

それは例えば、明日は絶対に遅刻したくないと切実に思っていても、どういうわけか明日の朝になると、決まって遅刻してしまうといったことです。

こうした謎の言動というものは、その人の「無意識」によって、突き動かされているといって間違いありません。

無意識なので、表面化することがないために、本人は自覚することができないのです。したがって、あまりに深刻なものになるとセラピストの助けが必要となるのです。

気づいている表面意識の意志と、潜伏している無意識の意志とか合致している場合は問題ないのですが、意外にもかなりの頻度で互いに真逆である場合があるのです。

相手に優しく接したいと思っているのに、すぐに怒りをぶつけてしまうとか、やろうと思っていることをずるずると先延ばしにしたりとか、まったく反対の方向を向いているケースをいくらでも思いつくことができるはずです。

それが人間というものですね。まさに無意識にいいように翻弄されて、いいように突き動かされてしまうのが、我々のさがなのです。

ところで、私たちを強烈に動かす原動力である無意識は、自発的な意志を持っているのでしょうか?無意識の意志こそが、我々の本当の主人なのでしょうか?

実はそうではないのです。無意識は、ただ真の源泉からの情報を取り込んで、それに従って所定の処理を行う言わばコンピュータのようなものだと考えられます。

そして、その源泉こそが言わずと知れた、私たちの真の姿であるということです。つまり、

唯一の源泉(真の自己) → 70億個の無意識 → 70億個のアウェアネス(気づいている私)

という順番でシナリオが伝播していたということです。勿論、私たち一人ひとりは地球上のその70億個のうちの一個人というわけです。

ですから、この宇宙は源泉の一人天下なわけですから、我々人間は真の責任を持つことさえできないということです。それならもっと、人生を気楽に生きてもいいはずですね!

先に寝る派?それとも待ってる派?

サラリーマン時代が長かったのですが、その頃毎日のように深夜に帰宅するわけですが、当然奥さんは先に寝ていることが多かったです。

自分としてはそれは当たり前ですし、もしも起きて待っていたりされたら、逆に相当に困ってしまいますので、よかったのです。

けれども、人はいろいろなんですね。男性は、先に寝ていて欲しい人と、できれば寝ずに待っていてもらいたいと思う人がいるようです。

女性にしても、先に寝てしまえる人もいれば、何時になっても寝ずに待っているという人もいるということを知っています。

男性と女性の組み合わせが、うまく合致している場合はお互いに都合がいいのですが、その組み合わせが反対のペアだとひどい不満が発生することになります。

私の場合には、相手を待たせるということ自体が苦手の性分のようで、待ってられると思うだけで、いやな気持ちになってしまいます。

逆に、自分のことを思って待っていてもらえると、とても嬉しい感じがするという男性の気持ちも分からないではありません。

自分は受け止められているんだなという自覚を持てるので、二人の関係がうまく行っているように感じるのでしょうね。

待つ側の女性の気持ちにしても、愛する彼が遅くまで働いて帰ってくるのに、先に寝ては申し訳ないという気持ちを持っている人がいるのも分かります。

相手が帰宅するのを待って、少しでも会話をする時間を持ちたいという思いもあるのかもしれませんね。

いずれにしても、沢山の男女の組み合わせがあるわけで、その辺りがうまく行っている場合もあれば、ギクシャクしてしまうこともあるのでしょう。

どんな組み合わせにしても、二人が互いの気持ちを尊重しあって、うまくやっていって欲しいものです。そのためには、不満を隠さずに、相手に率直に言うようにするのがコツだと思います。

本当の自分とは何なんだ?

「本当はねえ、自分ていないんですよ~」と言うと、ほとんどの人がびっくりすると同時に、信用してはもらえないし、馬鹿にされるのがオチですね。

それはそうだと思います。この言い方では、随分と言葉が足りないんですね。もう少し丁寧に表現すれば、これが自分だと思っているような自分はいないということです。

これでもやっぱり、信じてはもらえないばかりか、拒絶されてしまうかもしれません。それは尤もなことで、人は自分が消滅することが一番怖いのですから。

自分がいないというのは、到底耐えられないことなわけです。だから、こうした話題というのはそもそもご法度なんですね。

でも、怖いのを一時脇へ置いておいて、冷静に考えてみるとそれほど理不尽なことでもないという気もしてくるものです。

それというのも、本質的なというか、本当の自分はいないと言われているわけではないからです。あなたという本質は消えることはできないということでもあるのですから。

あなたが単に、これが自分だと信じているだけなのだと言っても、いいや信じているのではなくて、れっきとした事実だと言い張るのが普通です。

けれども、真実は他にあると囁かれて、それを完全に無視したり、バカバカしいことだと決め付けるのは勿体無い話しだと思うのですが、いかがでしょうか?

ここで、人が二手に分かれてしまうように感じています。真実を知りたいという人と、そんなことよりも明日の幸せを手に入れることが大切だという人に。

しかし、真実を知りたいと願っている人だって、自分の幸せはどうでもいいなどと思っているわけではありません。

それどころか、真実を知ることによって、どうもがいても手に入れることができなかった真の幸福を得られるかもしれないという期待があるはずです。

話しが逸れてしまいましたが、とにかく本当の自己というものが消えてなくなるということはないということを前提にすれば、恐怖は減るはずです。

そして、これが自分だと信じ込んでいるとするなら、どのようにそうなったのかを見つめ返してみることが必要だと分かります。

それには、実はそれほど時間がかからないのです。それは、少しやってみれば感覚として分かるときが誰にでも来ます。

これが自分だと思っている自分を、とにかく疑ってかかってみることです。私は疑うのが大好きです。エゴはエゴによって、それ自身を暴くきっかけを作ることができるんです。

人は天使にはなれない

ずっと以前の辛島美登里の曲で、サイレント・イヴというのがありました。その歌の二番のデダシのところに、以下のような歌詞があるんです。

本当は誰もが やさしくなりたい

それでも 天使に人はなれないから…

そんなこと当たり前じゃないのと思っていたのですが、意外にもこれを地で生きている人って多いんだなと思うようになりました。

つまり、私から言わせると、あなたは本当に天使でありたいと思ってるんじゃないの?と突っ込みを入れたくなるわけです。

自分は、自分だけはそんな醜い考えや、人でなしな感情など、持っているはずがないと思いたい気持ちが満々なのでしょう。

人は、美しい心も醜い心も当然のごとく持っているはずなのに、どうしても自分のこととなるとそれを認めたくないという頑固さ。

いつも人にやさしい気持ちで向き合っていたいと思うのは勝手ですが、私に言わせればそれができるのなら、それは人間じゃなくて天使だと言いたいのです。

この世界はすべて相反するもの同士が一対となって、現象を実現しているのですから、美しさがあれば必ず醜さがあるのです。

下のない上とか、右のない左を神は創れなかったのです。醜さのない美しさを創れなくても当然だということにしっかりと気づかねばなりません。

美しいのも醜いのも、人としての自分の本性なのです。その一対はとても神にとっても重要なものなのです。美しさだけなら、この世界は消えてしまいます。

それを何とかしようとすればするほど、人は苦悩の中に絡めとられてしまうでしょうね。何ともしないということ、これ以外にはありません。

知覚における0.5秒の遅延

昨日のブログで、完全に自由に、何の制約も課せられない状態で、ある決意をしたときには、その決意の瞬間よりも0.5秒も早くに無意識のままに脳からの発動があるということをお話ししました。

つまり、自分が今このタイミングで決意したと感じる瞬間というのは、実に脳からの指令が出てから0.5秒も経過した後だったということです。

この事実については、驚かない人はいないはずです。一体全体、自分が決意したと感じることとは、何なのだろうと思わずにいられません。

そして、この0.5秒というあまりにも長い不可思議な遅延時間は、見る、聞く、触れるなどの知覚についても言えるのです。

自由意志による決意というのは、外的な要因を一切排除した、完全なる内面からのものであるということが言えますね。

ところが、外側からの刺激に対する気づきについても、それと全く同じようにして0.5秒の遅延をしているのです。

もっと分かりやすく言えば、どんな知覚でもいいので、例えば信号機が赤に変わったと気づくときには、実際の信号機が赤に変わってから0.5秒も経過しているということです。

そんなはずはないと思いますよね。でも、これは実験から導き出された正確な遅延時間なのです。ところが、不思議なことに私たちの気づきには、その遅延を補正する能力があるらしいのです。

つまり、タイミング的には間違いなく0.5秒遅延して気づきがやってきているはずなのに、その遅れを巻き戻して感じるようにしているということです。

この事実を知っても、私自身、にわかにああそうですかとスルーすることができませんでした。それでも、これは事実なのです。

気づいているという意味での意識というのは、本当に理性では類推することさえできないような謎に満ちているものなんですね。

そしてそれこそが、本当の私たちの姿なのでしょう。謎に満ちた自己を、現象を通して知ろうとすることが、この世界の唯一の目的なのかもしれませんね。

自由意志がないことの検証 その3

昨日も書きましたが、自由意志があるかないかということについて、真剣に自分なりに検証していくことがとても大切なことだと思います。

誰の言うことも信じてはなりません。こうした問題提起があったなら、そのことに無関心でいるよりも、真摯な態度で検証していけばいいのです。

そこで、今日は脳神経科学の分野では当たり前になっている、驚くべき実験結果についてお伝えしたいと思います。

科学者であっても、人間には自由意志が本当にあるのかどうか、ということに興味を持って向き合っている人たちが沢山いるんですね。

実は、そうしたことへの興味が最初にあったのかどうかは分からないのですが、度重なる実験によって、そうした疑問が浮上してきてしまったと言ったほうが正確かもしれません。

様々な科学者が、本当に様々な実験をしてきており、その結果、人は自由意志によって何かを行動しようとするときに、その決意の0.5秒前に脳からの指令が発せられているということが分かっています。

つまり、あなたが右手を上げようと決意し、その通りにほとんど瞬時に右手を上げることができますが、その0.5秒も前に無意識的に脳内で決意のスタートを切っているということです。

ということは、私たちは自分の完全な自由意志によって、右手を上げたと感じているのですが、実際には自分の意識できないところで、その決意の元となる脳内の信号が発動していたということです。

神経学的には、0.5秒というのは恐ろしく時間がかかっていると感じますし、私たちが今この瞬間に決意したと思い込んでいるのは、間違いだったと言うことが証明されているのです。

ただ、この事実がすぐに自由意志がないという結論に向かうことはできません。ただ、決意が起こるのに、自由意志があってもなくてもいいということは言えます。

しかし、もしもその行為を決意したすぐその後に、やっぱりその行為を止めようとする時に、自由意志を使うことができるという考え方もできます。

最終的には、止めるという決意に対しても、それに先がけて脳内での指令が発動されているのかどうかは、実験が複雑すぎることによりまだ実現していないというのが現状のようです。

みなさんが信じられるかどうかは別として、自分の決意というものが実は無自覚の中から、しかも0.5秒も前に発動していたということが明らかだと聞いて、どのように感じますか?

私の個人的な感覚では、それこそが大いなる意識からやってくる指令なのではないかと思うのです。

もしもそうだとしたら、私たちが持っている罪悪感には、全く何の意味もなかったということになりますね。そして、大切だと思われている向上心なども、色あせて見えてきます。

過去の失敗を後悔することも、未来に不安を持つことも、ほどほどにした方がいいのではないかと思いませんか?

自由意志がないことの検証 その2

少し前に、このブログで自由意志などないということを書きました。そのことについて、もう少し、補足というか明確になったことがあるので書いてみようと思います。

自由意志の存在を否定するために、逆に自由意志があるとして、我々はいつどんなことで自由意志を使っていると感じるのかを検証します。

それは勿論、何かを決意するときですね。ほんの些細なことであったとしても、たとえばトイレに行こうというようなことにしても、決意していると思っているはずです。

私たちが何かを決意するということを、少しばかり深く見てみると、二種類のケースがあると気づきます。

一つは、その決意をすることに至った理由なり、原因がある程度分かるような場合です。こういったいきさつがあって、これを決意することになったという場合です。

その理由が明確であろうと、曖昧であろうと、いずれにしても何らかの原因があって、決意するという結果があるということです。

けれども、この場合に自由意志が使われていると感じるのは、単なる主観ではないかと思うのです。なぜなら、理由となる原因は、前もって与えられていたものだからです。

それは、生まれ持ったDNAと、生育環境などから与えられた条件付けの組み合わせによって、私たちは個人個人で反応の仕方が決まってくるのです。

その反応を持ちつつ、現在の状況が与えられた結果として、自分は決意したというように考えることはできないでしょうか?

与えられている条件があまりに複雑であるために、それを一つひとつ解明することはできませんが、原理的には充分理解できることだと思います。

そしてもう一つの決意するケースですが、それはそれを決意した理由がまったく自覚できないという場合です。

例えば、右と左のどちらを選ぼうにも、自分の中に選ぶための理由付けをすることができないようなケースがありますね。

それでも、最終的にはどちらか一方を選択するという決意が起こるのですが、それこそ自由意志などとは呼べないようなものではないでしょうか?

その結果は、どこかからやってきたとしか、いいようのないものです。何の理由も見当たらない決意ほど、自由意志と結びつかないものはありません。

というわけで、どちらの場合であろうと決意するという事象が起きたときには、自由意志があろうがなかろうが、それはただ起きたのです。

それは結果として、自由意志などないということになるのではないかと思うのです。これは、私の勝手な解釈ですので、鵜呑みには決してしないようにして下さい。

それどころか、充分に疑いを持って、自ら検証してみることをお勧めします。なぜなら、自由意志があるかないかという問題は、人生が根幹から変わることになる可能性があるからです。

悟りは何も与えてはくれない

ガンガジの本に次のような記述があります。

+——–

もう一つの自己探求の手段として、自分にこう尋ねてごらんなさい。

悟りは私に何を与えてくれるだろうか?

あなたがどれだけ正直になる気があるかによって、

こうした自己問答から得られる答えには無限の可能性があります。

正しい答えなどありません。正直になる、それがすべてです。

ちょっとの間、真剣に考えてみてください。

もしも悟りがあなたに何ひとつ、与えてくれなかったとしたら?

物理的にも、理性的にも、感情的にも、

そして状況的にも何ひとつ得られるものがなかったら?

実のところ、悟りはあなたにどんなものも与えてはくれません。

その真実を受け入れる意思があなたにはありますか?

それがあるならば、あなたは自由です。

その意思があなたになければ、あなたの心は、

願わくばあなたに自由を与えてくれる何ものか、に縛られたままでしょう。

+——–

昨年、自分とは誰でもない全体性だと感じてから、本当の自分の姿を可能な限り信頼できるようにと、自分なりの練習をしてきました。

そして、この文章に出会ったときに、足元をすくわれたような感じがしました。「確かに、実のところ、悟りはあなたにどんなものも与えてはくれません。」

ああ、そうだよなあと。一体自分は何を期待していたのだろうか。その期待している自己がいる限りは、本当の気づきはやってこないと分かっていたのに。

一周して、以前よりも淡々とした気持ちで、自己を観照する練習を続けていけそうな気がします。