エゴと共にいる

外側の世界とは分離した、肉体を持った個人としての自覚を持っている「私」のことをエゴと呼ぶことに異論はないはずです。

そして、ここに「私」がいるということこそが、苦しみの根本だということも分かっています。苦しみだけではなくて、快不快、幸不幸を感じるのも、「私」というエゴがいるからです。

そのために、多くの宗教はこぞって、そのエゴを消滅させることを目指したのです。その点においては、どんな宗教もある意味共通しているのです。

「私」というエゴを野放しにしておいて、真理を見出すことなどできないというのが、本質的な教えであるわけです。

けれども、ではそのエゴを作ったのは一体何者なのかという点については、いろいろな説明があるようですね。

例えば、奇跡のコースにおいては、神はエゴも含めてこの幻想の世界のことをご存知ないと断言しています。

これほどの苦しみの多い世界を神が作ったとしたら、神は何と無慈悲なお方なのだろうと言わざるを得ないとまで言っています。

つまり、エゴと神とは無関係であるということ。結局、エゴを作ったのは神の子である我々であり、それは神の知らないところで勝手な妄想によって作ったということです。

それに対して、現象界であるこの世界も、そしてエゴもすべては源泉から湧き出てくるものだという考え方もあります。

源泉というのは、神というのと同じと考えられますので、あらゆる一切合財は神である源泉から生み出されるということです。

つまり、「私」というエゴについても同じです。それぞれの教えによって、これほどの違いがあるわけですが、それでも私はどちらの説も否定せずにいるようにしています。

なぜなら、どちらを正しいとしても、それ自体が単なる自分の観念へのすり替えでしかないからです。真実は、私の理性を超えているということだけはわかっています。

いま、あらためて思うのは、常にエゴと共にいるということを心がけるようにしているということです。それが、エゴを否定せず、エゴと闘わず、エゴを乗り越えようとせず、エゴを手放そうともしないということです。

エゴに対して何もしないということこそが、エゴを弱体化する唯一の方法だと分かったからです。ただ、エゴを見ていればいいのです。

アウェイクニング・ワークショップ(2回目)開催

今週末の土曜日に、またアウェイクニング・ワークショップを開催します。前回、二月に行なったときには、想定を越える人数の方々が参加して下さいました。

残念ながら、今回はその半分くらいの人数になりそうです。本当はもっと沢山の方にいらして欲しいのですが、これも起きることがただ起きているということですね。

今回は、このブログでも何度も書いている、「私たちには自由意志がない」ということについて、徹底的にお伝えするつもりです。

科学的な根拠も動因します。なんていうと、ちょっとオーバーに聞こえるかもしれませんが、でもまずは理解するということが大切なのです。

受け入れるかどうかはともかくとして、事実を理解するということです。そして、後は各自でじっくり腰を据えてできる限りの検証をしていくということ。

その検証の方法についても、私なりのやり方をお伝えするつもりです。繰り返しになりますが、「自由意志はない」ということが検証から明確になれば、途方もなく大きな変化が生まれます。

その変化とは、罪悪感や不安感、憎しみや嫉妬、プライドや執着などからの自由を手に入れることになるということです。

これが本当の自由です。そのことについて、じっくりみなさんと一緒に考えて行きたいと思っています。

そして、自由意志を持たない「私」とは一体なんだろうか?という疑問が必ずやってきます。それはもう、私たちが信じている個人としての「私」ではなくなってしまうはずですね。

検証すればするほど、「私」というエゴは弱くなっていきます。ワークショップの一つの大きな目的はそれなのです。

みなさんとまた、楽しい時間をシェアできることに感謝です。

罪悪感から逃れるためにルールを守る

同性か異性かに関わらず、友人関係の場合には、頻繁に会ったりあるいは会わなくなったりといった変化があってもそれほど不思議なことではありません。

というよりも、互いのブームみたいなもので、しょっちゅう一緒にいる時期というものがあったりするわけです。

従って、なぜかブームが去って会わなくなっても、特別二人の仲が悪くなったというわけでもありませんね。

けれども、これが付き合っている二人となると、そう簡単には済まされなくなるのです。それは、付き合っているか別れたかの二者択一になるからです。

付き合っている状態であれば、当然二人は頻繁に会うだろうし、会わなくなるということは別れたということを意味するからです。

なぜそうなるかというと、付き合うということの中に一つのルールが暗黙のうちに内在しているのです。二人は付き合っているという契約のさなかにあるのです。

特に大人のお付き合いともなれば、性的な関係というものが入り込んでくるのが普通ですので、そうなるとどうしてもそこには何らかの制限というものが必要となるわけです。

つまり排他的な人間関係というものが、そこには必要になってくるのです。よほど、ぶっ飛んだ考えの持ち主でもない限りは、ここまでは了承していただけるはずです。

しかし、そのルールをあまりにも重視し過ぎると、互いの関係のなかに重苦しさというものが入り込んできてしまうのです。

その重苦しさとは、そのルールを守るための我慢だったり、責任感のようなものからやってくるのです。違反すれば、それなりの罪悪感が待っています。

確かに、相手を思いやる程度のルールは必要なのでしょうけれど、二人の関係を壊さないようにするため、あるいは罪悪感から逃れるために過度の責任を背負い込むと、返って望ましくない結果になってしまうかもしれません。

結局、ルールとはそれを守ることで罪悪感から逃れることができるためのものであるということができます。

罪悪感を恐れなければ、適度のレベルでルールを守るというスタンスを取れるはずなのです。それが、二人の関係をうまく続けるコツかもしれません。

関係がうまくいってもいかなくても、そこには必ず大きな気づきのチャンスがあります。一人でいるときよりも、何倍もの気づきを、お付き合いした人からもらえるのですから、ありがたいことですね。

何もしようとしなければ、一つになる

宇宙は、私たちを決して落ち着かせないようにと強いているのだと言われたら、それを本当だと思えるでしょうか?

理由は定かではありませんが、きっとこれは事実です。落ち着くということが、精神衛生上とても大切なことだと知りつつも、できずにいるのはそういうことです。

完全に落ち着く状態とは、落ちて落ちて落ちて、また落ちて、もう落ちることができないというところまで落ちて、そこで着地することを指します。

そう考えたら、それがどれほど普段の我々にとって難しいことなのか、容易に分かっていただけると思います。

落ち着くとは、あらゆる精神活動を停止してしまうということでもありますが、落ち着きにくいように、私たちは作られてしまったのだと思ってもいいかもしれません。

一つだけ思い当たる理由として考えられるのは、充分に落ち着いてしまうと、個人ではいられなくなるからだと思います。

私たちが個人としての自覚を持ちながら、人生を生きるには、決して落ち着いてはならないのです。私たちは走り続けるしかできません。

立ち止まったら最後、個人としてのこの「私」の化けの皮が剥がれてしまい、その瞬間に全体性へと戻ってしまうはずです。

精神活動は、そうならないためには是非とも必要なものなのです。その精神活動のほとんどは、自己防衛のために使われています。

精神活動をやめて、自己防衛をなくしていくことで、この世界には敵がいないということに気づくことになるのでしょう。

それでは、何かを恐れ続けたり、憎しみ続けることが不可能になってしまいます。その結果、他者との距離がなくなっていくことになります。

最後に残るのは、この現象界を生み出し続けている源泉としての自己です。もしも、私たちの三分の一くらいの人が落ち着くことができたら、この世界はどうなるのか、楽しみですね。

あらゆる質問がなくなる

それほど多くはないのですが、クライアントさんの中には、ご自身の生まれてきた目的を知りたいと思って、セッションに来られる方もいらっしゃるのです。

今回の人生の目的、あるいは今回自分は何を目指してこの世界にやってきたのか、何をするべきなのか、そういったことを是非とも知りたいということです。

こうした疑問というものは、確かに誰でも多かれ少なかれ持っているものだと思います。けれども、現状に強い不満がなければ、あまり真剣に考えたりすることもないはずです。

つまり、明確な自覚があろうとなかろうと、とにかく満たされていないという感覚や、生きるのが不自由だったり、大きな苦しみを抱えているからこそ、そうした疑問を持つことになるのです。

屈託なく、自由奔放に生きて、毎日を楽しんでいるような人が、真剣に人生の目的について考え続けるということはないのでしょうね。

私は、苦しみの中からこそ、大切な気づきというものがやってくると思っています。特に、人生に絶望することは、とても重要な経験だと思うのです。

そして、それ以上に大切なことは、この人生に何らかの期待をしている限り、決して心から満たされるということはやってこないということに気づくことです。

自分が生まれてきた目的、この人生で自分は一体何をするためにやってきたのかということを考える代わりに、この人生とは何だろうとということを考えるべきです。

人生とは価値ある自分を作り上げるためにあるのではなく、自分とは何かということに気づくためにあるということです。

人生に我々が期待しているような目的など、初めからありません。この世界の何かに価値があるのではなくて、この世界が現象として起きる源にこそ価値があると考えられます。

自分は何のために生まれてきたのかと質問するのではなく、自分とは何か?という質問をすることです。

その質問には答える必要もなくて、ただその質問をしている自己を見続けることです。そうすると、不思議なことが起こります。それは、一切の質問がなくなるのです。

この人生の目的や、生まれてきた理由などのような、どんな本質的な質問でさえ、消えうせてしまうことに気づくはずです。

なぜなら、質問をしている私(エゴ)を見続けていれば、その存在の危うさに気づき、そのうちには「私」が消えてしまうからです。

「分からない」ということが心の平和を生む

人生においては、物事を理解する、把握する、分かるようになるということが一つの重要なテーマとしてありますね。

それはきっと、分からないということが恐怖を生み出すことに直接的に繋がっていると思っているからなのかもしれません。

幼い子供は、迷子になれば大抵は泣きじゃくりだしますが、それもどこへ行けばいいのか分からない恐怖を感じるからですね。

逆に、分かっているということが一つの安心感に繋がるとも言えるわけです。けれども、分からないということそれ自体が恐怖であるかというと、実はそうでもないのです。

例えば、何も知らない赤ちゃんは、すぐそばに大蛇がトグロを巻いていても、大きなサソリが身体の上を這っていたとしても、何も怖がったりしません。

つまり、知らないことが怖さの直接の原因ではないのです。本当は、自己防衛、自分を護ろうとする気持ちこそが恐怖の原因なのです。

赤ちゃんには、まだ大人の私たちのようなエゴによる自己防衛が芽生えてないので、恐怖が少ないと言えるのです。

残念ながら、エゴを発達させて成人した私たちは、自分を護ろうとする必要以上の自己防衛を持ってしまうために、知らないことや分からないことが恐怖を生み出してしまうのです。

分からないことは、自己防衛にとっては確かに不利に働くはずだからです。私たちが、なかなか今この瞬間にい続けられないのは、それが一つの理由としてあるかもしれません。

過去から切り離された「今」というのは、本質的には何も分からない状態になるからです。何も分からない、何も知らないというのは自分を護ろうとする意志からすれば、とても危険な感じがしてしまうのです。

だから、これだけのことを自分は知っているよ、という過去にいつも生きていたいのです。けれども、何も分からない状態となってしまう「今」というのは、突き詰めれば自己防衛すら不可能だと気づきます。

それは恐怖を感じることさえも不可能にしてしまうはずです。万が一、感じたとしてもあっという間に消えていってしまうはずです。

なぜなら、今は常に瞬間瞬間新しい今を生み出し続けているので、いつも新鮮な状態でいられるからです。

瞑想中に、自分は何も分からないという「今」を体験しだすと、初めのうち何となく不安がやってくるかもしれませんが、そのうちには平和が訪れるのはこのためなんですね。

賢者は知覚の遅延がないはず

先日、人間の知覚には、最大で0.5秒の遅延が起きているということについて書きました。ただし、そのままだと不都合が起きて、とてもじゃないけど普通の生活ができなくなってしまいます。

そのために、実際にはアウェアネス(気づき)のレベルでは、自動的に0.5秒時間を前に戻すということをやっているそうです。

それで、つじつまが合うようにしているのです。本当に驚くべきことですね。ところで、では何でそれほどの長い時間が気づくために必要となるのかということを考えてみたいと思います。

奇跡のコースでは、私たちのやるべきことは、歪めてしまっている知覚の仕方を、聖霊の知覚のように正していくことだと伝えてくれています。

つまり、この0.5秒の間にあるがままの知覚情報を改ざんして、自分(エゴ)にとって都合のいいようにしているということです。そのための0.5秒だったということです。

生物学的には、きっと本能的な自己防衛の手段として使われているこうした機能を、エゴは異常に発達させてしまったのだろうと推測できます。

したがって、私たちが聖霊に明け渡すにしたがって、この0.5秒の遅延が徐々に必要なくなっていくはずだということになります。

そして、完全に明け渡されたとき、つまりエゴが消滅してしまったそのときには、知覚にまつわる0.5秒という遅延もなくなるのでしょうね。

脳神経科学者たちは、インドやその他の地に赴いて、覚醒した賢者を被験者にして詳細な実験をするべきだと思うのです。

きっと彼らだけは、0.5秒の遅延が起きないはずです。この知覚にまつわる実験によって、誰が本当の賢者なのかを見分けることができるということになりますね。

勿論、見分けることなどには何の意味もありませんが、誰もがあるがままを知覚することができない状態だということを科学的に明確化するということに価値があるように思います。

「私」の弱体化

先ほど、たまたまなのですが、YouTube で東京を上空からヘリコプターに乗って撮影した映像を見ていたら、それが沢山あって止まらなくなってしまいました。

その流れで、気がついたら UFO の映像を見出して、これまた止まらなくなって…。最近、本当にリアルでびっくりするような映像も沢山あるんですね。

実は、私自身も、つい3週間ほどまえに、クルマで自宅へ帰る途中に信号待ちしているときに、暗い夜空にとても怪しい物体を目撃してしまいました。

それは、片側がきれいな黄緑色で、もう片方がオレンジ色をした細長いもので、ス~っと下の方に流れていって、あっという間(たぶん2~3秒だった)に消えてしまいました。

自分がイメージしている、いわゆる UFO とは違う形だったので、その時には何だろうなというくらいで終わったのですが、その鮮やかな色が今でも脳裏に焼きついています。

暗い夜空にはまったく似つかわしくないものを見たなあという、そんな感覚なのですが、これまでそれほどはっきりとした目撃経験がなかったので、ちょっと嬉しいです。

けれども、一方ではまるで夢がないことを言うようですが、所詮自分の知覚に起こったことに過ぎないという認識でもあるのです。

不可解なものを見ても、あれは一体何だったんだろうと思うのは当然のことですが、それがいつまでも続かないのが、自分でも残念なことです。

要するに、どんな謎があろうと、それを謎だと思っている自分とは何なんだというところへ、結局行き着いてしまうのですね。

それ以上の謎など他には何もないわけですから。この謎の張本人である「私」が発生したのは、私の肉体的な誕生日ではなくて、それから数年が経過したころなはずです。

そして、「私」が死ぬのはきっと肉体の消滅よりも前になるだろうと思うようになりつつあります。「私」は少しずつ弱体化してきているのかなと思えば、思えなくもありません。

決意はやってくるもの

毎日の終わりに、その日一日の自分の行動を思い出して、どんなことをしたのか、どんな気持ちになって、何を選択したのかを追う作業をするようにしていました。

自分の外的な行動や内的な動きというものを、見つめるクセをつけてしまうと、この作業は意外と簡単なものとなるのです。

そして、単なる流れの中で自分が生活していることがほとんどだと気づかされます。それはもう、自分が主役というよりは流されて自動的に次々と物事が起きているということです。

そこには、自分独自の選択というものを見出すことはできません。けれども、ほんの少しだけ自分が決意して、次の行動を起こしたという感じがする場面もあります。

そこをよく見つめてみるうちに、自由意志による選択、決断て何だったっけ?という感覚になってしまったのです。

あれほど、自分は誰とも違う自分固有の意志を持っていて、自由に決意することができるはずだと思っていたのですが…。

今の感覚を素直に表現すると、あの選択がやってきた、あの決意が起こったというようにしか言えないということがわかったのです。

それは、例えて言えば「所有する」ということを当たり前の概念として、取り扱っていたものが、最近では所有という事実はないとしか言えないと分かったのに似ています。

所有とは、みんなで共有する「申し合わせ」に過ぎません。みんなで、示し合わせてこれはあなたのもの、あれは私のものと決めているだけです。

真に所有するとは、それと一つになる以外に方法はありません。したがって、この世界には真の所有というものはないということです。

それと同じようにして、自由意志による決意とは、そうした決意がやってきただけということになってしまいました。

どれほど重大な決断をしたとしても、それは単にそうした決断がやってきたということです。みなさんはどう思われますか?

理解から信頼へ

何か自分にとって、本当に大切なことを深く深く自分のモノにするためには、まず初めに理性によって理解することが必要となります。

それを本当には受け入れられなくても、否定的に思えたりしても、とにかく理解することができなければ、先へ進むことはできません。

しかし、頭で理解できたとしても、それを信用する必要はありませんし、むやみに信用することのないようにするべきです。

もっと言えば、信用せずに疑ってかかるということの方がいいのです。疑いを晴らすためにも、自分でそれを検証しようとする姿勢が大事なのです。

それを分析し、それを体験していく中で、少しずつ信頼を深めていくのです。信頼が一気に100%になることを期待しないことです。

焦らずにじっくりと腰を据えて、体験しながら検証を重ねていくのです。そして、自分の中でそれへの疑いがなくなっていけばいくほど、信頼が益々深くなっていきます。

そしてとうとう100%の信頼を得られるそのときに、検証し続けてきた主体である自己と、検証され続けてきた対象とが一つになるのです。

真実とはそういうものだと思います。一つになるということは、信用するかどうかという概念が消滅して、直接体験だけが在るということになるはずです。

完全なる信頼と、真の所有とは同じことを指しているのです。そこには、もはや主体と客体という関係は見当たりません。

もしも、「行為者はいない」ということに対して、上記のような検証をできる限りすすめていくことができたなら、きっと検証する行為者としての自己はいずれ消滅することになるのでしょうね。