観ることと一つになる

私たちは誰もが、丸裸で生まれてきます。何かを持って、手に携えて生まれてくることはできませんね。誰もが無一文でやってくるのです。

だからこそ、成長するにつれて、自分の力で足りないものを手に入れようと奮闘努力するようになるのです。お金にしても、善い評価にしても、車や家や地位や、知識、能力、そして家族だって手に入れるものです。

そして運良く望むものを手に入れられた人だけが、残念ながら恒久的な満足だけは手に入れられなかったということを知るのです。

手に入れられるものといえば、一過性の満足だけであったと気づくことになり、また次の満足を求めて手に入れる努力を続けていくことになるわけです。

そして「はた」と気づくのです。一過性のものをいくら追い求めたところで、結果はもう分かってしまっている。これはとても虚しい繰り返しだと。

それだけではなく、年齢を重ねるにつれて、人生で手に入れたものさえ死ぬことによってすべてが奪われてしまうことになる、その残酷な時期が迫ってくるのです。

そこで、とうとう永遠不滅な何かを求めようという気持ちがやってきます。その最たるものが覚醒なのです。真に覚醒した人だけが永遠の心の平和を得て、至福を手に入れられると錯覚するのです。

そしてまた今までと同じ、手に入れようとする奮闘努力が開始されます。結局、求めるものの趣が変化しただけで、この強烈な「足りないものを手に入れようとする」洗脳が手付かずのまま残っているのです。

この洗脳はそう簡単に取れそうにありませんし、取る必要もないのです。それよりも、覚醒だけは手に入れるということができないと理解すること。

なぜなら、ないものは手に入れることができますが、すでに在るものを手に入れることはできないからです。

真理への探求とはとてもシンプルなものなんですね。手に入れようとするのではなく、ただじっと観ること、ただ深く深く観ること。捜す必要さえない。

それはいずれ、観る主体と観られる対象がなくなり、観ることそれ自体に一つにまとまるのです。そこには覚醒した誰かはいないのです。

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