全体性へと消えていく恐怖

私たちは誰もが、心の奥底に全体性への回帰という願望を隠し持っています。それを愛と呼んでもいいのかもしれません。

そして、それとは真反対に、特別な個人でいたいというエゴの欲望も持っています。普段の生活の中では、このエゴの欲望ばかりが表面化しているのです。

全体性への死ぬほどの渇望というのを、エゴは最も恐れているので、一般的には本人にそれをひた隠しにしているわけです。

けれども、人は人生のある地点で、どういうわけか真の救いについて真剣にならざるを得ないときを迎えるものです。

つまり、全体性への強烈な渇望を持っているということに気づいてしまうのです。それは、言ってみれば青天の霹靂のような新鮮さと驚きを伴うものです。

そして、全体性へと近づこうとしたその瞬間に、途方もない恐怖に出会うことになるのです。それは、エゴが消滅してしまうことの恐怖です。

このままだと、残念ながら個としての自分が消えない限り、全体性への帰還を果たすことができません。

そうなったら、全体性への強い渇望とこの人生に対する暗澹たる気持ちがあるとしても、個としての自分を守ろうとしてしまうのです。

なぜなら、どれほど惨めな私であろうと、とにかく居るのですから。それならば、ほら、やっぱり個人として生きていくほうがいいだろ、ってエゴは囁くのです。

私たちは、個人としての自分が消えた後の保障を何も受け取らずに消えていくしかありません。それはとても勇気のいることだと言えます。

それならば、エゴとして生きている間に、エゴはそのままにして全体性を手に入れることができればいいわけです。

エゴが世界を見ている場所に意識を向けて見ると、個としての特徴がすべて消えてしまう自己と出会うことができます。そしてそれはいつでもここにあるのです。

そのことに完全なる信頼をおくことができるなら、全体性へと消えていくこと、つまり愛への恐怖から開放されることになるのでしょうね。