真理を求めることはない その4

またまた昨日に引き続き、 osho の言葉です。

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ああだ、こうだの状態に止まっていてはならない。
そのような営みを心して避けなさい。
あれとこれ、是と非の跡かたでもあれば、
心は混乱の中に失われる。’

難しい。
知識を捨てることまでは理解できる。

だが、もっと深く、
通常の知識よりももっと深い所には、善悪の良心がある。

「分かった。
私はもうキリスト教徒ではない、ヒンドゥー教徒ではない」
と考えることはできる。

だが道徳となると、善悪の判断となるとどうか。
道徳は、 キリスト教やヒンドゥー教とは違うと、
あなたは思っているのかね。

道徳は、人道主義者だ。
無神論者ですら道徳家だ。
無神論者はどんな宗教にも所属しない。
だが、彼もまた善悪に基づいて考える。

そしてこれは、求道者が解決しなければならない最も深い問題のひとつだ。
本当の求道者はあらゆる概念……善と悪…を落とさなければならない。

聞いた話だが、小さな船で何人かの人が旅をしていた。
と、突然、 海が狂ったように荒れ始め、今にも船は転覆しそうになった。
みんなひざまづいて祈り始めた。

この船にはよく知られた聖者と、これまた人に知られた罪人が乗っていた。
その罪人もひざまづいて言った。

「主よ、我らを助け給え」

すると、聖者がその罪人に近づいてきて言った。
「あまり大きな声を出さないように。
もし主がお前のことに気がつかれ、
お前もこの船に乗っていると知られたら、
私たちの誰ひとり、助かる者はいなくなる。
みんな溺れ死ぬことになる。
そんなに大きな声を出してはいけない」

だが、人を罪人と思えるような聖者が聖者であり得るだろうか。
もし、他人を罪人だと考えているのだとしたら、
そんな聖者が本当に本物の聖者であり得るだろうか。

その人は偉大な道徳家ではあるかも知れないが、
善にこだわり、まだ他人に対する非難を抱えている。
宗教的な人は、非難の心を持たない。
彼はただ受け容れる。
宗教的な人は、きわめて謙虚だ。

その人がどうして
「私は聖人だ。お前は罪人だ」
と言うことなどできよう。
宗教的な人は、ただ、善と悪のすべての枠組みを落とす。

僧?(ソウサン)は言う。
‘ああだ、こうだの状態に止まっていてはならない。
そのような営みを心して避けなさい。

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