自我にとって降参は死を意味する

大いなる教えとは降参することだ

自分のコントロールを放棄してしまうことだ

そして<全体>に自分を連れ去らしめるのだ

それが連れて行きたいところどこへでも–

流れに逆らって泳がないこと

自分を川の中に突き放すのだ

川になるのだ

そうしたら<川>はすでに<海>に向かっている

by osho

自我というのは、自分自身を自分のコントロール下に置きたいのです。簡単に言えば、自分のやりたいようにやりたいのです。

ところが幼い頃というのは、完全に親に依存しなければ生きていけないために、ある程度は親のコントロール下に入らざるを得ないのです。

その時には、惨めさを感じるわけです。自分をコントロールできることを前提としているのに、それができなければその落差によって惨めだという思いを生むからです。

一般的には自分のコントロールと親のコントロールの狭間で生きているのですが、場合によってはそのバランスが崩れてしまう場合もあります。

つまり親がコントローラーであったときには、コントロールのほとんどを親に譲らねばならないからです。

その時には、激しい惨めさがやってくるでしょうね。その惨めさから脱却しようとするのが人生の原動力になるわけです。

だから降参は自我にとっては自殺行為なのです。降参とは自分以外の誰かにコントロールを明け渡すことだからです。

降参することほど惨めなことはないと自我は考えるのですが、実は真の降参は自我の死を意味するのです。

降参すればどんな惨めさも苦悩も自我と共になくなってしまうのです。自我を救うか、惨めさや苦悩から解放されるのか、選択権はあなたにあるのですね。